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第1幕 第1話 迷い雨

山を降りるはずの一本道で、カーナビはなぜか北東の空を示していた。

 ワイパーが雨筋をはじくたび、フロントガラスに白い線が走る。わらで編んだような、細い縄の線。

 視界がひらけた瞬間、それは本物になった。太い縄が、道を水平にふさぎ、雨を受けて低く鳴っている。


 俺はブレーキを踏み、非常灯を点けた。

 縄の向こうで、誰かがこちらを見ている。顔の半分を雨合羽あまがっぱのフードで隠し、手に小さな箱を提げた少年だった。


「すみません、ここ、通行止めっす」


 助手席側の窓を少しだけ開けると、冷たい雨の匂いと一緒に声が入ってきた。


「止めてるのは、その縄?」


「“村の縄”って言います。いま、夜の張り替え中で。……すぐ脇に寄せてもらって、民宿で雨宿りしたほうが」


「民宿?」


田島たじまさんとこ。案内します」


 少年――早見 しゅんは、慣れた足取りで縄をまたぎ、俺を誘導した。車を路肩に寄せると、彼は手早くコーンを置き、会釈した。

 縄は、道路の両側に立つくいに結ばれている。鳥居でも標識でもない。ただの縄。なのに、越えたくない、と体が言う。


 民宿は、木の匂いがする二階建てだった。格子戸をくぐると、畳の乾いた香りと湯気のぬくもりが迎えてくれる。


「いらっしゃい。……まあ、ずぶ濡れじゃないの」


 出てきたのは、エプロン姿の女性――田島 ちか。差し出されたタオルを受け取り、礼を言う。

 湯呑みが手の中で熱を返すころ、壁の時計は十九時を少し回っていた。


相馬そうまです。相馬みなと。すみません、道に縄があって」


「はいはい、“村の縄”。夜は張るの。外からの人が来るのは珍しいけど、座って温まっていきなさい」


 ちかは急須を傾けながら、廊下の先を気にする目つきをしていた。外は、誰かの掛け声と木槌きづちの音が続いている。

 雨脚は弱まらず、のきを叩く水音が一定のリズムを刻む。


「さっきの、早見くんって?」


「しゅん。配達の子。足が速くてね。あの子がいなきゃ祭の時期は回らないのよ」


 格子戸が音を立て、白い合羽のフードを外した少女が入ってきた。濡れた黒髪をきゅっと束ね、こちらに軽く頭を下げる。


「こんばんは。宮守 かぐらです。田島さん、縄の張り替え、三本目が終わりました」


「ご苦労さま。こっちは相馬さん。道に迷って来たのよ」


 彼女は俺に向き直り、落ち着いた目で言った。


「今夜は外に出ないでください。村の縄が張ってある間は、村の中でも移動は控えます」


「移動を控える?」


「音に引かれるから」


 言葉の意味を測りかねていると、かぐらはほんのわずか笑って、言い方を変えた。


「……夜は、気持ちが荒れやすいんです。雨もありますし。だから、みんな夜は建物の中にいます」


 ちかが湯を継ぎ足しながら、軽く頷く。


「明日の朝、神社で集まりがあるの。昼は話し合って多数決、夜は“人狼”が一人を襲う――って、ここでは最初にそう確認するの。外からの人にも同じように説明しないと、混乱するからね」


 さらっと言われて、湯呑みを持つ手が止まった。


「人狼?」


「言い方がきつかったかしら。昔からの“決めごと”よ。どこにでも揉め事はあるでしょう? 昼は言葉で決める。夜は……誰かが誰かを傷つける。そうならないように、朝に全部、確かめ合う」


 柔らかい口調なのに、骨が硬い話だ。

 外で、縄がまた低く鳴った。風の向きが変わったのか、雨の匂いが藁に混じる。


「観光の予定なら、明日、縄が緩む時間に出られるよう、うちで段取りするわよ」


「助かります」


 口ではそう言いながら、視線は勝手に障子の隙間へ向く。

 薄い紙越しに、軒の暗がりが揺れる。人影――のようなものが一瞬止まった。雨のとばりの向こう、顔の高さに白い何かが浮かび、すぐ消えた。


「……誰か、いました?」


 俺の声に、ちかはすぐ障子を開けた。軒下には雨樋あまどいから落ちる水筋だけがある。

 かぐらが静かに言う。


「見間違いじゃないなら、“見回り”の人です。縄が緩んでいないか、夜は交代で見ますから」


 見回り――その表現の硬さが、この村の夜を想像させる。

 しゅんが湯飲みを両手で温めながら、戻ってきた。


「田島さん、四本目行くって。俺、先回りします」


「はいはい、気をつけて」


 少年はまた、雨へ溶けるように去っていく。

 ちかが俺の荷物を受け取り、二階の部屋へ案内してくれた。広くはないが、清潔な六畳。窓からは坂道と、縄を張る一団の灯りが斜めに見える。


「相馬さん、夜中は鍵、ちゃんと閉めてね。なんかあったら呼んで」


「“なんか”?」


「風で戸が鳴ったり、猫が走ったり、古い家だからね」


 ちかは肩をすくめ、軽口で不安の形を崩すのが上手い。

 ひとりになり、荷物をほどく。スマホは“圏外”。電波は雨に弱い。

 ベッドに腰を下ろすと、床からきしみが上がる。窓の外、縄の音が間遠まどおになった。


 ――ここで、夜を越す。


 そう考えた瞬間、胸の奥が少し冷えた。知らない地図の上に、自分だけがぽつんと置かれた感じ。

 それを打ち消すように、俺はメモ帳を出し、今日のことを三行で書く。


 村の縄/民宿/明日、神社の集まり。

 インクが紙に沈む音が、やけに大きく聞こえた。


 電灯を落としても、外の雨は止まない。

 いつの間にか浅い眠りに落ち、ふと目を覚ますと、遠くで犬が一度だけ吠えた。間を置いて、誰かの短い叫び声。

 起き上がって耳を澄ます――が、それっきり何も続かない。

 俺は躊躇し、窓辺に寄る。黒い坂道の下、灯りが二つ三つ集まって動いている。人の気配の密度が、こちらに向かう途中でいったん止まり、すぐ散った。


 戸を叩く小さな音がして、体が固まる。

 そっと近づいて「はい」と声をかけると、向こう側で、少しの間のあと、かぐらの声がした。


「起こしてすみません。合図があったので、お伝えだけ」


「合図?」


「……明日の朝、一人、名前が呼ばれません」


 何を意味するのか、すぐには理解できなかった。

 かぐらは続けて、少しだけ声を落とした。


「ここでは、そういうふうに朝が来ます。怖がらせるつもりはありません。ただ――昼は多数決、夜は人狼。明日、神社で詳しく」


 足音が離れていく。

 雨と、縄の低い鳴きが、しばらく同じ高さで響き合っていた。

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