過去とコーヒーは、冷めていく
貞夫の車は、北東の空へ向かって滑り出した。
まだ宏太が荒れていた高校時代――きっかけはもう覚えていない。けれど、あの頃から貞夫に半ば強引に誘われ、夜のドライブへ出かけるようになった。
夜中のコンビニで缶コーヒーを買い、行き先も決めずに車を走らせる。とりとめのない話を交わしながら、街灯のオレンジが車体を斜めにかすめていく――それが、二人の“いつものドライブ”だった。
大学に進んでから、その習慣はいつの間にか途絶えた。
けれど今、ハンドルを握る貞夫の隣で、宏太は久しぶりにあの頃と変わらぬ沈黙を味わっていた。
会話の中身は、さすがにもう違う。仕事の愚痴、部活の話、由奈や爽たちの近況――どれも穏やかな話題のはずなのに、宏太の意識はずっと別の場所をさまよっていた。
(笹川の件……どうすべきか)
頭の奥でその文字がにじんで消えない。コーヒーの苦味を飲み下しても、胸の重さは抜けなかった。
やがて話題は、いつのまにか過去へと遡っていた。
海岸線に差しかかるころ、貞夫がハンドルを軽く叩きながら言う。
「そういえば昔、由奈が不良に絡まれかけた時のこと、覚えてるかい?」
宏太は眉をひそめた。
「忘れるわけ、ないじゃないっすか」
――高校二年のあの頃。
父親とうまくいかず、宏太の心はすっかり荒んでいた。他校の連中ともつるみ、喧嘩沙汰ばかり。停学も一度や二度じゃない。
ただ、それは暴れたいからではなく、誰にも触れられたくなかったからだ。殴っていれば、誰も近寄らない。それが当時の宏太なりの“平穏”だった。
そして――あの事件。
由奈が高校に入学してきた年。彼女は、何かにつけて宏太に声をかけてきた。当時の由奈はどちらかといえば物静かな性格だった。だからこそ、その不器用な優しさが余計に堪えた。
教師の娘に心配される――それは、屈辱以外の何物でもない。追い返そうとするほど、彼女は近づいてきた。
そしてある日、まるで別人のような姿で現れた。
スカートは危ういほど短く、髪は茶色に染まり、右手首にはピンクのシュシュ。胸元のボタンを外し、銀色のネックレスが小さく光っていた。
その格好で「どう? 似合う、かな?」と笑う声は、わずかに震えている。
いつもより明るい色が、彼女の不器用さを余計に際立たせていた――そう見えたのは、きっと宏太の方だった。
不器用な真似だと分かっていた。けれど、黙って見ていることしかできなかった。
――その日の放課後、事件は起きた。
年上の不良グループに、由奈が絡まれた。宏太が知ったのは、彼女からのSOSを告げる一本の電話。
『コウ君、助け――』
プツン、と通話が途切れた瞬間、全身の血が逆流する。思考より先に体が動いていた。
近くにいた同級生に息を切らして尋ねて回り、三人目でようやく「体育館のほうへ連れていかれた」と聞く。
焦りをそのまま足に叩き込み、宏太は駆けた。夕暮れの校舎の裏手――倉庫の方から、怒鳴り声と笑い声が入り混じる。
扉を蹴り開ける。薄暗い室内の奥で、由奈が怯えた目をしていた。乱れた制服、震える肩。
馬乗りになった男子の腕を、宏太は迷いなく掴んで引き剥がした。あとは、反射だった。
拳が骨を叩く鈍い音が続き、空気が元の静けさを取り戻すまで、数秒とかからなかった。
……その後のことは、もうよく覚えていない。
ただ、由奈の怯えと、泣きそうに笑った顔だけが、今も焼き付いている。
どうして、あんな真似をしてまで自分に関わろうとしたのか――それだけは、今も由奈本人の口から聞いたことがない。
けれど事件のあと、彼女はいつの間にか“いつもの由奈”に戻っていた。以前のように、気づけば隣に立って声をかけてくる。
そんな日々の中で、宏太はずっと罪悪感を抱えていた。由奈を傷つけたかもしれないという負い目と、守りきれなかった自分への苛立ち。
それでも変わらず接してくれた彼女の笑顔が、宏太の頑なな心を少しずつほぐしていった。
――事件のあと、貞夫に呼び出されたときは、正直殴られる覚悟をしていた。だが返ってきたのは叱責ではなく、深い謝罪だった。
『あの子を守ってくれてありがとう。本当に……すまなかった』
ほんの短い沈黙のあと、貞夫は息を整えてそう言った。
宏太は何も返せなかった。今回、由奈を狙ったのは宏太に因縁のある先輩グループだった。由奈が目をつけられた一因が、自分にまとわりついていたからだ――と考えると、責任の種は確かに自分の側にもある。
その自覚が芽生えてから、宏太の中で何かが変わった。荒れの底に沈んでいた不安や苛立ちが、ほんの少しずつ薄れていくのを、確かに感じた。
視線を正面に戻すと、夜の街灯が車窓を流れ、過去の光景を揺らす。
当時のことを反芻していた宏太に、貞夫は淡々とハンドルを握ったまま問いかけた。
「もしかして、まだ自分を責めてるのかい?」
宏太は無言で肯定する。
貞夫は小さく息を吐いた。
「何度も言うけど、あれは君のせいじゃない。むしろ、君が救ってくれたじゃないか」
そう言って、ドリンクホルダーの紙コップに口をつける。
間を置かず、もう一つの問いが落ちた。
「それより……あの時、由奈があんな真似をした理由、知ってるかい?」
「理由?」
「知らないようだね。結論を言うと――私のせいなんだ」
思いがけない言葉に、宏太の息が止まる。
「当時の私は仕事に追われていてね。妻も私も家を空けることが多かった。由奈は、寂しかったんだよ。だから少しでも宏太君に近づいて、寂しさを埋めようとした。……その結果が、あの事件だ」
「……ッ」
「でもね、それが君でよかった」
「は?」
「君がいなかったら、由奈はもっと危うい道を選んでいたかもしれない。あの子は人に気を使いすぎる。孤独が限界に達した時、何にすがったか……今なら君にも想像できるだろう?」
窓の外で、波が遠くで砕ける。静かな車内に白い音が滲む。
「つまり、何が言いたいんすか?」
「学生らしい孤独の向き合い方を、学生の君が教えてくれた――ということさ。あの頃の君がいてくれたから、由奈は“依存”を覚えずに済んだ。僕はそれを本気で感謝しているんだ」
「……校長」
「ん?」
「もし、由奈が“最悪な状況”にあったら、校長はどうしてました?」
貞夫はしばらくハンドルを握ったまま、目を細めた。
「意外だね、宏太君からそんな質問が出るとは。……放課後、菅谷君と話してたことと関係あるのかな?」
(感が鋭い……やっぱ最初から分かってたか)
宏太は小さく息を吐き、笹川絢音の噂を話した。話が終わるのとほぼ同時に、車は海岸線脇の駐車スペースに滑り込み、静かに止まる。
「続きは外で話そうか」
二人は夜風に迎えられるように車を降りた。潮の匂いが濃い。夏の気配がすぐそこまで来ている。飲みかけのカップに口をつけると、潮風と苦味が交じり合い、思いのほか悪くない香りがした。
「さっきの質問の答えだけどね」
貞夫が缶を傾け、視線を海へ投げる。
「もし由奈の心が壊れてしまったら、教師を辞めるつもりだったよ」
「えっ……? 本気、だったんすか?」
「娘すら守れない大人が、他人の子を預かれるわけがないからね」
宏太は言葉を詰まらせた。
「その割には、その……」
「“何もしてなかった”ように見えただろう?」
貞夫は静かに続ける。
「でもね、大人が首を突っ込んでも、本人の気持ちが整理できなければ同じことの繰り返しになる。当時の私は、悪化を恐れて足踏みばかりしていた。……情けない話だよ」
自嘲めいた笑みが、すぐ真剣な眼差しに変わる。
「でも君がいた。君が、あの子の中にあった強さを引き出してくれた」
潮騒が一瞬遠のいたように感じた。
「その時にね、僕は学んだんだ」
貞夫は缶を指先で転がし、ことんと止める。
「大人の仕事は“そばにいる”ことだ。子どもの悩みに冷静に寄り添い、依存から自然に抜け出すまで見守る。あくまで“そばにいる”のが仕事なんだ」
「それってつまり、生徒の悩みから逃げるってことじゃ?」
「痛いところを突くね。……でも、逃げるんじゃない。できることは限られているけれど、手を差し伸べ続ける。それが大人の責任だ」
「校長、自分が矛盾したこと言ってる自覚あります?」
「矛盾か……。確かに矛盾しているね」
「だったら――」
「だけどね」
言葉がやわらかく遮られる。
「結局それが一番なんだと僕は思う。私が言う感覚は分からなくてもいい。決まった正解なんてないんだから、宏太君は宏太君なりの生徒の向き合い方を探し続けなさい」
夜風が、コップの口で小さく鳴った。
「少し話を戻すけどね」
貞夫は微笑む。目の奥は真剣だ。
「笹川さんの件、もう解決の糸口は見えているんじゃないかな?」
「は?」
「菅谷君と糸川さん。あの子たちは自分の意思で動いている。誰かを助けたいと、純粋に思って。――それって、ものすごく尊いことだよ」
「確かに……」
「菅谷君は、困っている人の背中を決して見過ごさない芯からの優しさ。糸川さんは、自他を問わず問題に立ち向かう勇気と素直さ。部活を作って間もないのに、もう二人の“核”が働いた場面があった」
貞夫は夜空を仰ぐ。星は少ないが、風が澄んでいる。
「宏太君、これだけは覚えておいてほしい。受け持つ生徒も、自分の娘も――その将来に責任を持つ大人は、まず“可能性”を見つけ、誰よりも信じ続けなければならない。それは義務だ」
「可能性を見つけて、信じ続ける……」
宏太は反芻するように口にし、そして問う。
「でもそれって、何もできない大人の言い訳じゃないっすか?」
「時期早々に首を突っ込むのは、良くないって話だよ。その子が目指す将来の話を含めてね。だけど万が一のことがあれば、その責任は大人が背負わなければならない」
ふっと笑い、言葉が締まる。
「その覚悟なくして、子を育てる資格なし。……これが私の教育論だよ」
「教師って、縛られてばかりっすね」
「多感な時期の子どもを預かっているんだ。それだけ重い責任がある。――でもね、責任だけじゃない」
「え?」
「自分が身を粉にして寄り添った子が、立派に育った姿を見せてくれた時――その喜びは何ものにも代え難い」
宏太は苦笑を浮かべる。
「ほんと、教育バカっすね」
「ははっ。君にもその素質はあると思うけどね」
風が二人の間を抜け、潮の匂いが薄まる。
「けど、話してよかった」
「僕もだよ。改めて礼を言えてよかった」
沈黙ののち、宏太はふと、自分の父親を思い出した。干渉の少ない、遠くから見ているだけの人。
もしそれが、“信じる”という行為だったのだとしたら――。
「だったら、不器用すぎるだろ……」
「ん? 何か言ったかい?」
「なんもないっすよ」
貞夫が笑みを戻す。
「そういえば、もう今週だったね」
「え?」
「キャンプだよ。サークルの」
「あぁ……」
「そろそろ具体的な話を詰めよう。明日、集まろう」
「それはいいっすけど……」
「安心しなさい。笹川さんのことは私も注視しておく。いくら生徒に任せた方がいいと言っても、無責任に放るつもりはないからね」
「分かりましたよ」
宏太は冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。
いつもはゲンナリしながら口にするぬるい液体も、今は不思議と悪くない。
「それより、校長。俺、もうコーヒー切れました」
紙コップの底を振りながら言う宏太に、
「仕方ないなぁ」
貞夫は一瞬、呆けた表情を浮かべた。
だけどまたいつもの融和な笑みを浮かべ、
「そうだね、戻ろうか」
言いながら二人は車に戻り、再び走ってきた道を引き返す。
宏太はふと、助手席の窓を開けた。
潮風が車と夜を撫でる。紙コップの底で、冷めたコーヒーが波のように揺れた。
それでも、胸のどこかだけは、まだ温かった。宏太は確かな“ヒント”を得た気がしていた。




