自殺行為
「お兄、朝だぞっ! 七時だぞっ! 起っきろー!」
自室のドアがけたたましい音で開かれ、喧しい声が聞こえてくる。
遠慮のないドタドタと床を踏む振動が伝わって来て、カーテンが開く音がしたと同時に目を焼くような光が瞼の裏の暗闇を消す。
俺は耐えれずに掛け布団を頭まですっぽり被る。──が、すぐに強い力で剥がされた。
まばゆい日光を受けて気分が悪くなりながらも、なんとか上体を起こして薄目を開ける。
すぐそばには妹の逢花が突っ立っており、明らかな作り笑いを浮かべている。
「お兄、おはよー」
「……お前さぁ。毎朝毎朝、乱暴な起こし方は勘弁してくれ。心臓に悪い」
「だってこのぐらいしないとお兄起きないじゃん。放っといたらいつまでも寝てるし」
「人をナマケモノ扱いするな」
「してないよ。お兄は純然たる引きこもり野郎だから、可愛らしいナマケモノに失礼でしょ」
「……昨日は夜中の四時ぐらいまで起きてたんだ。もう少し寝かせてく……」
「は? 四時? せめて零時には寝ろって言ったよね? 昼夜逆転すんなって言ったよね?」
「仕方ないだろ。眠れないもんは眠れないんだから」
布団に入ると余計な思考が頭の中を駆け巡り、睡眠を妨げる。あの日からずっとだ。
逢花はこれみよがしにため息をつき、幾ばくか真面目な顔つきになる。
「お兄の気持ちは痛いほど分かるけど、そろそろ乗り越えよ。ずっと部屋に籠もりっぱなしだと考えも進まないし、何より体に悪いよ」
「…………」
「きっとハルちゃんだって元気なお兄を望んでるよ」
「……それはお前の妄想だ。どう思ってるかなんて本人しか分からない」
そしてもう本人に訊くすべすらないのだから。
逢花は「ああもうっ、辛気くさい辛気くさい!」と臭気を振り払うように両手をバタバタさせ、
「──というわけでっ。今日はお兄にミッションを課したいと思います!」
脈絡なしに、ポケットから一枚のメモ用紙を取り出して突きつけてくる。
「ミッション?」
「食材の買い出しに行ってきて。ちゃんとメモどおりに買えるかな?」
「初めてのお使いみたいに言うな。嫌だよ、休校日に出歩いて同級生にでも会ったら面倒だ」
「お兄に拒否権があると思ってるの? 学業を疎かにしてヒキニート三昧をしてるお兄に?」
「それは……」
「あぁ、今頃お父さんやお母さんはわたしたちが不自由なく暮らしていけるように汗水垂らしながら一生懸命働いてくれてるんだろうなぁ」
「…………」
「せめて家事の負担だけでも減らしてあげたいなぁ。でもわたし一人じゃ手が回らないなぁ」
「………はぁ。分かった、行けばいいんだろ行けば」
ベッドから足を下ろして立ち上がり、逢花の手からメモ帳を取る。
すると逢花はやけに嬉しそうな顔をして「うんうん。それでこそわたしの好きなお兄だ」と調子の良いことを言った。
***
無事に買い物が終わってスーパーの自動ドアを開けると、ムワッとした熱気が流れてきた。
「あつい……」
梅雨明けの七月上旬。先月のジメジメとした気候が嘘のように空気が乾燥していて、空に見える太陽は怒り狂ったように燃えている。
額から流れる汗を拭い、購入品が入った重たいエコバックを肩にかけながら帰路につく。
歩いていて、学校へ行っていた三ヶ月前と比べると体力や筋力が落ちているのが分かる。さらに店の冷房に染まってしまった体だと暑さを敏感に感じ取って行き道よりもきつい。
それを見越していたのだろう、逢花がやっぱり一緒にいくと言ってきたが、さすがに高二にもなって中学生の妹に付き添われるのは(しかも近所のスーパー)兄としての沽券に関わる。……まぁ引きこもっている時点で沽券もクソもないが。
今のところ知り合いに会わなかったことだけが幸いだ。またあの、どう接していいのか言葉に迷うような気遣いを受けると居た堪れなくなる。
でも悪いのは前向きになれない俺か……。
頭では分かっている。こんな生活を続けたところで何の意味もないことに。
だけど外を出歩くたびに、学校に行くたびに、嫌でも現実を直視することになる。
もう彼女は世界のどこにもいないのだと。
「……あー、やっぱダメだな。早く家に帰ってゲームの続きでもするか」
頭を掻き毟って一旦思考をリセットしたあと、体力が許すかぎりの早歩きで道を行く。
そうして帰り道の河川敷を歩いていた時だった。
目先の橋梁で一人の少女が佇んでいるのが見えた。
訳も分からず足を止めてしまうほど、不思議と目を奪われた。
腰まで伸びる髪は黒絹のように繊細で美しく、その下の切れ長の目は虹彩が異なり右にエメラルド、左にサファイアの宝石を埋め込んだように透き通っている。端正な顔は憂いに満ちていて、その全体像がまるで一枚の絵画を前にしているような錯覚をもたらす。
俺が通っている(いた)楠木高校の制服を着ている。同級生にも上級生にもあんな目立つ生徒がいた記憶がないから、新入生か。
一目惚れなんて安い好意から見入ったわけじゃない。一度視界に収めると目が離せない、そんな異質なオーラを彼女から感じた。
黒髪の少女は眼下を流れる川をジッと見つめている。
一体何をしているのか、と疑問に思った瞬間。
「────ッ!?」
俺は目を疑った。少女が欄干に手をついてそのまま乗り越えたのだ。
その予想外の行為が〝自殺〟という不吉な考えを頭に過らせ、俺は荷物を放り出して駆け寄る。
「おいッ、バカな真似はやめろ!」
自分の持てる精一杯の声を張り上げるが、少女はベッドに倒れ込むように身を投げた。
────死。脳裏で彼女の最期がフラッシュバックした。あの最悪の光景が。
その時にはもう、俺は欄干を乗り越えていた。コマンドによって制御されているロボットのように感情よりも先に体が動き、少女のあとを追って橋梁から飛ぶ。
コマ送りのように時間が遅く感じられる中、俺に気づいた少女がこちらを向いて驚いたように目を見開いたのが分かった。
水飛沫を上げて川の中に消えていく少女の姿を見た一秒後、俺の体にも激しい衝撃が伝わる。
その強い刺激や水の冷たさによって、ようやく思考ができるようになった時だった。
「……あがっ……もがっ……!」
自分がカナヅチであることを思い出したのは。