葛藤
真夏の7月16日の真昼間、日差しが照り付ける丘の上の道路の真ん中で悟は叫んだ。いったい彼は心の中のわだかまりをどう表現したかったのだろうか。
「あっちいけ!」
私はなぜこのような文句を言葉に出してしまったのだろう。どうして私はいつもこうなんだと様々な妄想は悟を悩ませるのには事足りていた。美咲は私のことを無欲な人と呼んでいた。そのことについていろいろ悩ませられることはあるのだが、己の努力を皆に認めさせたいと考えているところに、物事が後ろ向きに進んでいく焦燥感から他人を自らの欲を満たすための道具のようなものに置きつつある。私は人の期待をことごとく裏切ってきた愚かで無責任な人間だ。過去に戻れるのなら、と感じたことはあるのだが私は期待に応えようと本当には考えていない。考えたくないのだ。世間に振り回されて落ち着く場所などどこにもない私にとって、人に好かれるというのは喜びなのだがこうなのだからという理由もなく、断ってしまう。
「そういや、あいつは今頃ゲームセンターにでもいるのかな」
「うわっ、まぶしっ」
突然彼の顔面に日差しが照り付け、彼はふと現実に引き戻された。心の中の雑音がすっと引いていくのを感じた。
「そろそろ、帰らないとな」
彼はパンパンにつまったランドセルのような重い腰を上げ、歩き出した。坂道を下る最中、海が見えるようになった。
「きれいな海だ」
僕は毎年海水浴に家族と行っているのだが、小学生のころ幼馴染の美咲と1回だけ行ったことがある。当時は背も小さかったし子供ながら経験も少なかったので一つ一つの光景が雄大に見えた。海の向こうにある小島がとても大きく見えて僕は美咲とよくその小島について語り合った。彼女の家族には姉のような彼女の世話係のような人物がいたような気がする。詳しくは知らないが・・・・。あの小島はいったい何だったのだろうか。私が中学生のころ忽然と海から消えたのである。当時から奇妙な雰囲気を漂わせていたのは感じていた。そんなことはさておき海水浴で彼女とかき氷を食べに行ったときのかき氷のおいしさは忘れられない。子供のころの体験は一生ものなのかもしれない。ふと当時の光景が目の前を独占する。当時には戻れないのにもかかわらず妄想は止まらず、目の前に広がる海からも視線が遠ざかる。
「おっ、あまりに遅くなると不審がられるかもしれない」
彼は早歩きで坂を下っていき、途中にある階段を降りしばらくして交差点にでた。偶然進行方向の信号が赤だったので、周辺を見まわしたところ知らない店が一軒大通りに佇んでいた。不気味な様子に気を取られたのか、その店の目の前に行くやいなや店の形状を観察した。真新しいこぎれいな店内に随分と豪華な飾りつけが行われていた。何を売っているかまでは確認できなかったが、相当なものを売っていることは分かったが収穫は何もなかった。今度行ってみるつもりで入るが、その時は忘れているのかもしれない。そのくらいの気持ちだった。
「こんなことしてる場合じゃない」
彼はすかさず歩き出しまっすぐにスーパーに向かい入ったと思ったら袋を抱えて店を出た。彼はお菓子が好きで長方形でブルーなあのアイスが好きだ。彼は毎日下校さながらこのスーパーで買い物をする。それはとても面白く彼にとっての唯一の楽しみだったのだ。彼は帰宅すると同時に自室にこもる。家族とともに夕食をとる場合もあるが、大半は一人で食べることを選択する。いつからこうなってしまったのか。家族の皆は最初は困惑したのだが今はそのことには慣れきっている。悟に何かあったのは心配しているが、思春期ゆえの悩みなのかもしれないし、考えすぎるのもどうかと思うので、今はそっとしている。彼はいつも通り自室に直行し、部屋の鍵を閉めて布団にうずくまった。なぜ泣きたかったのかわからないが悟は今夜は泣いてしまった。自分で理由を探ることはあるが何もわからない。
「何も考えたくない」
「将来はどうなってしまうんだ」
「孤独ではないのに寂しいのだ。いつからこうなってしまったんだ。何もわからない。」
リビングからは家族の団欒が聞こえてくる。無邪気に笑う母と妹の笑い声が耳に入らないように彼は静かに眠るのであった。
「君の欲しいものは何?」
美咲は頭を悩ませる。悟は物事に対して異常なほど執着がない。小学生4年生と6年生の時、悟と美咲はおなじクラスだった。彼らの所属していた小学校は学年に2つしかクラスがなく、学年の生徒同士仲を深めやすかった。年に2度の学年行事でもクラスを超えて学年全員がお互いに楽しんでいたようだった。その学年行事の時、彼らは出会った。その時は近くの山に行って、様々なゲームを楽しんだ。折り畳みの椅子を教員の車に乗せているのを見ると、そろそろ学年行事の時期がやってきたと気づくものだった。椅子取りゲームなんて学校でできるものなのに、学校の教員は何を考えていたのやら緑豊かな場で椅子取りゲームをしたかったらしい。他には輪投げ、おにごっこ、その他生徒らが持ち込んだ遊びを教員と生徒で混ざって遊んだ。その山道沿いの公園で私がお菓子を食べていた時にある一人の女の子が声をかけてきた。
「そのグミとこのチョコレート交換しない?」
「えっ!」
「そのグミ好きなの。今日全部食べてしまったんだけどどうしても我慢できなくて。」
悟はあまりに突然でびっくりしたのだが、チョコレートは嫌いではなかったので喜んで交換を了解した。
「全然いいけど」
悟はグミの入った袋を振って手のひらの上に転がして、美咲に渡した。彼女はそれと同時に開けていない1粒のチョコレートを袋ごと悟に渡した。交換したことは初めてだったので悟は新鮮な気持ちにつつまれた。物の交換の面白さをその時痛感した。結局彼はもらったチョコレートを家に持って帰ってしまった。たった一粒のチョコレートだから食べたらなくなってしまうからだ。公園で彼女にもらってから右ポケットに入れてそのままだったチョコレート。食べたくても食べられない。そんな風に考えていたら下校の時間になり、そのまま帰ってきたのだった。家に戻ってから悟は唐突にテレビをつけた。テレビには自分の知らない芸能人が食レポをしている光景が映し出されていた。
「おいしそうな食べ物だな。」
突然彼は右ポケットから1粒のチョコレートを取り出し口にほうりなげた。そのチョコレートを口の中で転がし、その後しかっりと咀嚼して一斉に飲み込んだ。チョコレートは普通に甘くておいしかった。
雅はエリート高校生でクラスの人気者だった。毎日のようにボランティア活動に参加し、授業でも発表を欠かさない優等生だった。いい加減な性格だったのだが、成績優秀で一貫性のある言動から「まじめくん」と呼ばれていたのだった。
「雅これについてどう思う?」
「クラスの出し物なんだけど、どれがいい?」
「これ教えて」
みんなから頼りにされていて決してつらいなんて言うことはないのだが、とても満足そうには思えなかった。むしろそのことに違和感を感じていたようだ。突然校舎で怒鳴り声が聞こえた。
「バカヤロー」
怒鳴ってたのは雅だった。性格上わからなくもないが、これほどまでに怒りをぶつけることはまれだった。少し前、昼の休み時間、あるクラスメートが雅の弁当をふざけて横取りしたのだが、その時別のクラスメートが目撃していた。その時、確かに怒鳴ったのは雅らしい。生徒は大慌てでその場をなだめたのだが、雅は聞く耳を持たなかった。むしろそのことについて怒ってそれを繰り返していた。
「もうやめろよ」
そういったのはクラスのリーダーの勝太であった。このクラスは2つに分かれていてそのうちの1つの派閥のリーダーだ。
「こんなつまらないことやめろよ。そろそろ先生来るよ。」
「そろそろ授業始まるよ。」
それを聞いた雅は激怒して何か喚いたと思ったら教室を出ていった。いったい何があったのだろうか。クラスの優等生もこんなことあるんだな。みんながそう思った。この光景はやがて学校中に広がり、ある程度の有名な話として学校の噂話の一つになった。
「大丈夫なのかな」
理央が友達にこういった。
「わからないけど、あのひとならなんとかなるんじゃない?」
「そんな簡単な問題なのかな?」
「やっぱりなにかあったんだと思う。信頼できる友達とか先生とかいればいいんだけど。」
「そうだね。」
クラスも落ち着きを取り戻し、授業も始まったのだが理央はずっとそのことについて考えた。なぜあのひとがあんなことをしたのだろう。悩み事でもあるのかな。先生ならこのことについて心当たりがあるのかもしれない。もう一度相談してみよう。彼女は放課後に職員室によって、担任の先生に今日の出来事について、それと彼について話をした。先生によると彼があんなになった理由はわからないらしい。
「ありがとうございます。」
彼女は職員室を去るとその足で図書館に向かった。本に何かヒントが書いてあるのかもしれない。そう思い閉館時間まで調べたのだが全く分からず、明日にしようかと思い図書館を出た。私なんかが詮索していい問題ではないのかもしれないけど気になるし、そのままにしておけない。彼女はあきらめようとしたが踏みとどまり、雅のことを考え続けた。これはくるってるというのかもしれない。でも私はあきらめきれない。街角のコンビニの光が見えてきたと同時に車のヘッドライトに照らされる。彼女は狭い街路を抜けながら家をめざして歩いている。いったい彼女はどこへ向かっているのか。
雅は幼少期に友達とよく遊びに行っていた公園めがけて走った。高校から隣町のその公園までは30キロあるのだが、彼の気持ちは茫然自失としていてそれに構わず永遠にあの公園にめがけて駆けた。学生が街路を全力で走っているので通行人から不審な目で見られていたのが雅には分かった。
「くそがっ!」
急に目の前に学生の集団が現れた。あの制服は近所の栄の上中学で彼らは社会科見学の帰りだった。
「そうだ、俺も社会科見学で水族館を見に行ったことがあったな」
「あの時の俺は・・・・」
「今となっては・・・こんなに落ちぶれちまった」
2015年の6月20日、俺の所属していた中学の2年生全員で社会科見学で出山水族館に行った。いや、正確に言うとそこに一人だけ来なかった。友達の咲太だ。俺はその日彼と水族館で記念撮影をしようと約束していた。この水族館には様々な海洋生物が飼われていて、それがとりどりのアート作品でより神秘的に見せようと水族館は張り切っていたようだ。当時、社会科見学の日の3日前、俺はその水族館のことをネットで調べたのだが、ホームページにはものすごくきれいな展示のピクチャーががところどころに貼られていた。その光景を見て、俺は胸を躍らせた。あいつと一緒にここで記念撮影をすればとても楽しくなるんだろうな。そうだな、どのようなシチュエーションで館内を回るのか決めておこうか。その計画を友達の咲太に電話で報告した。久々の電話だったので少し緊張したのだが、これからたぶんめっちゃおもしろくなろうしそんなものはお構いなしに電話を掛けた。
「プルルル、プルルル・・・」
「もしもし、」
「咲太か、今度社会科見学で水族館行くんだったよな?そこでおもしろいもん見つけたんだ。そうだ、これから計画の詳細をいうぞ。」
「うん」
最初は一方的に雅が計画の詳細を伝える感じだったのだが、途中から咲太が計画に口出しし始めて、結局議論になった。彼らはいつもこうなのだ。はじめは雅が吹っ掛けて咲太がそれにこたえる。その咲太が突然言いたいことを言い始めて言い合いになる。彼らはその時が一番幸せそうだった。雅は唯一咲太とだけ長電話するのだった。
「人に譲る心も重要だぞ」
「ここだけは譲れない。譲ることはないと思え」
「そうだったらここは決定な」
「はい?そんなのどこの水族館にもいるじゃん。見る目がないなあ」
「お前だってこんなつまらんショー見るくらいだったら、ペンギンの歩行見るほうがましだろ」
「おい」
「はい?」
「おおおはははは」
「はははははは」
彼らの話し合いは白熱して夜が明けるまで終わらず明日の学校には遅刻していった。二人にはよくある光景だった。
「ねむいなあ、咲太」
雅が咲太に話しかけようとしたのだがそこに咲太はいなかった。担任によると欠席という連絡はないようだ。
「夜が明けるまで話し合ったから体調でも崩したのかな。次会ったとき謝らないとな」
彼はどこに行ったのだろう。結局欠席連絡もなく学校には来ず、次に日も、もちろん社会科見学の日も学校には来なかった。雅は自分がどんな悪いことをしたのかと心配したが、電話を切る前咲太は「楽しかった、また会おうね」と言っていたからそういうわけではないと思ったのだが、何か月がたっても学校には顔を見せなかった。雅は警察にも連絡して、自分で咲太と毎日遊んでいた公園や好きだった駄菓子屋、咲太の大好きなショッピングモールを探してみたが、何処にも見当たらなかった。
「おーい、咲太」
彼の家の前に行ってみても全く返事がない。
「どうすればいいんだ咲太。俺はお前を失って空っぽだ。毎日何も楽しくない。戻ってきてくれ」
それから数か月がたった夜、彼の家の前に咲太がかけていたペンダントが落ちていた。そのペンダントは不気味な形をしていて今にも砕けそうだった。
「ペンダントってこんなにもろくなるものなのか?」
11月3日、咲太が急にペンダントをつけ始めた。ペンダントの色は緑色で少し赤みがかかったみたいだった。時がたっていくにつれ色が赤に近づいてゆき、社会科見学の3日前の6月17日、彼のペンダントの色が完全に赤に変色していたのだった。たしかにあのペンダントは違和感を感じた。ここまで急に変色するものなんて見たことなかった。俺は何をすればよかったのか。いや、なにもできなかったのかだろう。俺なんかがわかる代物ではない。雅は唐突に咲太が昔つけていたペンダントをつけてみた。すると首元からほろりと砕けて地面に完全に砕け散った。俺は何をすべきだったのか。雅はそのことを強くかみしめながら最寄りの駅までたどり着いた。さすがに30キロ先まで走っていけるほどの体力はなかったためだ。この駅も咲太と来たことがあったなあ。咲太と俺はよくふたりで映画に見に行っていて、その映画館のあるショッピングモールに行くときによくこの駅から出るバスを使っていたのだった。そのショッピングモールは街のはずれにあり、公共機関ではバスでしか行けなかった。駅の周りのビル街を抜けて、小さな家が並ぶ住宅街を結構進んでいったところにそのショッピングセンターはあった。俺と咲太は新作の映画が出るとすぐに映画の話になり、計画を立てて見に行っていた。その時の首元のペンダントの色は緑色だった。
「あの時は楽しかったなあ」
彼は駅のトイレに向かって、鍵をかけた。涙が急にあふれ出してきたのだ。
「ごめんよ、ごめんよ」
雅は心を入れ替えて電車に乗り、彼の昔住んでいた故郷である隣町まで向かった。故郷の最寄り駅で、電車を降りそのまま改札を出た。
「ここまで戻ってきたなあ」
彼は久しぶりに故郷に戻ってなつかしい気持ちになる。高校からここまで来て様々なことを思い出し、彼はちょっぴり不安で温かい気持ちになる。彼がいなくなって3年が過ぎ、雅は少しずつ自分を取り戻そうとしていた。でも唐突にあの日のことが気になって、投げ出したい気持ちになる。
「あいつが消えていくらか時がたったけど、もし会えたらこれ以上幸せなことはないなあ」
彼は今の自分と向き合いながら過去の自分の気持ちを清算しているのであろうか。彼はそのまま家に帰ったのであった。
美咲はマンションのベランダから見える海を眺める。彼女のマンションは海岸線沿いに位置していて、悩み事をしたりテンションが上がったときなんかはベランダに出てからふと海を眺める。暖かい日差しに顔を覗かれて、彼女も満足そうだ。
「美咲、いってくるね」
美咲には父親と母親、そして妹がいる。ごく普通の家庭で羨むところといったら、海の目の前に住居を構えているところくらい。家族同士の中もよく、良好な関係を築くことが出来ている。彼女の望みは誰にもわからない。彼女自身でさえまったくわからないのだ。自分の考えていることは一通りわかっているつもりだが、何か心の中の大きな穴が塞がらない。美咲は自分自身に何か足りないものがあるという。彼女の足りない足りないものを悟は確かに持っているのである。誰しも足りないものはあるに違いないことはわかってるのだが、美咲は彼女自身も飲み込んでしまいそうなものを抱えているのである。だから、悟のことが気になって仕方がない。
「いってらっしゃい」
その言葉を母親に返すと、彼女は再び海を眺めた。もちろん、悟が悩んでいることは美咲は知っている。彼自身も彼特有の悩みを抱えているのはわかる。しかし美咲も特有の悩みを抱えている。お互いに足りない部分を補えたらどんなにうれしいのだろうか、と彼女は何度も考えた。しかしあれもこれも現実的な方法が思い浮かばず、何もできていない。むしろ悟に対する期待が美咲自身の悩みを大きくしているような気がしている。しかし美咲は悟に対して少しばかり違う興味も混じっていることを知っている。あれもこれも全く彼には届かない感情だけれど、いつか悟に伝えてしまいたいと考えている。また、年々薄れていく興味に、彼女も幾分かの焦りを感じ始めている。はじめ悟に興味を抱いたのは小学3年生のころである。とある山奥に家族の反対を押し切って二人だけで来たのである。しかし、そこにはある人物もいたような気がする。その人物は悟たちが小さい頃出かけるときに付き添ってくれた人物で、今はどこかに姿を消している。そのような人物が確かにいたような気がする。もちろんそのような人物の存在も居場所も今は全く感じていないのだから、いなかったものと彼らも思いつつある。でもその時ふと幼い頃来た海水浴や公園のことが思い出される。二人はその時何らかのシンパシーを感じていた。シンパシーを感じる瞬間が彼らの心地より時間でもあった。
「あーあ」
「悟・・・」
いくら神様に言っても時計の針は止めてくれない。時がたってくれるなと願っているときに限って時計の針のスピードは上がっていく。しかしこの理不尽を美咲は受け止めている。自分が勝手にお願いしたことだから叶えられなくても仕方がないねと。徐々に進んでいくあの頃の記憶。もしかすると悟とあの島に来た記憶がなくなってしまうかもしれないと彼女は焦る。自分自身に突きつけるこの焦燥が、むしろ悟へと近づこうとする意志になるのと同時に、悟から遠ざかる理由にもなっている。彼女の中に存在する焦燥、葛藤。少しづつ消えていく悟との記憶。もう一人誰かがいたような気がするのだが、彼女はすっかりと忘れてしまっている。気になるのはあの時確かにいた人物。付き添ってくれた人物。しかし美咲には見当もつかない。しかし彼女が存在を感知していた事実はある。忘れていく記憶の消失を堰き止める海門があれば彼女は大助かりだろう。悟との記憶は彼女のまさに生命線なのだからである。海を眺めて悲しみに暮れている彼女は悟との記憶を思い出して毎日をどうにかこうにか過ごしている。ごく普通の家庭で家族中も良好なのにも関わらず、記憶が薄れていくことに耐えられないのだろう。途轍もなく冷たく儚く、そして美しい世の中。少年少女時代の葛藤が彼ら自身を悲しめ、苦しめ、そして成長させている。
「あ、もう行く時間だ」
身支度をあらかじめ済ませていた美咲はベッドから朝ごはんを食べずにダイニングを横切り、玄関を出た。何十段にも及ぶ階段を駆け足で降りていく彼女は幼い頃の美咲によく似ていた。海岸線沿いの道を駆け足で走り、途中のコンビニでおにぎりを2個と水を購入しそのまま学校へ向かった。
「磯野くん」
「卜部くん」
「江藤さん」
「加月くん」
「刈谷さん」
「桐生さん」
「栗山くん」
「黒田くん」
「児嶋さん」
「佐倉さん」
「ガララ」
「はい!」
「佐倉さん遅刻ですよ」
「すみません」
「今日は良いですけど、ぎりぎりはいけませんからね」
「はい」
「佐々木さん」
「須藤さん」
美咲はコンビニでおにぎりを選ぶのに手間取って遅れてしまいそうになった。十分な時間に家を出てから、あれこれ20分以上コンビニでおにぎり二つに悩んでしまったのだ。店員からすれば不思議な客が来たと思われたのだろう。一時間目と二時間目は体育でバスケットボールだった。持ち前の運動神経で彼女は3ゴールを決めた。バスケットボールが終われば次は数学の時間。数学は苦手な生徒が多く、彼女もその例外ではなかった。どのように当てられないようにするかで必死だったのだ。しかし偶然当てられて困惑した時が訪れた。4時間目は英語の時間で題材の発表会をした。題材は海外旅行した時のルートを決めるというもの。彼女は海が好きなのでハワイを選んだのだが、他の生徒が選んだシンガポールやグアムの例を散々見せられて悔しがっていた。このように彼女にとって学校は、悟との記憶、家族のたまに催す団欒以外の寂しさの発散ポイントになっているのだ。もし学校がなくなれば、彼女の悲しみの請負場所はどこになるのだろうか。もし家族との団欒でさえもなくなってしまったら、彼女の悲しみを請け負ってくれる場所はあるのだろう。もし悟の記憶さえも完全に消え去ってしまったら、彼女はいったい誰に助けを呼べるのだろう。美咲も危機感はある。なにかおかしな出来事が起きる予感を感じている。もし居場所がなくなってしまったら、私はどうなるのだろうかと考えることもある。悟にはこの頃会えていない。今の私を受け入れてくれるのだろうか、と。今の人にすがってばかりの私を見て悟はがっかりしてしまわないのだろうかとの悩みが日に日に膨れ上がっていく。今にもなにかが起こりそうな予感がしている。この世を一変してしまうかもしれない大きな出来事が。