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彼らは過去に、赤面する

 車を止めて待つこと、およそ十分。

 シートを少し倒し、スマホで暇つぶしにネットのニュース記事を流し読みしていた宏太は、突然「コツ、コツ」と助手席の窓を叩く音に肩を跳ねさせた。


 驚いて窓の外に目を向ける。


 「やっほ」


 そこには窓越しに小さく手を振る美鈴の姿があった。

 早朝で車どおりは少ないとはいえ、道路標識的にはグレーな停車。警察から注意でも受けるのでは、と勝手に身構えていた宏太は、ようやく体から余計な力を抜く。


 シートを起こしつつ、助手席側の窓を開けた。


 「おはよ、せんせ」

 「おはよう。カギ、空いてるから」


 短い言葉を交わし、美鈴を車内へ招き入れる。

 白いTシャツに、水色の薄手パーカーを羽織った美鈴は、シンプルながら年相応の可愛らしさが滲む装いだ。


 そんな美鈴が乗り込もうとした、そのタイミングで、

 「お久しぶりです、新田先生」

 低く落ち着いた声で名前を呼ばれた宏太は、反射的に肩をビクッと震わせつつ、視線を美鈴の背後に向ける。


 ゆっくりと声の主へと視線を向ければ、そこには見覚えのある中年男性が立っていた。


 白いワイシャツにベージュのスラックス。細身で、どこか影を落としたような雰囲気。

 一か月前、美鈴の家出騒動の際に初めて対峙した男――糸川直哉、美鈴の実の父親だった。


 その気まずそうな表情からは、どこかバツ悪そうな複雑な思いが滲んでいる。

 宏太は車道側へ注意を払いながら、一度車を降りた。


 「ご無沙汰しています……。以前はその、無礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした」

 あの時以来ずっと心に刺さっていた棘を、ようやく抜くような気持ちで、宏太は深く頭を下げた。


 ――1か月前。

 ゴールデンウィークが明けて、しばらくたったある日の校長室。

 美鈴の父は、家を飛び出した娘に会わせろと押し掛けるように来校したことがあった。

 しかし口から出るのは“世間体”を気にする言葉ばかりで、担任でもない宏太は思わず激昂。

 校長が間を取り持って父娘は歩み寄れたものの、宏太はその後、直哉と直接話す機会がなかった。

 だから今日が初めての謝罪だった。


 嫌味のひとつでも覚悟していた。しかし――。

 

 「いえ、私こそ無礼な物言いをしてしまい、申し訳ありませんでした」

 「えっ?」

 意外すぎる言葉に、宏太は思わず間抜けな声を漏らす。

 助手席では、美鈴が窓から顔だけ出して父と先生を観察していたが、口を挟む様子はない。


 直哉は続ける。

 「美鈴との時間を意識して取るようになってから、先生の言葉がよく頭に浮かぶようになりましてね。

 あの時、“娘の気持ちをわかっているのか”と問われて、迷いなく“わからない”と答えた自分が……今思うと恥ずかしい限りです」


 自嘲混じりのため息。

 その表情には、かつての刺々しさがほとんどない。


 「あの時の先生の言葉は、今になって痛いほど染みています。だからおかげで、もう一つ決心したことがあるんです」


 「決心……?」

 「美鈴との向き合い方はもちろん、逃げられた元妻に謝罪しようと思っています」

 「……っ」


 宏太はどう反応していいのか分からず、思わず言葉を詰まらせる。

 以前いつかのタイミングで宏太は、美鈴から数年前に両親が離婚している旨は聞かされたことがあった。

 幼い頃から多忙ゆえに家庭との時間を作れず、かつての糸川家は言い争いが絶えなかったという。

 

 とはいえそんな事情を知っているかもわからない――それどころか自分の娘のクラス担任でもない教師を相手に、よくもまぁそんな決心を穏やかな表情で言えるものだと、思わず宏太は感心してしまっていた。


 「それは……なんというか……思い切りましたね……」

 美鈴の父の告白の返事に、宏太は言葉を選びつつそんな当たり障りのない返しをする。

 これに美鈴の父は、初めて出会ったときには想像もできなかった柔らかい表情を浮かべると、

 「そうですね。以前の私なら決して思いもしなかったでしょう。元妻には許してもらえるとも思っていませんし、よりを戻して貰おうとも思っていません。ただ、自分の愚かさに区切りをつけたいと思ったんです。先生のお言葉が、そのきっかけを作ってくれました。本当に、ありがとうございました」


 深々と頭を下げる直哉に、宏太は慌てて制止する。

 「いや、頭を上げてください! 俺なんてただ感情的になって、大人気なく余計なこと口走っただけなんで……」


 視線をそらしつつ続ける。


 「俺、まだ子どももいないし、教師としても全然未熟なんすよ? 今思えば、知った風な口きいてただけなのに、よくそんな素直に受け止められますね……」


 恥ずかしさが込み上げ、頬が熱を帯びる。

 宏太の言ったことは、自分や美鈴の父に内心で思ったこと全てだった。

 だが直哉は揺るがない。


 「新田先生が言ったからこそ、です。受け持ちでもない美鈴のために、あれほど真剣に声を上げてくれた教師は他にいませんでした。担任に同じことを言われていたら、おそらく“問題解決のために言っている”としか思えなかったでしょう。純粋に美鈴を案じてくれた貴方だからこそ、私は耳を傾けられたのです」


 「そ、そうっすか……」

 「これから部活でもお世話になると聞いています。手のかかる子かもしれませんが、どうかよろしくお願いします」

 言いながら美鈴の父親は、ゆっくりと右手を宏太の方へ差し出してきた。

 宏太はいきなりのことに戸惑いつつも、素直に彼の手に自分の右手を重ねる。

 「こちらこそ。よろしくお願いします」

 

 しっかりとした握手。

 その数秒が、宏太の胸の奥に小さく火を灯した。


 (もっと……しっかりしなきゃな)


 そんな決意が芽生えた瞬間――。


 「せんせー! まだー?」


 緊張感を吹き飛ばすような美鈴の声が背後から響いた。


 「美鈴、お前なぁ……」

 直哉が苦笑し、握手は解かれる。

 「でも確かに、そろそろ時間みたいです。糸川さん、娘さんをお預かりします」

 「はい、よろしくお願いします。校長先生にもよろしくお伝えください」


 宏太は軽く頭を下げ、車へ戻る。

 再び車に乗り込んでシートベルトを締めると、

 「それじゃ、レッツゴー!」

 美鈴が声を上げながら、窓の外で立っている父親に手を振った。

 こうして最後まで美鈴の父に見送られながら、車は静かに発進した。



 「糸川の親父さん、なんか丸くなったな」

 走り出して少し経ったころ、宏太は自然と呟いた。

 校長室で再会したときもそうだが、今日の直哉はまるで憑き物が落ちたように柔らかな雰囲気を纏っていた。

 別人のような変化に、拍子抜けするほどだ。

 そんな宏太の心境など露知らず、美鈴はにやにやと含みのある視線を向けてくる。


 「な、なんだよ……」

 「別にー? たださ、お父さんとせんせー、男同士で勝手にドラマチックな空気になってさ。アッツーい握手までして、なんか可笑しかった」

 「いや、あれはお前の親父さんからだろ」

 「でもせんせーも手ぇ取ったじゃん。同罪だよ、同罪」


 茶化す声が妙に軽く、しかし緊張を溶かす効果は抜群だった。


 車は長岡市街地を抜け、田園地帯へ。

 国道8号線をゆっくり北上しながら、二人はクラスの話や学校の出来事など、取り留めもない会話を続けた。


 ――しかし、間に挟まる見附市を抜けて、三条市の看板が見えた瞬間、二人とも口をつぐむ。


 「そういえば、もうそろそろだね」

 「そうだな……」


 美鈴の声は緊張を帯び、宏太の声もわずかに硬い。


 片側2車線だった道は1車線へと狭まり、上越新幹線の高架下をくぐり抜ける。

 再び道幅が広がったあたりから、車内は静けさを増していった。


 美鈴は窓に頭を預け、慣れない景色をぼんやり見つめている。

 宏太も、無理に会話を探すことはしなかった。


 「そろそろ曲がるから、気をつけろよ」


 ウィンカーがカチカチと規則正しく鳴る。

 美鈴は返事をしないが、わずかに身体を起こした。


 やがて、スマホのナビが目的地への左折を指示する。

 宏太はハンドルを切った。


 車内の空気がふっと張り詰める。


 「あ、見えた」


 美鈴が小さくつぶやいた。

 フロントガラスの先に、待ち合わせのコンビニが姿を現す。


 ――笹川 絢音。

 いよいよ、宏太たちがまだ知らない”笹川 絢音”と向き合う時が迫ってきた。

 約束の時間まで、残り二十分。

 ハンドルを握る手に汗が滲む。

 もう後戻りはできない――そんな確信だけが静かに胸に沈んでいた。

 

 ともかく時間までは、まだだいぶ余裕がある。

 二人はどちらからともなく、気を落ち着かせるようにコンビニへ入った。

 店員のおばちゃんの「いらっしゃいませ」が、やたら大きく聞こえた気がした。


 そんな宏太は内心の緊張を誤魔化すように、近くに陳列されていた雑誌をパラパラと捲り始めた。

 一方の美鈴は仕切り直しと言わんばかりに化粧室に籠もって身だしなみを整える。

 店員から訝しげな視線が送られていることなど、このときの二人には気づく余裕さえなかった。

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