第1幕 第3話 初襲撃
日が落ちると、村の縄は雨に合わせて低く鳴いた。
民宿の廊下は、磨かれた床板の匂いが濃い。部屋の鍵を二度確かめ、灯りを落として窓の外を見張る。
約束どおり、夜は外に出ない。出られない――が、外の気配だけは、いやでも入ってくる。
遠くで拍子木がカン、カンと二度。合図なのだろう。
すぐに別の場所で一度だけ鈴が鳴り、雨脚の向こうに人の声が細く重なる。
スマホは圏外のまま。メモ帳だけが頼りだ。
俺は膝の上でペンを回し、今日の昼の食い違いを三行で書き出す。
二十時の詰所の灯り/勝→点いていた/長谷川・なお→消えていた。
紙の上で線を引いていると、廊下をそっと踏む足音がした。田島ちかの足取りだ。部屋の前で一瞬止まり、また離れていく。
見回りだ。ここでは、夜は建物の中を回る。外は縄と雨に任せる。
戸を叩く音がして、控えめな声。
「相馬さん、起きてる?」
「はい」
「戸は開けないでね。念のための連絡――二十三時、停電があっても慌てないで。古いラインだから一瞬落ちるかもしれない」
「了解です」
声が遠のき、代わって床板がきしむ重い足音が一つ。
窓の隙間から、斜め下の坂道に立つ人影が見えた。傘は差していない。胸の前で腕を組み、誰かの家の戸の前に立ち続けている。
顔は見えない。背丈と立ち姿だけが、雨にぼやけた輪郭で残る。
――狩人か。
この村の役の名前はもう覚えた。夜に一人だけ守る人。自分は守れない、と昼に付け足されていた。
誰を守っているのかは分からない。ただ、一ヶ所に長くとどまる影は、ここでは目立つ。
二十三時を少し回って、本当に灯りがふっと落ちた。
廊下から小さな悲鳴。窓の外はすぐ暗に馴れ、雨だけが続く。
十呼吸ほどの闇のあと、灯りが戻る――が、その刹那、鈴の音が二度、近くで鳴った。
背筋が冷える。
窓の下の坂道、さっきの影がいない。
代わりに、神社のほうの黒が一段階深くなった気がする。形容しがたい“濃さ”が、しばらく留まり、ゆっくりとほどけていく。
廊下を走る音。田島だ。慌てた動きではない。速く、でも乱れない。
どこかの戸を叩き、「中にいて」「鍵を」と短く言い残してまた走る。
階段のほうから宮守 かぐらの声が小さく聞こえ、すぐに消えた。彼女は神社側の人間だ。夜の帳の内側で何かを確かめる役割を持つ。
俺は窓から目を離さず、耳で部屋の周囲を測る。
階下の玄関で雨の匂いが一瞬だけ強くなり、すぐ乾いた空気に戻った。誰かが出入りしたか、戸を開けただけか。
雨と縄の音、遠い拍子木、たまに犬。
その間に、ひどく短い走り書きの音がひとつ。紙に何かを書いてすぐに破ったような、ざらついた音。
やがて、村じゅうの音が少しずつ退いていった。
拍子木も鈴も鳴らない。雨だけが長く、均一に落ちる。
夜はゆっくりと、もとの暗さへ戻っていった。
――眠れるわけがない。
それでも、目蓋の裏が重くなったころ、外で低い笛の合図がひとつ。
それで今夜が終わる合図だということを、今日の朝のやり取りから察した。
明るむ前に、田島ちかが戸口の向こうから声をかける。
「相馬さん、大丈夫?」
「はい」
「朝いちで神社。名前の確認が先よ」
短いやり取りのあと、足音が離れていく。
俺はジャケットに腕を通し、メモ帳を胸ポケットに差した。
部屋を出る前に、もう一度だけ窓の外を見る。
坂道の上――本殿の裏に続く小道の泥が、一列だけ深くえぐれていた。夜の間に何度も踏み固められた跡。雨で流れず、残った線。
息を吐き、鍵を回す。戸が小さく鳴った。