浄化の儀式
夕方。
あと一時間で儀式が始まる。
俺は借りた部屋から出てユミルの自室に向かった。
森民の来訪は午前中で終わり、少し早いお昼ごはんを食べたあと、ユミルが儀式に備えて仮眠を取るというので、俺は邪魔しないよう部屋で静かに過ごしていたのだ。
儀式の一時間前ぐらいに起こしに来てほしいとお願いされていたので、自室のドアの前まで行き、軽く二回ノックする。
「ユミルー。一時間前だぞー」
驚かせない声量で呼びかけると、中から人の動く物音が聞こえてきて勢いよくドアが開く。
現れたユミルは「もうすぐで儀式の時間だね!」と何やらとびっきりの笑顔だ。
「おおっ、やけに元気だな。そんなにぐっすり眠れたのか?」
「うん! 良い夢を見れたの、長年抱いてたことが叶う夢!」
「……逆にそれは残念じゃないか?」
「ううん、きっと正夢になるよ!」
「ポジティブだな……」
一体どれだけ良い夢を見たのか。気にはなるが、このテンションが高い調子だと長話になって儀式に支障をきたすかもしれない。明日にでも聞こう。
「それで。もう一時間前だけど、このまま御神木に行くのか?」
「そうだね。……あ、わたしはちょっと準備があるからキヨツグは先に行っててくれるかな」
「まだ何かあるのか? 俺にできることだったら手伝うよ」
「あー……その、恥ずかしいことなんだけど、ちょっと寝汗をかいちゃって……」
よく見れば額の髪や上着の首元が少しだけ濡れている。
なんだか扇情的に見えてきてしまって目を逸らす。
「着替えるだけなら待ってるけど」
「んーっと、水浴びしよっかなって。そうなると時間がかかっちゃうし、どのみちわたしはラナフィナの家に寄らないといけないから、やっぱりキヨツグは先に行ってて」
「それなら分かった」
「道は覚えてる? 迷わない?」
「子供を心配する母親か。さすがに昨日の今日で忘れないって」
「ふふ、なら大丈夫だね」
そこで会話を終え、とくに持ち物はないのでそのまま玄関に向かう。
その時、背後から「キヨツグ」と呼ぶ声が聞こえて振り返った。
「わたしの想いが届くよう頑張るね」
不意打ちの穏やかな表情に思わずドキッとし、俺は「あ、ああ」とだけしか返事できなかった。
***
ユミルの家を出て歩くこと二十分、やっと御神木の場所に辿りついた。
御神木の前には大きな祭壇(御神木と比較するとどうしても小さく見えてしまう)が設置されており、街で育てられた色とりどりの食物たちが捧げられている。
広場には大勢の森民の姿がある。健康観察で見回った時の記憶だと、子供からお年寄りまでのほぼ全員がいると思っていいだろう。森の中を行く途中で、数人に手を貸してもらいながら何とか歩くラウルさんの姿も見かけた。
「…………」
みんな、御神木を見上げている。その顔は真剣で、隣り合った人と会話する素振りさえない。
空気はこんなにも澄んでいるのに、行き詰まるような静けさで満ちている。ユミルやラナフィナの堂々とした態度からして心のどこかで楽観視していたが、やはり神聖な行事のようだ。
場違い感に居た堪れなくなっていると、不意に肩を叩かれた。
振り向くと、それはアリウスさんだったようでいつものスマイルフェイスを見せる。
「やぁ。キヨツグ君も来てくれたんだな。一森民として嬉しいぞ」
「こんにちは。お世話になってる身として知らんぷりするのは失礼ですし、個人的にもどういったものなのか興味があったので来てはみたんですけど……荘厳な雰囲気ですね。毎年こんな感じなんですか?」
「だな。御神木は森の要、その行く末を決める日となればオレでさえ身が引き締まるからな」
「とても大切な行事なんですね。何も分かってない余所者の俺がいるのは申し訳ないです」
「余所者だなんてとんでもない。この場に足を運んでくれただけでもありがたいし、特にキヨツグ君はこの二日間ユミルに協力してくれたじゃないか。むしろこのまま居続けてほしいぐらい、みんな感謝してるさ」
「俺はただ時間を持て余してユミルに同行してただけで、大したことはしてないですよ」
「はは、謙遜するな。無茶する妹のそばにいてくれるだけでも兄としては安心できるんだ」
むしろ身元不明の男が一緒にいることを憂慮すべきじゃないのか。やっぱり普通の人とは思考がズレているような気がする。ユミルも似たような対応だったし、兄妹揃って人を疑うことを知らない善人なのか。
アリウスさんは辺りを見回す。
「それでなんだけど、今ユミルはどこにいるんだ? 一緒に来たんだよな?」
「いえ、準備があるから先に行っててほしいって言われたので、家で別れました。たぶん今頃はラナフィナの家に向かってるんじゃないですかね」
「……キヨツグ君は今日の朝からユミルと一緒にいたんだよな?」
「いましたけど……? 午前中は家に来てくれたみんなの応対を一緒にして、昼食をとったあとはお互い自室で過ごしてた感じですね」
「ユミルの様子に変わりなかったか?」
「至って普通でしたよ。儀式に向けて頑張るって張り切ってるぐらいで特には」
「そうか……」
なぜか思案顔だ。何をそんなに深く考えることがあるのか。
「何か気になることでもあるんですか?」
「……いや。ただオレの考えすぎなだけだから気にしないでくれ」
そう言われると尚さら気になるが…………まぁ普段のシスコンっぷりからして、ただ大げさにユミルのことを心配してるだけか。
それからもアリウスさんと儀式のことについて喋りながら始まりの時を待った。この厳粛な中に一人だと心細かったので助かった。
そうして予定時刻になり、右奥の木々からラナフィナとともにユミルが姿を現した。
透き通る純白の羽衣を纏った出で立ちは息を呑むほど神々しく、清純な彼女にとてもよく似合って見えた。両手には榊のような枝の束が握られている。きっとお祓いの時に使用する大幣的なものだろう。
観衆に見守られる中、ユミルはゆっくりとした足取りで御神木の前に進み出ると、大幣を胸の前で掲げて頭を垂れる。
それと同時に森民たちも各々目を閉じて両手を握る祈祷の姿勢に入ったので、俺も倣って拳を握りながら目を閉じる。
アリウスさんに聞いた話だと、このあと浄化の神子がみんなに向けて挨拶をし、ラナフィナとともに御神木の地下に入って核の瘴気を払う。その間、森民たちは二人が戻ってくるまで御神木を見守り続ける、という流れのようだ。
核の浄化が完了するには最低一時間ほどかかるらしい。なかなかに長丁場の儀式だ。
祈祷は続く。
耳に届くのは小さな風と木の葉の擦れ合う音だけ。心が洗われるような静寂が満ちる。
しばらくは雰囲気に身を任せていたが、時間が経つにつれてこの祈祷の時間についても聞いておけばよかったなと不敬なことを考えはじめながらもこの無言の間に耐える。
やがて体感十分ほどが経ち、ようやく祈祷は終わりを迎えたようで、ユミルが御神木を背にして俺たちのほうを振り向く。
「────え……?」
その瞬間だった。
ユミルの体がぐらりと傾き、そのまま崩れるように地面に倒れたのは。
立ち上がる素振りは一向になく、身動き一つしない。
あまりにも唐突なことに頭が真っ白になって呆然としていたら、
「──ユミルっ!?」
隣から出た叫び声で、俺は我に返った。
切羽詰まった様子で駆けていくアリウスさんの後ろ姿を見て、ようやく尋常じゃないことが起きたと脳が認識し、俺も急いであとを追う。
森民たちも異常事態に気がついたようで、安穏とした静けさは不穏な喧騒へと一変した。
アリウスさんに続いてユミルの元に駆けつけた時、俺は思わず「う……」と口元を覆った。
瞳を閉ざして意識を失っているユミル。それだけでも戸惑うには十分なのに、明らかに身体の状態がおかしかった。
顔や衣服から出た肌は火傷を負ったように濃い黒茶に変色し、全体が干上がった大地のようにひび割れている。まるで死地の樹木みたいに。
アリウスさんがそばで体を支えながら「ユミル……! ユミル、しっかりしろ!」と必死に声をかけるが、返事はおろか瞳を開ける様子すらも見られない。
そのユミルの凄惨な姿が、記憶の中の血まみれで倒れるハルの姿と脳裏で重なり、俺は何も行動できないまま、ただただ激しくなる動悸を抑えようとすることでやっとだった。
「────ぐぁ……っ!?」
そしてそれは突然の出来事だった。
野球バットで殴られたような強い衝撃が頭部から発生し、脳を鷲掴みされたような酷い頭痛に襲われた。
「これは……一体なん……」
持続的な鈍痛は収まる気配がなく、反対に目眩や吐き気を伴いながら強さを増していく。
あまりの強烈さに苦悶の声すらも出せず、足から力が抜けてその場に頽れる。
痛覚に屈した意識がぼやけ、目の前のユミルとアリウスさんの姿が掠れていく。
瞼を開ける気力さえも失い、
「どうして……これじゃユリアと同じ……」
そのアリウスさんの言葉を最後に、俺の意識は暗転した。




