表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷めたコーヒーは、美味しくない 2  作者: やわらぎメンマ
1/2

プロローグ

 「おまえ……ふざけてんじゃねぇぞッ!」


 夜中のマンション一階。

 父の怒鳴り声が壁を震わせ、直後に皿が砕け散った。

 白い破片が飛び散り、床を転がってはタイルに当たり、甲高くカランカランと跳ねる。

 その残響は静まり返った空間にいつまでもまとわりつき、消えそうで消えない。


 リビングの蛍光灯は白々と明るい。

 均一な光は影を奪い、部屋の隅々にまで冷たい現実を突きつけてくる。

 壁紙の黄ばみも、床に散らばる食器の破片も、すべてを容赦なく照らし出す光。

 その下で笹川絢音は椅子に背を丸め、両手を膝に置いたまま固まっていた。

 体は小刻みに震え、心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと鳴り響く。息を吸うたび、喉がかすかにひりついた。


 机の上には答案用紙が散らばっている。

 赤ペンで記された「92」「87」「95」の数字。

 誰が見ても十分に誇れる成績だった。胸を張っていいはずの結果だった。

 けれど、この家ではそれは失敗の証でしかない。


 「平均八割? それで満足してどうする!」

 「絢音、あなたは常に一番上じゃなきゃ意味ないの。分かってるでしょ?」


 母の声は刃物のように冷たく、父の額には怒りで浮かんだ血管が走る。

 握りしめた手には破片が残り、かすかな血がにじんでいた。

 それでも父は痛みを無視し、なおも睨みつけてくる。目の奥に宿るのは怒気というより、過去に挫折した自分自身への苛立ちのようでもあった。


 (……どうして、褒めてくれないの)

 (これ以上、どう頑張ればいいの)


 答えのない問いが胸をかきむしる。

 唇の裏を噛み切りそうなほど噛みしめ、涙を必死にこらえる。

 反論すれば、さらに怒声が飛んでくるのは分かっている。

 だから耐えるしかない。俯いたまま、時間が過ぎるのを待つしかなかった。


 時計の針はとっくに零時を回っている。

 窓の外では街灯の光が眠たげに揺れているのに、この家の中だけは嵐のように荒れ狂っていた。



 翌日の放課後。

 生徒会室には紙の匂いとプリンターのインクの刺激臭、そしてカチカチと打ち込まれるキーボードの音が満ちていた。

 絢音は山積みになった資料を抱え、机に丁寧に並べていく。

 肩に残る疲れは抜けきらず、睡眠不足で頭は少しぼんやりしていた。蛍光灯の明かりが目にしみ、瞬きをするたびに視界がちらつく。


 「絢音くん、議事録の方どうかな?」

 声をかけてきたのは、生徒会長の真鍋だった。

 長身で、落ち着いた雰囲気を纏った上級生。

 柔らかい笑みを浮かべるだけで空気を和ませる人柄は、誰もが頼もしく思う存在だ。


 「もうすぐでできますよ!」

 声を明るく整えて返す。内心は焦りと疲労でいっぱいなのに。


 「やっぱり絢音君は頼りになるな。下級生とは思えないよ」

 さらりと褒め言葉が落ちる。


 (……まただ)

 胸がきゅっと縮む。

 褒められるたびに、期待という名の檻が強化されていく。

 昨日の夜、割れた皿の光景と怒号が蘇る。

 “八割では足りない。十割を取れ”――そんな声が耳の奥でこだまする。


 「ふふーん! でも私はまだまだ上に行ける器なのです! 慢心しないで、ドンドンと上目指していきますよ!」

 自然と口から出るのは、そういう言葉ばかりだった。


 傍から見れば、いつも通り明るく元気なハイテンション。

 けれど胸の内では、またひとつ重石が増えていくような感覚。

 それでも真鍋は、何の疑いもなく微笑みながら「それは期待できるな」と返した。

 ――まるで“お前なら大丈夫だろ”と暗に告げられるように。


 絢音が無理やり笑顔を貼り付けたまま手を動かしていると、真鍋の視線がふと窓の外へ流れた。

 「……おや」


 つられて絢音も覗く。

 夕陽に染まるグラウンドの隅。

 布の屋根を張り、小さな集団が輪になっていた。

 笑い声を響かせながら、焚火台やコンロを並べている。

 風に混じって薪が燃える匂いがかすかに漂い、夕焼け色の煙が空へと昇っていく。


 「……あれは、アウトドア同好会だね」

 真鍋がぽつりと漏らす。


 グラウンドの隅。サッカー部の練習に邪魔にならないよう場所を譲りつつ、布のタープを張り、小さなテーブルやコンロを並べる集団がいる。

 学校の端でやるには少し異様な光景だが、不思議と場違いな感じはなかった。


 「確か、菅谷くんが代表を務めているんだよね」

 「はい。糸川さんとか、校長とかも顔を出してるって聞きましたよ」


 ――アウトドア同好会。入学から間もない四月、校長の後押しで結成された新しい同好会だ。

 まだ部員は数えるほどしかいないが、週に一度の放課後にこうして校舎の片隅で集まり、焚火を囲んだり、お茶を飲んだりを楽しんだりしている。

 「遊び」と「部活」の境目にいるような、不思議なサークル。


 真鍋はくすりと笑みを浮かべる。

 「もはやほぼ校長が首謀して作ったサークルみたいだけど……あれはあれで、ちゃんと活動してるみたいだ」


 その声音には、どこか楽しげな響きがあった。

 絢音は思わず息を呑む。


 (……全然ちがう)

 自分の笑顔は、評価を得るための仮面。

 窓の外の彼らの笑顔は、誰に強いられたものでもなく、ただ「楽しいから」生まれている。

 風に混じって届く笑い声が、胸をじんわりと熱くした。


 (羨ましい……。あの中にいたら、私も自然に笑えるのかな)


 無意識に握りしめたペン先が、じりっと紙を抉った。

 慌てて手を離すと、小さな黒い染みが広がっている。


 「絢音くん、大丈夫かい?」

 真鍋の声に、絢音はとっさに作り笑いを浮かべた。

 「はい、ちょっと手が滑っただけです」


 胸の奥に芽生えた熱を押し殺すように、再び資料の山に視線を戻す。

 ――だが、その小さな感情の芽は、確かに彼女の中に根を下ろし始めていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
新章始まったのを知れて良かった。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ