プロローグ
「おまえ……ふざけてんじゃねぇぞッ!」
夜中のマンション一階。
父の怒鳴り声が壁を震わせ、直後に皿が砕け散った。
白い破片が飛び散り、床を転がってはタイルに当たり、甲高くカランカランと跳ねる。
その残響は静まり返った空間にいつまでもまとわりつき、消えそうで消えない。
リビングの蛍光灯は白々と明るい。
均一な光は影を奪い、部屋の隅々にまで冷たい現実を突きつけてくる。
壁紙の黄ばみも、床に散らばる食器の破片も、すべてを容赦なく照らし出す光。
その下で笹川絢音は椅子に背を丸め、両手を膝に置いたまま固まっていた。
体は小刻みに震え、心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと鳴り響く。息を吸うたび、喉がかすかにひりついた。
机の上には答案用紙が散らばっている。
赤ペンで記された「92」「87」「95」の数字。
誰が見ても十分に誇れる成績だった。胸を張っていいはずの結果だった。
けれど、この家ではそれは失敗の証でしかない。
「平均八割? それで満足してどうする!」
「絢音、あなたは常に一番上じゃなきゃ意味ないの。分かってるでしょ?」
母の声は刃物のように冷たく、父の額には怒りで浮かんだ血管が走る。
握りしめた手には破片が残り、かすかな血がにじんでいた。
それでも父は痛みを無視し、なおも睨みつけてくる。目の奥に宿るのは怒気というより、過去に挫折した自分自身への苛立ちのようでもあった。
(……どうして、褒めてくれないの)
(これ以上、どう頑張ればいいの)
答えのない問いが胸をかきむしる。
唇の裏を噛み切りそうなほど噛みしめ、涙を必死にこらえる。
反論すれば、さらに怒声が飛んでくるのは分かっている。
だから耐えるしかない。俯いたまま、時間が過ぎるのを待つしかなかった。
時計の針はとっくに零時を回っている。
窓の外では街灯の光が眠たげに揺れているのに、この家の中だけは嵐のように荒れ狂っていた。
*
翌日の放課後。
生徒会室には紙の匂いとプリンターのインクの刺激臭、そしてカチカチと打ち込まれるキーボードの音が満ちていた。
絢音は山積みになった資料を抱え、机に丁寧に並べていく。
肩に残る疲れは抜けきらず、睡眠不足で頭は少しぼんやりしていた。蛍光灯の明かりが目にしみ、瞬きをするたびに視界がちらつく。
「絢音くん、議事録の方どうかな?」
声をかけてきたのは、生徒会長の真鍋だった。
長身で、落ち着いた雰囲気を纏った上級生。
柔らかい笑みを浮かべるだけで空気を和ませる人柄は、誰もが頼もしく思う存在だ。
「もうすぐでできますよ!」
声を明るく整えて返す。内心は焦りと疲労でいっぱいなのに。
「やっぱり絢音君は頼りになるな。下級生とは思えないよ」
さらりと褒め言葉が落ちる。
(……まただ)
胸がきゅっと縮む。
褒められるたびに、期待という名の檻が強化されていく。
昨日の夜、割れた皿の光景と怒号が蘇る。
“八割では足りない。十割を取れ”――そんな声が耳の奥でこだまする。
「ふふーん! でも私はまだまだ上に行ける器なのです! 慢心しないで、ドンドンと上目指していきますよ!」
自然と口から出るのは、そういう言葉ばかりだった。
傍から見れば、いつも通り明るく元気なハイテンション。
けれど胸の内では、またひとつ重石が増えていくような感覚。
それでも真鍋は、何の疑いもなく微笑みながら「それは期待できるな」と返した。
――まるで“お前なら大丈夫だろ”と暗に告げられるように。
絢音が無理やり笑顔を貼り付けたまま手を動かしていると、真鍋の視線がふと窓の外へ流れた。
「……おや」
つられて絢音も覗く。
夕陽に染まるグラウンドの隅。
布の屋根を張り、小さな集団が輪になっていた。
笑い声を響かせながら、焚火台やコンロを並べている。
風に混じって薪が燃える匂いがかすかに漂い、夕焼け色の煙が空へと昇っていく。
「……あれは、アウトドア同好会だね」
真鍋がぽつりと漏らす。
グラウンドの隅。サッカー部の練習に邪魔にならないよう場所を譲りつつ、布のタープを張り、小さなテーブルやコンロを並べる集団がいる。
学校の端でやるには少し異様な光景だが、不思議と場違いな感じはなかった。
「確か、菅谷くんが代表を務めているんだよね」
「はい。糸川さんとか、校長とかも顔を出してるって聞きましたよ」
――アウトドア同好会。入学から間もない四月、校長の後押しで結成された新しい同好会だ。
まだ部員は数えるほどしかいないが、週に一度の放課後にこうして校舎の片隅で集まり、焚火を囲んだり、お茶を飲んだりを楽しんだりしている。
「遊び」と「部活」の境目にいるような、不思議なサークル。
真鍋はくすりと笑みを浮かべる。
「もはやほぼ校長が首謀して作ったサークルみたいだけど……あれはあれで、ちゃんと活動してるみたいだ」
その声音には、どこか楽しげな響きがあった。
絢音は思わず息を呑む。
(……全然ちがう)
自分の笑顔は、評価を得るための仮面。
窓の外の彼らの笑顔は、誰に強いられたものでもなく、ただ「楽しいから」生まれている。
風に混じって届く笑い声が、胸をじんわりと熱くした。
(羨ましい……。あの中にいたら、私も自然に笑えるのかな)
無意識に握りしめたペン先が、じりっと紙を抉った。
慌てて手を離すと、小さな黒い染みが広がっている。
「絢音くん、大丈夫かい?」
真鍋の声に、絢音はとっさに作り笑いを浮かべた。
「はい、ちょっと手が滑っただけです」
胸の奥に芽生えた熱を押し殺すように、再び資料の山に視線を戻す。
――だが、その小さな感情の芽は、確かに彼女の中に根を下ろし始めていた。