表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

異世界恋愛文字多め

無限悲劇ループの中に囚われてしまった大好きな婚約者を救い出す、絶対に負けられない戦い

作者: 待鳥園子

 私の恋人で婚約者のジークフリート・マックールは、本当に文句の付けようのないくらいに素敵な人だ。


 彼は私にとって完璧な恋人であると、言い切ってしまっても差支えないと思う。


 王都の治安維持を主に任された王都騎士団を纏める若き騎士団長であり、この国の王に古くから仕える、伝統もあり広い領地を持つ裕福な貴族マックール侯爵家の次男。


 ここで特筆すべきなのは、彼の持っているその麗しい容姿だ。さらりとした絹糸のような黒髪に、きらめく金色の目。騎士という職業の上に鍛え上げられた整った肉体を持ち、凛々しく端麗な顔立ち。


 もちろん。長年彼の傍に居る私が、ここまで好きになってしまっているということは、ジークの持つ魅力は素晴らしい外見だけではない。中身だって、どこを取ったとしても彼は特級品だ。優しく穏やかで、愛情深く理知的で努力家。


 もう。本当に非の打ち所が、見つからない。


 こんなに素敵な人が自分の恋人で、良いのか? と、言われてしまうと、それは少しだけ自信はない。


 けど、幼い私の婚約者の打診時に、候補者としてのジークに初めて会った八歳の頃から、何もかもを持っている彼の隣に居るためにと、平凡なものしか持っていなかったただの貴族令嬢の私も、十年間かけて私なりに必死で頑張った……つもりではいる。


 初対面のジークが帰ってしまった後に、次の候補者と会う日付を相談してきたお父様に「さっきのジークフリート様じゃないと、私はもう誰とも一生結婚しない!」と泣き喚いて暴れたのも、今では良い思い出だ。


 そんな訳で、十年も前から大好きなジークとの結婚は一応確約済だったんだけど、もうすぐ私は十年も待ちに待っていた結婚式を経て、ようやく彼の妻を名乗ることが許される。


 私と立派なお役目を持つジークの二人もこの国では適齢期で、そろそろ両家では結婚を……という暗黙の了解もあって、私は最近彼の家にお邪魔して、式のことだったり、新しく広大なマックール家の敷地内に建設する私たちの新居のことだったりを相談しに行くことも多い。


 ジークのお母さまは、彼が幼い頃に病気でお若くして亡くなられている。それに、彼の兄でマックール家の跡継ぎで長男であるエルネストお義兄様は、何故か理由は知らないけど、婚約者もいないし、未だに結婚は考えていないようだった。


 だから、もうすぐお義父様になられるマックール侯爵は、結婚するジークには近くに住んで欲しかったようだった。新しくマックール家に入ることになる貴重な女手である私に、敷地内の本宅のすぐ近くに住んでもらって、色々と家のことを手伝って欲しいという気持ちがあるのだと思う。


 それは私には特に支障のないことだし、通常であれば騎士として自分の力で身を立てる次男のジークと気楽な暮らしをするところに、マックール本家に同居のような流れになってしまうのも、別に構わなかった。


 というか、私はジークと一緒に居られれば、なんでも良いんだけど。大好きな彼と一緒に居られるんだったら、本当になんだって構わない。


 もし、ジークが地獄に堕ちると言うのなら、私も迷わず付いて行くことを選ぶ。そのくらい、彼のことが好き。


「レティシア。そろそろ、式後の新婚旅行の行き先は、決めたの?」


 マックール邸のポカポカの春日の当たるテラスでお茶をしていた時に、そう私に聞いて来たのは、ジークの親友で同僚のアルベール・ロナンだ。


 彼はジークと仲良しな幼馴染で、旧知の仲だ。エルンストお義兄さまから見ればもう一人の弟のようであり、マックール家でも家族の一人のような存在のアルベールは、この邸にも自由に出入りしている。


 だから、こうして彼を混じえて三人でお茶をすることは、ジークと私にとっては良くあることだった。


 銀髪青目を持つ王都騎士団副団長のアルベールは、際立って美しい顔立ちをしていて、若い令嬢たちがより集まった時には必ず彼の噂が口に上ったりもする。


 けど、年季の入ったジーク命な私にとっては、ジーク以外の男性は、どうしても皆同じように見えてしまう。


 確かに目の前に居るアルベールが綺麗な顔はしているというのは、造り込まれた芸術品を見るような気持ちで理解が出来なくもない。


 だけど……アルベールの何にどのようにして、ドキドキしてしまうのかが、本当に良くわからないのだ。だから、そういった美形の男性を品評したりして女同士で盛り上がる話には、いつも乗れないまま終わる。


 だって、私の胸がときめく男性って、世界中探してもジークただ一人だけしか居ないし。これだけは、確実に言い切れる。


 けど、アルベールはジークが信頼している一番の友人で、仕事場を同じくしている頼れる同僚でもある。


 ということは、そんな近い存在の親友に、良い彼女だと感じ良く思われておいて、後々何の損もない。得は今は思い付かないけど、多分何かあると思う。だから、私は彼に対しては、なるべく好意的に振る舞うことを心掛けている。聡いアルベールには、そういったことも全てわかられているようだけど、何の問題もない。


 そう。誰かにそう思っていることを知られて、計算高い女と思われたとしても、私は一向に構わないのだ。


 私の行動原理のほとんどが、ジークに好かれたいとか、ジークともっと一緒に居たいという、自らの強い欲望に基づいている。


 だって、今もこうして隣に居てくれるジークが、本当に大好きなので。


 すぐ隣に座って居るジークをチラッと見たら、私が向けた視線に気がついて、優しく笑ってくれた。本当に、私の恋人って最高に素敵。


 だって、若い女の子にとって、大好きな恋人により好かれたい以外に、何か最重要事項ってありますか? 私には、ないです。


 少なくとも私個人にとっては、常に優先順位第一位がジークのこと。これだけは、本当に譲れない。


「ううん。まだ決まってないの。ジークは、海が見えるところにしようかって言うんだけど、私は山の中の湖の近くにある宿泊施設も評判良いって、この前お茶会で噂を聞いて。ロマンチックで素敵みたいで、気になっているの……」


 もうすぐ執り行われる予定の二人の結婚式の後、責任ある立場を持つジークも仕事を特別に休んで蜜月と呼ばれる一ヶ月間を過ごす。


 その場所を何処にするかで、私たちは迷っていた。景色の良いところが良いって言っても……私は、多分ジークしか見えてないと思うんだけど。逆もそうであって欲しいけど、それはただの私の願望でしかないし。


「あー……あそこか。僕も一度行ったことがあるよ。地元の料理も美味しくてね。本当に素敵だよ。僕は、お薦めするよ」


 とてもふわっとした情報しか出していないのに、心得たように大きく頷いて、にこにことして笑っているアルベールに、誰と一緒に行ったんですか? という素朴な疑問が、心の中に浮かんだ。


 けど、今も隣に居るジークに、万が一にも私がアルベールのお相手を気にしているような誤解をされるのは、絶対に嫌だし。


 単に疑問に思ったというだけで、その人物にも全く興味ないし。微妙な間が空いてしまったけど、さらっと流しとこ。


「ねえ。ジーク。アルベールは、湖がお薦めなんだって……どうする? ……え? ジーク……どうしたの? 大丈夫?」


 私が彼に問いかけて隣を何気なく見れば、さっきまでいつものような穏やかな笑みを浮かべていたジークの顔色は、一目見てわかるくらいに真っ青になっていた。


 ティーカップの取っ手を持っている大きな手は、ぶるぶると震えている。美しい金色の目は……今はどこを見ているのか、宙を向いて焦点が合っていない。どこからどう見ても、彼の様子は尋常ではなかった。


「え……何。ジークフリート? どうかしたのか? 大丈夫か?」


 向かいの席でお茶を飲んでいたアルベールも、様子がおかしくなったジークの異変に、気が付いたようだ。眉を顰め、心配そうな表情になった。


「……ああ。すまない。僕はここで、失礼する」


 ジークはそれだけを口にすると、ガタっと音をさせておろむろに立ち上がって、テラスの出入口から邸の中へと入ってしまった。


 取り残された私とアルベールの二人は、いつにない彼の突然の行動に唖然としてしまうしかない。


「えっと……」


 私とアルベールの二人は、同じような戸惑った顔のまま目を合わせた。二人とも長年ジークと共に居て、確実に初めてだと言い切れるこの事態をどう収集するか迷った。


「うん……体調が急激に悪くなる時って、確かにあるからね。レティシアも、ジークのことが好きで好きで堪らないってことは、僕も良く知っているけど……下手に余計な詮索をして、大事な彼に恥をかかさないようにするんだよ」


 アルベールは、ジークが好き過ぎてしまうがゆえに起こすかもしれない私の失敗を頭の中で想像してしまったのか。また眉を顰めつつ、そう注意した。


 確かにそれは彼の言う通りで、人間離れして素敵な人だったとしても、その正体はただの人でしかない。体調を崩して急に腹痛を起こしてしまうことだって、時にはあることだろう。


 このアルベールは親友の長年の婚約者である私を、良く話のわからない子ども扱いをする。そういうところも、決して彼は私の恋愛対象にはなり得ないところだった。


「うっ……うん。わかってる。けど、なんだか……さっき様子がおかしかった……ジーク。大丈夫かな」


 私がジークの行ってしまった方向を心配しつつ見れば、アルベールはお茶を飲みながら肩を竦めた。


「そうだな……どんな時も忍耐強いあいつが、あそこまで無作法を気にせずに、慌てて何処かへ行ってしまうなんて、僕も付き合いが長いけど初めて見たな……貝類は、当たったら酷いから……うん。そろそろ、あったかくなってきたからね……」


 何かを思い出すようにしてどこか遠いところを見たアルベールに、私は今度こそ遠慮なく、心に湧いた疑問である、アルベールは貝に当たったことはあるの? と聞いた。



◇◆◇



 なんて。


 もしかしたら、季節の変わり目に良くある風邪かなんかで、ジークは体調が悪くなったのかなって、私がそんな風に呑気に構えて居られたのは、ジークの様子が突然おかしくなった日から、三日後までのことだった。


「……え? 今日も、ジークは体調悪いんですか?」


 いつも通り、結婚式や新居のことなんかを話し合うために、私は婚約者のジークを訪ねてマックール邸までやって来た。


 また空振りで帰るしかなくなってしまった私の応対をしてくれるためにわざわざ出て来た様子のエルネストお義兄様は、いつも豪快な性格の彼らしくなく歯切れ悪い口調で質問をした。


「そう、なんだが……俺も、婚約している男女二人の間のことに、余り口を挟みたくない。だが……もしかして、うちの弟とレティシアは、最近何かあったかい?」


 エルネストお義兄様は、慎重に言葉を選ぶようにして言った。


 最近、何かあったかと言われても……普段の私たちと何か変わったことがあったかと言われたら、お茶会の途中で、急に席を立ってしまったジークに驚いたことくらいしかない。


「……えっ? ジークと私の間に……? いいえ。全く何も。体調を崩す三日前まで、新居や結婚式のことを順調に相談していましたし……本当に、何もありません」


 あまり顔色も良くないエルネストお義兄様に対して、彼は何を誤解しているのだろうと不思議になりつつも、私は胸を張ってそう言った。


 もし、二人の関係に何か不満や不安があったとしたら、誰よりも先に当事者の私に対してきちんと伝えてくれるはずだ。


 私の婚約者のジークは誠実で、そういう人だもの。


 こうして、二人の間にあったことなんて、何も知らない兄を伝言係にするなんて……考えられない。


「うーん。そうか……おかしいな。俺から見ていても、君と弟の仲は非常に上手くいっていると思って居たんだが……この前に、あいつはいきなり……俺と父に今から君と婚約解消出来ないかと、相談して来てね」


「え!?」


 エルネストお兄様の唐突な話に、目を見開いた私は信じ難い思いで心の中は一杯だった。


 体調を悪くしたと思えば、私との婚約解消を急に言い出したって……何も事情が繋がらないし、彼がそうした理由も……全く見当もつかない。


「……もちろん。ここまでの長い年月を、アヴェルラーク侯爵家の大事なご令嬢と婚約していた訳だからね。二人の気持ちが離れたからとか、そういった理由だけでは済まされない。貴族社会の中での、両家の体面だってある。それに、レティシアには全く非がないと言う。それは、婚約して十年経っている今になっては、とても無理だと俺は言ったんだが……弟は、どうにもそれを聞いてから、酷く辛そうな様子でね。君に何の心当たりもないとすると……何か、妙な誤解があるのかな……」


 思案顔のエルネストお義兄様の心配は、もっともだ。


 上手くいっている仲と思っていた大事な弟と弟の婚約者の間に挟まれてしまい、彼も複雑な心境になっていたことだろう。


「……ジークは、今何処にいますか?」


「レティシアなら、これを聞けば真っ先にそう言うと思っていたよ。弟なら三日前から食事もろくに食べずに、あいつの自室に篭もったままだ……既に人払いも、済ませてある」


「感謝します」


 私はそう言ってエルネストお義兄様に正式な貴族の礼を取ってから、ジークの部屋の方向へと向かって歩き始めた。


 エルネストお義兄様は、次期マックール侯爵となられるだけあって、先読みも出来る有能な人だ。あまり広まって欲しくない展開になるかもしれない痴話喧嘩が広まってもいけないと、使用人の人払いだって前もってしてくれていたのだろう。


 ジークが婚約解消をしたがっていると聞かされた私はというと、この事態が本当に信じられないし、頭が良く理解も出来ない。というか、理解したくなんてない。


 とにかく……ジークに会って直接話をするまでは、悪い可能性の何ひとつだって、考えたくもない。


 小さな頃から通い慣れたジークの部屋は、私には勝手知ったる場所だ。勢い良く扉を開けると、中は薄暗く奥にある大きなベッドの上に蹲ったままのジークが居ることがわかるだけだった。


 これは……絶対に、おかしい。いつもの彼ではない。それだけは、言い切れた。


 だって、長年の婚約者の私にだって、小さな弱みひとつ見せることもなかった彼であれば考えられない状況に、後ろ手で慎重に扉を閉めた。


「ジーク。レティシアです。心配で……部屋に勝手に入ってごめんなさい……ねえ。ジーク……大丈夫? 何かあったの? どうしたの?」


 私が近付きながらそう尋ねると、ベッドの上の彼は上半身を起こして低い声を振り絞るようにして言った。


「もう……良いんだ。どう努力したって、何をしても……もう、ダメだったから……もう、良いんだ」


「え?」


 諦め切った低い声は、まるでジークだとは思えなかった。まるで、私の知らない彼ではない違う人が、そこにいるみたいで……。私はあまりにも良くわからない事態に、思わず足を止めてしまった。


「……もう、俺は君を諦めた。だから、ずっとこれから生きていて欲しい」


「ちょっ……ちょっと……待ってよ。ジーク。ちゃんと、私に何があったか説明して。一体。今何を、言ってるの……?」


 静かに興奮しているような彼を刺激しないように、出来るだけ足音を忍ばせて、ジークの居る部屋の奥にあるベッドへと私は辿り着いた。


 近くにやって来た気配に気がついて、彼は顔を上げてくれた、端麗なジークの顔の頬には、涙が幾筋も流れている。


「え。嘘。ど、どうしたの。ジーク……?」


 私とジークの婚約者としての親密な付き合いは、もう十年以上にも及ぶ。けれど、彼は今の今まで……一度たりとも、一番に格好をつけたかった相手だっただろう婚約者の私の前でなんて、泣いたことなんてなかった。


 だから、これは本当におかしいと、頭の中は大混乱していた。何か、私の平凡な予想なんて、遥かに上回るような非常事態が、ジークの身に起きている。


「良いんだ。もう……僕は、何も望まないから。レティシアが生きていてさえくれるなら……それだけで良いんだ。だから、婚約解消しよう。僕に持てるものであれば、何だって差し出して、贖うから……どうか、お願いだ。レティシア」


 必死な様子を見せているジークは、私を嫌っているから婚約解消したいと言う訳ではなさそうだった。むしろ、逆だ。愛しているからこそ、私を諦めるのだとそう言っているのだ。


 肝心の私の意志なんて、聞くこともなく。


「ねえ。待って……なんで、私はジークの婚約者だと、死んでしまうの? もしかして、誰かにそんなことを言って、脅されたの?」


 ジークの泣いている理由が何もわからない私の率直な疑問は、ジークの暗い光を宿す目の奥に吸い込まれて消えてしまったようだ。


「僕が、レティシアを諦めさえすれば……君は、これからも生きられるだろう。僕さえ、レティシアの側から居なくなれば。だから……もう、それで良いんだ」


 暗い目のまま諦めた様子のジークはそれで良かったとしても、私は絶対にそんな二人の結末は嫌だった。


「ジークが、私を諦めれば私は生きられる……? どう言うことなの。だって、その言い方だと……なんだか、もう……私がこれから、死んでしまうことが確定しているみたいじゃない」


「レティシア……もうすぐ、君は僕を裏切ることになるんだ」


 掠れた声で言ったジークの断定的な言葉に、私は比喩ではなく頭から火が吹きそうになった。


「何、言ってるの!? そんなこと、絶対にある訳が無い!! だって、こんなにもジークのことが、大好きなのに!!」


 ジークの言葉に一気に頭に血が登ってしまった私は貴族としての礼儀作法なんてかなぐり捨てて、我慢出来ずに部屋の中に響く大声を上げた。


 エルネストお義兄様の予想した痴話喧嘩のような展開になってしまったけど、それはもう仕方ない。


 誰よりも大好きな婚約者に、こんな事実無根の疑いを掛けられて、粛々と黙って受け入れられる人が居たら、見てみたいものだ。


 けど、憔悴し切ったジークは、取り乱してしまった私にも特に動揺することもない。押し黙ったままで、首をゆっくりと横に振った。


「今は……もしかしたら、そうなのかもしれない。けど、現に俺は……嫌になるくらいに、君の裏切りの場面を、繰り返し見て来たんだ」


 私の裏切りを……繰り返し? なんなの。本当に意味が、わからない。


 もし。私には理解出来ないことが起きているとして。何故、私が何よりも大事な彼を裏切るという判断を下すのかが、全く想像もつかない。


 けど、とりあえず。私がここで言いたいことは、ひとつだけだ。


「いや!! 絶対に、婚約解消なんてしない!! 絶対に、別れない!! もし死ぬかもしれないという理由で、ジークと別れなきゃいけないくらいなら、もう、私は死んでしまった方が良い!!」


「レティシア……」


 彼と同じようにして涙を流してそう言い募る私を前に、ジークは本当に困った顔になった。


 私だって、もう年端のいかぬ子どもではない。


 もう異性としては見れず嫌になってしまったとか、自分の中での気持ちが冷めてしまったとか。そういった恋愛上仕方のない、やんごとなき理由なら、こうして彼の望む別れを拒むことは何よりも大事なジークを困らせてしまうだけだ。


 心の中に激しい葛藤は残るかもしれないけど……黙って身を引く覚悟だって、出来ただろう。


 けど、この流れは絶対に違う。


「ジークの、覚悟は……わかったわ。じゃあ一回、私を抱いて!」


「……え? ちょ、ちょっと、待って。一体、何を言い出すんだ……レティシア?」


 泣く泣く私との別れを選ぼうとしていたジークにとってみたら、これは思ってもみなかった話の流れだったのだと思う。


 あまりの驚きに流していた涙は止まって、信じられないと言わんばかりに見開いた目を何度も瞬いている。


 それも、そうだと思う。


 私はいつだって大好きなジークに好かれたくて、嫌われたくなくて。清純なお行儀の良いご令嬢を、彼の前では常に出している自覚はあった。


 というか、ジークに好かれたいと思えば、自然とそういう可愛い乙女な部分が強い私になるのだ。


 けど、そういうところだって、私の一部だし、すべて嘘をついて演技をしているという訳でもないんだけど。


 だから、こういった長年連れ添った婚約者が別れるかどうするかみたいな、緊迫した場面で、そんな色っぽくも激しい主張を私が口にするなんて、ジークは夢にも思ってもいなかったはずだ。


「私……今から少し、っていうか。大分、はしたないかもしれないけど。もう、ジークが生きるか死ぬかという話だと言うのなら……もうここで、言ってしまうわ」


「……レティシア?」


 静かに言い切り覚悟を決めた様子の私に驚きを隠せないジークは、先程からの話の流れに、とても戸惑っている。


 それも、そうよね。わかるわ。これから、もっともっと……戸惑うでしょうけどね。


「あのね。私はもうすぐ、ジークの鍛え上げられた肉体の筋肉を堪能出来る初夜が、もうすぐそこっていうこの時に、絶対に婚約解消なんてしたくもないし、石に齧りついたとしてでも、絶対に死にたくなんてないのよ!! 婚約してからというもの。十年もの長い間、結婚する時を楽しみに待って、ずっとずっと……キスだけの関係だって、我慢をしていたのよ!! ジークの美しい鍛えられた身体を隅々まで愛でる夜を、もし死ぬんだとしたなら、その前に一回は絶対に体験したいの!! 良い? 死んでしまうというのならその前に、私にその素晴らしい肉体を愛でさせて!!」


「え。あ。う……うん。わかった……」


 私のこんな私欲にまみれた欲望を知らなかったジークが驚き戸惑い、有り得ない程の激しい勢いに押されて思わず頷いてしまったのはわかってはいるけど、私だってここまで明け透けに言って、もう引くつもりはない。


 先程勢いでしてしまっただろう肯定を、これから先も有効に活用させて頂く。


「私だけのために、ジークが身体を鍛えた訳じゃないことは、知ってるけど……ずっとずっと、本当にずっと。心から、楽しみにしていたのよ!! 苦手だった淑女教育だって、優秀なジークとお似合いだと言われて結婚するためにと思って、死ぬほど、頑張ったし!! ここで、その全てが何もかもダメになってしまうなんて、耐えられない!! 絶対に、嫌!!」


「そ……そうなんだ。それは、知らなかった」


 さっきまで憔悴して真っ青な顔色をしていたはずのジークは、あけすけな私の正直な欲望を初めて聞き照れているのか。若干、頬に赤みが差して来た。


 それを手放しで喜んで良いところなのかは、私も迷うところだけど。


 もう後から思い返せば、死にたくなるくらい恥ずかしくなることを言っていたとしても、なんだって良いわ。


 ジークがこれからも生きようとする気力を、少しでも取り戻してくれると言うのなら。私は痴女だって道化にだって、何にだってなれる。


 それに、私は嘘はひとつも言ってない。


 ジークと甘い夜を過ごしたいというのは、心からの私の願いだ。というか、結婚式後で、彼と二人でイチャイチャする蜜月だって、本当に本当に心から楽しみにしていた。


 それが、こんな良くわからないことでダメになってしまうなんて、私のすべてがもう耐えられない。


「わかったわ……もう、本当に訳がわからないけど、これから何か私に悪いことが起きるんでしょう? ……私本人が、なんとかするから、ジークは心配せずに、ここで安心しててくれたら良いから。良い?!」


「……え? レティシアが? 自分で……? でも、それは……」


 か弱き女性は守られるものであるという、古風な考えを持つ騎士ジークは、彼にとっては守るべき存在の私が、自分を救うために動くと言っていることを聞いて、渋っているようだ。


 そういう騎士道精神の持ち主なところも私から見ると、とても可愛くて好きなので、殊更彼の前では私はか弱い令嬢演出をすることを躊躇わないし厭わなかった。


 弱い振りをして、よりジークに愛されるなら、いくらだってしても良い。


 けど、世界一大好きな彼と、別れるかどうかの瀬戸際で、意味のない猫を被っている場合ではないのは……確か。


「ねえ。ジーク。聞いて。私がジークを好きになってから、何年経ったと思う? なんと、十年よ! 二桁越えている年数よ! いよいよ募りに募らせたジークへの積年の想いが、成就するっていうこの時に……絶対に、絶対に。私は、別れないからね!!」


 そう一気に捲し立てて、はあはあと荒い息をついた私に、今まで呆気に取られた様子だったジークは、やっと小さくだけど笑みを浮かべてくれた。


「はは……レティシア。僕も、可愛い君のことが大好きだ。そういう、僕が全く予想もしないような突拍子もないことを言い出すところも……全部全部好きだ。僕には、君以外……考えられない」


「私も、好きよ……ジーク。だったら」


「でも、君を目の前で喪うなんて、もう……耐えられないんだ」


「ジーク……私の言いたいことだけ言って、ごめんね。泣かないで」


 また潤んだ金色の目から涙を零しはじめたジークの頬を、私は持っていた水色のハンカチで拭いた。


「情けないところを見せて、ごめん。レティシアが、好きだ。また君をあんな風に喪うなんて、耐えられない」


 ジークは悲しげに啜り泣くようにして、そう言って長い時間、泣き続けた。


 彼の隣で背中を優しく撫でていた私はと言うと、良く分からぬ状況を特に絶望したり、落ち込んでいたりもしていなかった。自分でも驚いてしまうくらいには、冷静だった。


 落ち込んで、悪い事態が良い方向に向かうのかと言われたら、私だってそれを検討しなくもないんだけど。絶対、そんなことなんてないだろうし。


 そんなことより、彼をこんな目に遭わせた犯人を見つける方法で。


 現在私には全く状況が掴めていないけど、落ち込んでいるジークから言葉を引き出して……作戦を練らねばならない。


 ここ十年。


 主にジークに好かれたいというためだけに使われていた、状況に応じて作戦を練り、不慮の事態さえも計算に入れた完璧な計画を策定し実行する能力を、大事な今こそ使うべきなのかもしれない。


 私の涙ぐましいジークの隣に居るための十年間の頑張りをすべて無にするなんて、例えこの国の頂点に立つ王様が犯人であったとしても……絶対に許さない。


 ずっと啜り泣くようにして泣いていたジークがようやく少し落ち着いて、ポツリポツリと言葉を絞り出すようにして、彼が味わった地獄にも似たこれまでの経緯を少しずつ話してくれた。


 そうして教えてくれた、ジークの身に起こっていた私の知らない、とても信じ難い幾つかのこと。


 もうすぐ私は、ジークの親友であるアルベールと恋仲になって、彼を裏切る。そして、世間的にはとてもとても許されない関係性の二人は、傷付いたジークに見せつけるようにして、死後の世界で結ばれるためにと共に心中を選ぶことになる。


 そして、そういった悲劇の一連の流れを、今ここに居るジークは、何度も何度も数え切れない程に繰り返した後らしい。


 けど何も彼だって、ただ悲劇が起こることを、手をこまねいて見ていた訳ではなかった。


 もしかしたら、こうすれば上手くいくかもしれないと思い、繰り返す中で何度も選択肢を試行錯誤して選ぶことを繰り返したらしいけど、最後に行く着く先はどうしても同じ結果になってしまうらしい。


 そして……ジークにとっては直近の悲劇の最後で、私にとっては三日前のあの時に戻る前。


 とても……口には出せないような酷い死に方の私を、彼は目の当たりにしてしまった……だから、それを見せつけられたジークは、ついには心を折られてしまったらしい。


 これまでずっと、裏切ってしまう当の本人である私には言えなかった事を、ようやく言えたと思い安心したのか、心にあった重荷を少しは降ろせたらしいジークは泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。


 ここのところ食事も食べていないし、ろくな睡眠も取れていなかったらしいからゆっくり眠って欲しい。


 きっと、責任感が強くて真面目なジークのこと。彼は一人で思い悩み、自分の力だけで、なんとか解決しようと思ったのに違いない。


 今までは、それで良かったかもしれない。実際、私は彼に頼られたことなんて、これまでになかった。けれど、完璧に見えるジークフリートだって、一人の人間で。


 傷つき悲しんで、そして……どうにもならない現状に、絶望だってする。


 私は彼に上掛けを掛けて、静かに部屋を出た。


 ジークの部屋の近くで心配して待っていてくれたエルネストお義兄様に、ジークは仕事のことで心労があってようやく眠れたみたいとだけ言い残し、マックール邸を後にした。


 ジークが持つ絶望は、そういう事だからかと私も理解は出来た。それに、彼の表情や様子からして、それは本当に起こってる事態なのだろう。


 ……けど、一体。私が裏切るとは、どういうことなの?


 私は現在もこうしてジークのことが大好きな訳だから、彼の親友のアルベールを異性として好きになんて、絶対にならない自信がある。


 というか、アルベールだけはダメだ。もし、何かのっぴきならないジークをそういう意味で裏切らなければならない理由があったと仮定して、そうしなければならないにしても、彼の名前だけは真っ先に候補から外すべき人物だった。


 それに、もうすぐ結婚する婚約者と信頼していた親友に裏切られ、愛する人を目の前で失う人生を、何度も繰り返すなんて……なんだか……ジークのことを、ただただ苦しめたいだけ、みたいじゃない?


 もしかしたら、誰かが……彼のこと、恨んでる……?


 もし、そうだとしたら……。そこまで思い至り、背筋がゾッとするほどの誰かの悪意を感じて、私は馬車の中でギュッと両手を組んで握り目を瞑った。


 とにかく、ジーク本人から詳しい事情を聞いたとしても、未だに良くわからない事態であることは、何も変わりない。


 けど、ジークがそんなにまで苦しむくらいだったら。私が代わりに犠牲になった方が、まだ良いと思ってしまうくらいにまで……絶望した様子を見せる、彼のことがただ心配だった。




◇◆◇



「ちょっと!! アルベール!! 貴方。私に懸想なんてしてないわよね?」


 私はマックール邸を出たその足で、アルベールの住むロナン伯爵邸へと赴いた。


 彼ら二人が幼い頃から仲が良いことから想像出来る通り、広い貴族街でも近所なので私もすぐに辿り着くことが出来た。


「招かれてもいない邸に来て、先触れもなく僕の自室に入って来て早々、いきなり何の話? レティシア。君は僕の大事な友人、ジークフリートが愛する婚約者だ。僕は異性愛者で一応は君も範疇内に居るとは言え、今まで恋愛対象にしようと思ったことは、毛ほども考えたことはない」


 珍しく眼鏡を掛けていたアルベールは自室でまったりと寛いでいたのか、大きなソファで本を読んでいた視線を上げた。そして、傍若無人な客人である私を慌てて追い掛けて来ていた執事に、目で合図をして彼をこの場から下がらせた。


 確かに私がしたことは、通常であれば彼の言う通りに、貴族間では許されるような無作法ではない。けど、これは到底通常の事態と言えるものではなかった。


 それは、三日前から寝込んでいるジークを知っているだろうアルベールも、物言わずとも察してはいるようだ。


「そうよね。お互いに、こうして可能性なんて……全く、ゼロなのに。でも……ジークは、私たち二人の仲を疑っている……なんで?」


「ちょっと待って。僕が、レティシアに懸想して、あいつを裏切る? もしかして、ここジークの数日の体調不良は、その有り得ない疑いのせいなのか? 本当に申し訳ないけど、今までに一度たりとも……それは、全くもって考えたことも無い。何をどうしたらそんな勘違いをするんだ……?」


 私の話した内容に不快そうに眉を顰めたアルベールは、ジークから直接聞いた私以上に良くわからない話の流れに動揺しているようだった。私だって彼と同じ立場なので、気持ちはわかる。


 けど、私が慌ててアルベールの元にこうしてやって来た理由も、理解はして自分の目の前にあった椅子を指し示し話を聞く体勢になった。


 アルベールは私が先程ジークから聞いた彼が繰り返し起きているという悲劇の内容を詳しく説明しても、良くわからないという表情を崩さないままで呟いた。


「あいつは……ジークフリートは、誰かを騒がせたいからと、こんな良くわからない嘘をつくような人間ではない。だから、それはきっと事実なんだろう。けど、僕と君の二人が、あいつを近い将来裏切る……? 有り得ないな」


「だよね。私も、それは同じなんだよね。だって、アルベールは私の事、親友のことが好き過ぎる変な女としか、絶対思ってないし……」


「僕の中での、自分の立ち位置を正確に把握してくれていて、とても話が早くて助かるよ。けど……なんだか、君の話を聞くと……何かの良くない呪いのような、気がするね……精神を操るような。レティシア。念の為に、これから決して外さずに身に付けておいて」


 立ち上がったアルベールは、文机の引き出しの中から取り出した立派な小箱を手にして、私に渡してくれた。首を傾げつつ中を開けば、何の変哲もない飾り気もない小さな銀の指輪だ。


「え? 何これ?」


「……それは、ロナン伯爵家に伝わる、大事な家宝のひとつなんだ。魔術的な呪いを、防ぐ護符の指輪だ。僕はもうひとつ兄に受け継がれたものを借りて、それを身に付けておくことにするよ。個人で扱うにはかなり高価な指輪なんだけど、レティシアの話を聞いていると、多分……君もこれを持っておいた方が、良いと思う。僕ら二人が心を操られさえしなければ、ジークフリートが今恐れているような事態には、決してならない筈だ」


 貴重な魔除けの指輪を貸してくれるというアルベールが言いたいことは、私にも理解出来た。


 要するにアルベールは私たち二人は、何らかの呪いでもなければ、ジークを裏切るなんていうことは有り得ないと、彼だってそう思っているのだ。


「……そうよね。ジークが何度も何度も経験した人生の中では、私はアルベールに心を移したのよね? ……絶対に、有り得ないことだけど」


 そんな二人が寄り添いジークの前に姿を現す嫌な想像をして。どうしても顔を歪めてしまった私に、アルベールは微妙な表情をして頷いた。


「うん。ちょっと、まあ。そうだな。君はそう思うだろうなと、わかってはいても、そうして面と向かって言われたら、若干傷つくけど……確かにその通りだ。君は大好きなジークを裏切って、何か良い事があったかと言われたら、何ひとつとしてないだろう。きっと……誰かに、心を操られていたんだ。その相手役となった僕だって、きっとそうだろう」


「そっか……信頼していた二人が操られて、裏切るような態度を見せれば、ジークは驚き動揺してしまって、その可能性には、彼も気が付くことが出来なかった?」


「普段の、冷静なあいつなら……すぐその可能性にだって、気が付いただろうけどね。それだけ愛する君に、裏切られたショックが大きかったと思えば、それも無理はない。本当に、辛かっただろうな」


 アルベールは、悲しげな溜め息をひとつついた。彼にとっては家族の一人と言っても過言ではないジークにそんなことがあったと聞けば、憂鬱になるのは当然だ。


 物憂げな彼の前に居る私はと言うと、ふつふつと心の奥底から湧き上がる燃え立つような怒りを、我慢することが出来ない。


「実際には、私は彼を裏切ってないけど……そういうことよね。そして、ジークが事実に気が付かない内に、私達二人は悲劇へと向かって、ジークに見せつけるようにして心中を選ぶ。そうして、遺された何の罪もない彼の心をずたずたにして、切り裂くって訳ね。ちょっと!! そんなの絶対、嫌なんだけど!! 仕掛けたのは誰なの? 絶対に見つけて、早急に抹殺するわ」


「……涙ぐましい努力をして、長年被ってたお淑やかな令嬢の仮面が、完全に取れ掛けているけど、大丈夫? まー。君の話を聞くところ、概ねそういうところだろう。本当に、酷いことをする。あいつがあそこまで、憔悴するなんて、何かおかしいとは、思っていたが……そういうことだったのか」


「けど。もうすぐ彼を裏切るはずの私たち二人が、これだけ現状を把握出来たんだから、ここから先の対策を適切に練れるはずよ。ジークは、今はもう……悲劇を何度も繰り返して絶望してしまって、気力がないわ。そんな彼に、無理をさせたくはない。私達二人で、なるべく動きましょう」


「そうだな。僕も、それについては賛成。とりあえず、ジークフリートに恨みを持つ、犯人らしい人物を調査して……一人ずつ可能性を、地道に潰していくか」


 まだ若いというのに団長のジーク同様に副団長を任されているというアルベールは、状況把握と話が早いので、彼と協力し合わなければいけないこちらとしてもとても助かる。


 そして、ジークを裏切るはずの私たち二人は、今後お互いにすべきことを話し合い頷き合った。


 とりあえず、私たち二人は相談の結果。騎士団長であるジークの仕事関係から、容疑者探しを進めることにした。


 なぜかと言うと、ジークが騎士団長を務める王都騎士団は、敵国相手の遠征などは担当しない治安維持目的の騎士団とは言え、王都周辺で起こる厄介ごとなどを一手に引き受け、片付ける役目をしていたからだ。


 そういった彼の職業の関係上、何か罪を犯して捕らえた誰かから逆恨みされて、ジークフリートが呪いにかけられてもおかしくないと言う、私たち二人の意見が一致したからだ。


「……こんなに……これって、本当に全部ジークが、担当した事件なの? 凄い量」


 座ってる前の机にうずたかく積み上げられた捜査資料を見て、私は思わず溜め息をついた。


 流石に書類は事件別には閉じ紐で纏められてはいるものの、ざっと見ても数を数えるのを諦めてしまうくらいには凄い数だった。


「うん。そこにあるのは、ほんの一部だよ。あいつが優秀でとても勤勉な性格なのは、長い間すぐ近くに居たレティシアが一番に知っているだろう」


 アルベールは、何でもない様子でそう言った。けど、そう言った彼が親友のジークの事を、誇りに思っていることは私にはわかった。何のことはない。私もアルベールも、ジークのことが好きなのは変わらない一緒の気持ちなのだ。


「うん。そうだよね……ジークは、本当に何でも出来るし凄いんだもんね」


 誠実な彼は、王より自分に任された仕事を、忠実にこなそうと頑張っていた。けれど、その過程で捕らえた誰かにあんなことをされるまでに恨まれていたとしたら……なんて、切ないものだ。


 誰だって、全ての場面で善人には成り得ないけど。


 広い資料室から、アルベールはもしかしたらこれではないかという捜査資料を素早く選び出し、私はその資料を見て関係者などの名前を洗い出して書き出す。


 朝早くから調査を始めて、そろそろ昼近くになったところで、資料室の中で聞き覚えのある低い声がした。


「……アルベール? こんなところで、一体何を……レティシア。なんで、君がここに居るんだ?」


「ジーク!」


 居るとは思っていなかった人を見つけ戸惑った様子の彼を見て、私は思わずいつものように嬉しくなって名前を呼んだ。


 ジークの持つ役目上、流石にずっと休んでもいられなくなったのか。彼は今日は、王都騎士団に出勤したようだった。


「お疲れ。ジーク。僕もレティシアから、話を聞いている。僕たち二人は、君のために色々と、画策しているところ」


「え……? ちょっと、待て……なんで、二人ともその指輪……」


 ジークは目敏く、私とアルベールの手にあるロナン家に伝わる魔除けの指輪を目に留めたようだった。


 アルベールはどうなのかは、興味が無いから知らないけど。ともかく、私に関しては指輪を嵌めていたのを見たのは、これで最初だったと思うから目立ったのかもしれない。


 だって、私は人生で最初に嵌める指輪は、ジークとお揃いの結婚指輪だと決めていた。けど、生きるか死ぬかの瀬戸際で、そんな小さなことに拘っている場合でもなかった。


「ああ……これは」


 アルベールがなんなくこの魔除けの指輪について説明しようとしたところに、ジークは言葉を被せるようにして言った。


「やっぱり、またか……また、繰り返すのか」


 暗い表情になったジークは一人納得したように自嘲して、資料室を出て去って行ってしまった。取り残された私とアルベールは、呆気に取られてしまった。


 私たち二人だって仕方なく、お揃いの指輪をしているだけで!? しかも、詳しい説明をしようとしたのに、それだって聞かないまま!?


「あいつ……本当に、おかしくなってるな。これまでの事情を知れば、無理もないけど……レティシア。今はジークを追いかけなよ。ここは僕が片付けておくから」


「……ごめんなさい。ありがとう! アルベール!」


 私は取る物もとりあえず、ジークを追い掛けた。私は本当に彼が好きなので、どんなに人波に埋もれても離れた位置の後ろ姿でも、白黒に色が付いたように彼だとわかってしまう。


 走って走って追いかけて、ジークの腕を掴んだ。


「もうっ! 聞いて! 違うの。私が、ジークを助けるの! 絶対、このままで絶望したままで終わるなんて、させない。絶対に、ジークを酷い目に遭わせようと企てた犯人を、捕まえるんだから!」


 魔除のための指輪で、完全に勘違いしてしまって暗い表情だったジークは、私の言葉に酷く驚いた様子だった。


「え……レティシア。一体、何を?」


「私もアルベールも、絶対にジークを裏切らない。お願いだから、私と彼の話を聞いて。何度も何度も裏切った私にだって、もしかしたら、何か理由があったのかもしれないって、わかって。私はジークが大好きだから、他の人に心を移すなんて、ありえないわ……絶対に、考えられないのよ」


「だが」


「ねえ。お願いだから。話を聞いて。私を死なせないために、婚約解消しようとまでしたんでしょう? そんなことを結婚式直前の土壇場の今してしまえば、自分の社会的地位も信用も何もかも失ってしまうのをわかってて。一回もう死んだと思って、私の言葉を信じてからでも……良いんじゃない?」


「レティシア」


 ようやく、誤解だとわかったジークは私の言葉を聞いてくれるようになったみたいだった。それにしても、彼の心の傷は深そう。だって、私とアルベールの二人は彼にまだ何も言ってないもの。


「ね。資料室に戻ろう。私たち二人がこれからやろうと思っていることを、ちゃんと説明するから……そして、ジークも被害者として、意見出来るところは教えて欲しい」



◇◆◇



 ジークは私と一緒に資料室へと戻り、何で私たち二人がお揃いの魔除けの指輪を付けているのか説明すると、勘違いしたことを素直に謝ってくれた。


「すまない。二人を見て、頭に血が昇ってしまって……勘違いをした。申し訳ない。許して欲しい」


「本当に、そうだよ……なんか、良くわからぬ内に悪どい間男役にされているが、僕だって自分ではない男を好きな女性を寝取るような趣味はない」


「アルベール……」


 難しい顔をしたアルベールの言わんとしていることは、もっともだと言えた。そして、彼と共に一緒に居ただけで疑われた私だって、そうだ。


 ジークを裏切ろうなんて、本当に一切考えもしていない。けど、実際にもしそれがあったとしたなら、何らかの理由があったはずだ。


「お前は、何だって自分だけで悩んで、解決すれば良いと思っているんだろう。この事だって、すぐに僕とレティシアに相談して居れば、そんなに何度も心から傷付くこともなかっただろうに……まあ、もう良い。終わったことだ。今回はどうにかしてひっくり返せば、良いだけのことだ」


「すまない……」


「ねえ。もう良いでしょう。何度も辛い思いをしたのよ。ジークを、もうこれ以上責めないであげて……」


 私はまた憔悴した様子で肩を落としてアルベールに謝るジークを見ていられなくて、思わず声を上げてしまった。


「はいはい。君のことが死ぬほど大好きな婚約者に免じて、とりあえずここは許してやることにするか……では、ジーク。僕たちには、君を救うための情報が圧倒的に足りてないんだ。今は思い返すのも辛いとは思うが、覚えている限りで良い。何でも良いから、これから僕たちに起こるだろう未来のことを教えてくれ」


 その時のアルベールの厳しい目は、完全に職務上の捜査に携わる副団長、そのもの……だった。


 そして、私たちの話に話に耳を傾けてくれて、前向きに協力してくれることになったジークが言うには、私たち二人の裏切りが発覚する舞台は、何故かいつも同じ夜会だったらしい。


 その後は、それからのジークの動きによって展開が分岐したりするらしいけど、必ず私たち二人がジークに見せつけるようにして二人で踊って恋仲だと主張するのが、その夜会だったそうだ。


 ジークも、流石に今まで繰り返した全てを正直覚えてはいないそうだ。何度も悲劇が起こるのをどうにかしようとして頑張ったけど、徒労に終わった。そして、私を生かすためにすべて諦めようとして、心が折れてしまったみたい。無理もない、話だと思う。


「まぁ……十中八九、その夜会には、術師が確認のために来ているな。そして、自分の企みが首尾よく上手くいったかを、そこで確認しているんだろう」


 アルベールは、淡々としてそう言った。確かに……犯人は、自分の思惑通りに上手くいったという証拠は見たいはずだ。


 だから、その夜会をすべての始まりの場所に選んだ。


「きっと、そうよね。けど、私たちはまだ、その犯人の正体を掴んでない訳だから……私たちは罠に掛かったと思わせておく方が、良い……?」


「レティシアの、思っている通りだよ。僕たち二人に呪いは効かずにジークを逃したと思えば、次はもっとわかりにくい状態で術を仕掛けられても困る。それに会場内に犯人が居るかもしれないという、とても良い状況は利用出来そうだ……ここは、僕ら二人は芝居をしておいた良さそうだ」


「わかったわ……けど、私は絶対にジークを傷付けるようなことは、言いたくないわ。必要だとわかっていても……それだけは、絶対に出来ないから」


「とてつもなく演技の下手そうなレティシアに、僕もそれは決して望まない。とりあえず、僕の隣で笑っているだけで良い……ジーク、お前もそれで良いか?」


 アルベールが必要なことを答えた後、黙ったままだったジークに水を向ければ、彼ははっと我に返ったようにして何度か頷いた。


「わかった……」


「よし。それでは、僕らが犯人らしき人物を見つけた時のためにも、部下を何人か配置しておこう。これは我が王都騎士団の騎士団長を狙った立派な傷害事件だからね。落とし前は、付けて貰う」


「傷害……?」


 ジークは、アルベールの言葉を聞いて少しポカンとした顔をした。そんな親友を見て、アルベールは大きな溜め息をついた。


「なんだ。そんなことも、気がついていないのか……ジーク。お前の心は、無惨にもズタズタに切り裂かれ、もう……本当に目も、当てられない程だ。こんなに愛し合っている婚約者のレティシアを諦める選択をするまでに、お前がどれほどまでに繰り返し苦しんだか……それを思えば。お前と近しい僕は、犯人を決して許すことなど出来ない」




◇◆◇




「……どう? それっぽい人、居そう?」


 私はいつもとは、違う人。アルベールの隣で歩きながら、そつなく周囲に微笑みかけつつ、彼に小声で聞いた。


 婚約者のジーク以外の人に夜会でエスコートされるなんて、これが初めてのことだった。けど、それもこれも大好きなジークを救うため。


 ジークの隣以外歩きたくないっていう私の我が儘なんかで、大事な場面を失敗することは出来ない。


「レティシア。君は自分がとてつもなく短気だという、自覚はあった? 僕たちが会場に入ってから、まだ十分も経ってないよ」


 きっちりした夜会服を優雅に着こなした麗しいアルベールは、仕方なさそうな呆れ顔を私に向けた。


 まだ全然時間が経っていないことは、私だってちゃんとわかってはいるけど……ジーク以外の人を伴って夜会に来た私が珍しいのか。周囲の好奇心一杯の視線が集まるのを感じて、今にも逃げ出したくなった。


 ううん。こんな有象無象がどう思うなんて、関係ない。私の本当の気持ちは、肝心のジークがわかっていてくれるから良いのよ。


「だって……早くジークの元に、帰りたいんだもの」


「君の気持ちはわからんでもないけど、身体が離れ過ぎだよ。今は道ならぬ恋に落ちた演技をしているんだから、もっと僕にくっついて」


 自然とアルベールから離れそうだった私は、彼に引かれて寄り添うようにしてくっついた。こんなところをジークに見られたら……と思っても、ジークだってこの演技の必要性には頷いていたし、問題はないんだけど。それと、気持ちの問題は別である。


 一応私たちは表向き、仕事中の婚約者ジークが遅れるから、彼の親友のアルベールと一緒に居るってことにしている。


 しているっていうか、実際もそうなんだけど……今までジークが見た繰り返しの中の私たちは、特に言い訳もすることなく、堂々とイチャイチャしていたようだけど、私はもうすぐジークと結婚する大事な身なのである。すべて解決した後々の社交のことも、考えておかなければいけない。


「……レティシア。君は嫌だろうけど、何回か踊ろう」


「え……でも、そんな事をしたら……」


 二回三回と複数回踊るのは、婚約者や夫婦のような決まったカップルだけだ。アルベールははっきりとした言葉で宣言せずに、私たちの仲はそう言う事だと周囲に見せたいらしかった。


「それは、ほんの一瞬だけ貴族間で噂はされるだろうが……いつも通り君とジークが、お互いに世界には僕たち二人きりみたいな顔をして四六時中見つめ合っていれば、すぐにそんな噂は消えて無くなる。必要なことだ。少しだけ我慢して」


「私たち二人って……もしかして、今までそんな風に見えていたの?」


 私が上目遣いで聞いたら、アルベールは肩を竦めて頷いた。


「むしろ、逆に聞きたい。それ以外の、どんな風に見えると思っていた?」


 アルベールは私の手を取って、踊るためにダンスホールへと歩み出た。


 私は社交上仕方ない必要最低限の場合を除き、いつもジークとしか踊らない。アルベールと踊るのは初めてだったけど、彼はダンスがとっても上手だった。当初の目的を一瞬忘れてしまうくらいに、気分良く踊ることが出来た。


 微妙な関係性の私たちが何度か踊っていることに、訝しい視線を送る人も居た。悪い噂を、生むかもしれない。


 けど、私たちはこれから迫り来る悲劇を回避することが、最優先事項だった。それ以外は、瑣末なことだ。


 アルベールはにこやかな笑顔で、甘く囁くようにして私に耳元で言った


「居た……こちらを見つめてニヤニヤとした嫌な笑いを浮かべた、変な奴が居る。僕は一瞬だけ離れて部下にあいつをつけさせる。レティシアは、先にジークの待っている馬車へ」


「っ……見つけたのね」


 私は、思わず息を呑んだ。アルベールは頷いて、にこやかに微笑みダンスの終わりを表す礼をした。


「絶対に、姿を見失いたくない。とりあえず僕はここで、離れるよ。ジークの傷付いた顔も演技ではないな……向こうも、あれは疑わないだろう。良いか。会場の中で君から近づいて、あいつを慰めようなんて絶対に思うなよ」


 アルベールはそんな事を話しているとは決して思えぬ、甘い表情だ。私も出来るだけ、表情を作って頷いた。目の前に居るのは、ジークだと思えば成功しているはずだ。


「……わかってるわ。今私がジークに近づいて慰めたら……いけないんでしょ?」


「そう。そんな事をしてしまえば、僕らの作戦は全て台無しになる。わかっていたら……それで良い」


 アルベールは名残惜しそうな演技で手の甲にそっとキスをすると、去っていった。


 舞台俳優にだってなれそうな、名演技だ。周囲で見ているだけの人たちは、アルベールが私に厳しいことを言っているなんて、絶対に思わないだろう。


 周囲から非難するような騒めきが聞こえたけど、私はそれを振り切るようにして馬車へと急いだ。


 私の社交界での評判なんて、もうどうだって良い。ジークがこれから苦しまずに生きてくれるなら、それが一番大事なことだ。


 打ち合わせ通りに車止めに居る我が家の四頭立ての大きな馬車は、出発を今か今かと待っていたようだった。アルベールは、ロナン家の馬車で別に帰るだろう。ここに来た時と、同じように。


 御者に手を支えられて、馬車へと入ればこれから後でやって来ると思っていた人が、もう座っていて驚いた。


「わ。ジーク……早かったね? アルベール、首尾よく不審者を見つけることが出来たから、部下に言って追い掛けさせるって。上手く、行ったよ」


 私がふふっと微笑みながら彼の隣に腰掛けたら、ジークはそんなことなどどうでも良いと言わんばかりに、強く私の身体を抱きしめた。


「うん。僕もあれは今回は、全部嘘だと演技だと……頭では、理解しては居ても……本当に、傷付いた。レティシアは、僕だけのものなのに……」


「ジーク……私は、ジークフリート・マックールの婚約者で恋人だよ。十年前から……ずっと」


 ジークにぎゅうっと抱き込められた温かさは、慣れ親しんだものだ。とっても真面目な優等生のジークフリートとだって、触れるキスくらいはしたことはある。安心感に包まれているような、不思議な感覚だった。


 我が家の馬車に乗る予定の人物が全員揃ったので、御者は気を利かせて、私の合図を待たずに出発したようだった。


 夜会の開かれた大広間でアルベールが見つけたと言った人物も、誰なんだろう。アルベールの口振りでは、聞いても教えて貰えなさそうだったし。すごく、気にはなっていた。



◇◆◇



 先日の夜会で、不審な人物に目星を付けたアルベールが、部下を使って着々と捜査を進めている間に、私はいつもと同じようにジークと結婚式や新居について相談するためにマックール邸に来ていた。


 その犯人についてアルベールが言うには、私やジークが何をしているか筒抜けになるような調査をするための人員を割けるような、大きな組織的な犯行が出来るではないということだった。単独犯の、気配が濃厚。


 ただ、アルベールは、その人物については、私にはあまり情報を渡してくれていない。


 当たり前のことなんだけど、ただ疑わしいからだけでは逮捕は出来ない。今は何か決定的な証拠集めをして、間違いなく身柄を確保したいようだった。


 被害者本人が捜査に関わると良くないということで、最近はどうしても必要な仕事以外はアルベールや他の部下に仕事を任せているジークだったけど。彼だけは何かをアルベールから、聞いているのか。このところ物憂げで、浮かない表情のままだ。


 犯人は特定に近く、単独犯の可能性は大。だから、不特定多数の人前で見られて噂にでもならなければ、私とアルベールとの本当の関係などは、まんまと騙されてくれている人物に漏れることがない。


 それがわかったので、私たち二人はそのまま近く執り行われる予定の結婚式の準備を、進めて行こうということには……なったんだけど……。


「ね……ジーク? 大丈夫なの?」


「うん」


 今日だって式の相談にも身の入らないジークは私の問いかけにも、力なく頷き気のない返事だ。


 酷い悲劇の繰り返しの中から戻って来たというあの時から、本当にジークは人が変わってしまったようだった。


 けど、私の中にあるジークのことが好きな気持ちには、変わらず何の曇りもない。ただ、彼のことを好きなままだ。


「ねえ。ジーク。私の言ったこと、聞こえてる……?」


 私がもう一度彼に問えば、ジークはやっと言葉の意味を理解したのか慌てて頷いた。


「ごめん。少しだけ……考え事をしていた。さっきの君の言葉を、聞き逃してしまった。何?」


 ジークは真面目で、誠実だ。だから、こうした時の応対にも、彼のそういった部分は出ている。ちゃんと自分の非を詫びて、だからこそ。もう一度、聞き直してくれた。


「……あの。少しだけ、じゃないよね? 私に何か隠してる? もしかして、アルベールが見つけた犯人って……ジークの知っている人だったの?」


「いや……それは」


 ジークの、答えの歯切れは悪い。そして、金色の目は何か迷うように、定まらずに泳いでいる。


 彼の煮え切らない態度にムッとしてしまった私は言ってはいけないと、心で思っていたことをつい言ってしまった。


「……じゃあ。もしかして……どうせ、私はいつか裏切るんだから。こんな……結婚式の用意なんてしても、仕方ない。無駄だって思ってる……違う?」


「レティシア……ごめん。そんなことは、絶対にない。誤解だ」


 私が震えを抑え切れない声で言ったことに、ジークは本当に驚いたようだった。


 けど、私だって、自分の気持ちを、何もかもを彼のためと割り切れる訳でもない。何も考えない、意志を持たない人形ではない。


 同情すべき立場にあるジークのためにと、私だってこれまでに言いたいことをずっと我慢していたのだ。そして、それは堰を切ったように、口から溢れて出て来た。


「もうっ! 何よ! ジークのバカ! 私がどれだけ……貴方のことが好きかも、何も知らないくせに!」


 私は相談していた応接室を飛び出して、何も考えずに玄関の方へと早足で歩いた。


 私はなんで、貴族令嬢なのだろう。私がただの村娘だったなら、薄いスカートですぐに走って逃げることだって出来たはずだ。


 けど、私が纏っているデイドレスではとても身軽に走ることは出来ないし、これまでの常識がそれは出来ないから歩けと、怒りに任せている自分に言い聞かせるのだ。


 確かに、魔除けの指輪で自衛してなかったジークが過去に見た私は、彼を裏切ったのかもしれない。けど、それを知っているここに居る私は裏切らない。


 彼は、もうそれを知っているはずなのに。


「ちょっ……ちょっと、待って! ごめん。本当にごめん。これは、レティシアのせいなんかじゃない。僕の所為なのに……ごめんなさい……」


 慌てて追い掛けて手を掴んだジークは、私の目から涙が流れているのを見て本当に辛そうな顔になった。


「ジーク。私は、貴方を裏切ったりしないわ」


 何かで心を操作された私を何度も見ている彼には、この言葉は通用しないのかもしれない。


「ごめん……本当に、ごめん。でも、どうしても……怖いんだ」


 表情を曇らせたジークを見て、私も辛くなった。彼がこの状況を望んだ訳ではない。それは……わかっているのに。


「ジークの、せいじゃないのは……わかってる。けど……絶対に、犯人は許さない……」


「ごめん」


 そして、ジークは私の身体を、ぎゅっと抱きしめた。私とアルベールが魔除けの指輪を身に付け、ジークを裏切ることなんてないと彼はもう、すべて理解しているはずだ。


 けど、彼は今も何かが起こる事を、異常に恐れているように私には思える。


「……ねえ。あの……ごめんなさい。私。どうしても、こんなことをした犯人が知りたい。夜会に居るってことは、貴族でしょう? その人の正体は私には、言えない……何か理由があるの?」


 ジークは溜め息をついて、私の手を引いてさっき二人が居た応接室に戻った。部屋に居るメイドに言って、当分の人払いを命じていた。彼女が部屋の扉を閉めたと慎重に確認してから、ジークと私は並んでソファへと腰掛けた。


 美しい金色の目は、真剣だ。彼の手は私の両手を強く握っている。


 これからジークが明かしてくれるだろう事実が、私と彼二人にとってあまり歓迎すべきことではないというのは……確かみたい。


「レティシア。どうか、落ち着いて聞いて欲しい。先に言っておくが、これはすべて犯人のせいだ。これは、僕たちにとっては絶対に許し難いことだ。僕と君。どちらにも、何の非もない。それを、どうか……理解してほしい」


「わかったわ」


 前置きの理由が、良くわからないけど。話が進まないので、私は頷いた。


 ジークは溜め息をついて、私がずっとどういうことなのかと思っていた事の次第を話し始めた。


「まず……この話をしないと、何も始まらないんだけど。僕と君との婚約が正式に決まる直前に、ある人間から……僕は、というか父が脅されていた。色んな方法で、手紙が来てね。そういう能力を持っている人物だということは、わかっていた。アヴェルラーク家の令嬢と、次男を婚約させるなと。僕たちも調査はしていたんだが、その人物の特定は難しかった」


「っえ……」


 私は思わぬ話の始まりに、思わず声を漏らしてしまった。だって、それは……それだと……もしかして……。


「うん。僕も、最初は何も知らなかったんだ。だけど、父と話したアヴェルラーク侯爵から娘も乗り気だからと聞いた父は、僕本人にどうしたいか聞いたんだ。もしかしたら、レティシアと婚約したいと強く思っている誰かが居て。君と婚約すれば、誰かから、酷く恨まれるかもしれないと」


「嘘……」


 ジークがこれまで浮かない顔をしていた理由を知り、あまりの驚きに目を見開いてしまった私は、絶句していた。だって、そんなの……私と婚約したせいでジークが、あんな辛い目に遭ったって言うの?


「うん。けど、これは僕の婚約者が魅力的過ぎるということだけだから。可愛過ぎるという罪は、確かにあるだろうけどね……どうか、わかって欲しいんだけど。君は、何も悪くない」


 真面目なジークが珍しくふざけてそんな風に言ってくれたけど、私はとてもそれでいつものように笑えるような気持ちにはなれなかった。


「……ジーク。ごめんなさい。私が貴方じゃないとダメって言ったから……お父様は、マックール侯爵に強く出たのかもしれない」


 私の父親であるアヴェルラーク侯爵は、娘っていうか兄二人居る上での末っ子の私を溺愛していることは、この国の貴族社会では有名な話だ。


 そんな娘の希望だからと、かなり無理を言ってジークとの婚約を願い出て、マックール侯爵はそれを断り切れなかったのではないかと思ったのだ。


「そんなことは、ない。違うよ。僕がそれでも良いからって、父に言ったんだ。僕の未来に危険があろうが、それでも良いから。あの子と婚約したいって、そう父に言った。君のアヴェルラーク家は名家だから、爵位を持つ条件の良い嫡男のところにだっていくらでも引く手あまただっただろうに。レティシアが、スペアの僕でも良いと選んでくれたのが、嬉しかったんだ」


「私。初対面の顔合わせの後。ジークじゃないと結婚しないって、暴れたの……引く?」


 そう言えば、この話はまだしていなかったとジークを上目遣いに見れば、彼は首を横に振って優しく微笑んでくれた。


「……だから、そんな経緯もあったから。僕は、自分の身もそうだし。君を守るためもあって、幼い頃から騎士を目指した。そして、父も兄も……あの脅迫の手紙は、数が尋常ではなく、どう考えても不気味だった。だから、出来るだけ僕たち二人を傍に置きたがったんだ。そういう訳で、レティシアには悪いけど、僕らはこの邸の敷地内に住むことになった」


「それも。全部、私のためだったのね。嘘」


 何も知らずに、ただジークが好きだからと浮かれて彼のところに嫁ぎたいしか考えていなかった私のためにと、マックール侯爵家はどれだけの犠牲を払ったのだろうか。


 特に、ジーク本人だ。間接的にとは言え私のために、彼の心にどれだけの苦痛を与えてしまったの。


 無知は罪だ。それに、私はいくつかの不思議に思うヒントがあったというのに、その理由を自ら調べようともしなかった。


 目に涙を浮かべ顔を歪めた私を宥めるようにして、ジークは私の肩をゆっくりと撫でた。


「うん。けど……兄に婚約者が居ないのは、あの人が好みにうるさいせいだよ。君が気にすることはない」


 これは多分、エルネストお義兄様の優しい嘘だ。ジークの兄ということは、彼だって負けじと弟と同程度の美形だ。御令嬢からもモテている。私には弟のジークの方が、魅力的に見えているというだけで。


 だって、跡継ぎのあの人が、もし私たちより先に結婚をしてて、次の女主人が居るというのに、弟の嫁の私が邸に来ると聞けば嫌がるかもしれない。


 だから、近くに私たちがもう既に住んでいる前提でも、気にしない令嬢を求めることに彼はしたんではないだろうか。


 弟のジークと私の結婚式を先にすることにして、彼はまだこれまでに婚約だってしていないのだ。


「信じられない……私って、今まで何も知らず。周囲のことを、不思議に思っても何もわかろうともしなかった。自分のとんでもないバカさ加減に、本当に嫌になるわ。私一人だけ、幸せで浮かれているだけだったのね。どうして。私が貴方が良いと我が儘を言わなければ、ジークはあんなに苦しまずに済んだのに」


 あの晴れた日のお茶の日に、私たちの前に現れたジーク……目の前の彼は、幾度とない悲劇を、繰り返し見て来たはずなのだ。


「レティシア。どうか、落ち着いて欲しい。僕たちマックール家はすべて好きでしたことだし。あと君自身は、本当に何も悪くない。可愛いお嫁さんを娶ることが出来て、僕は本当に幸せなんだ。どうか……泣かないでくれ」


 ジークは、彼の胸の中で泣く私のことを、決して責めなかった。優しいのだ。だから、彼を好きになった。なのに……それが、悲しい。


「っ……ジークっ。どうして、あんなにっ……暗かったの?」


「……君は、僕のことが本当に好きだから。もし、犯人が捕まって、この真相を知れば、こうして悲しむだろうと思った。だから、どうにか出来ないかなと、思って……無理だった」


「ジーク……」


「僕のことは、もう終わったことだから、そのことはもう良いんだ。けど、レティシアがすべてを知って悲しむのは、嫌だったんだ」


 何もかも……今までの、これまでの何もかも全部が全部。何も知らない、ただ彼を好きなだけの私のためだった。



◇◆◇



 夜寝ている時に、アルベールに借りたあの魔除けの指輪が熱くなっているのを感じて、私は夜中にも関わらず目を覚ました。


 目に映るのは、見慣れた自室のベッドの天蓋だ。そこから垂れているレースが……揺れている?


 風が、吹き込んでいる。ということは、窓が開いている。けど、私がまだ眠る前には、それはきっちりと閉められた後だったはずだ。


「……誰が、居るの!?」


 私は身体を起こして、窓辺へと視線を移した。そこに居たのは、見たこともない黒衣の男。


 我がアヴェルラーク家が雇っている、優秀な護衛たちが来ないのもおかしい。風が吹いているはずなのに、風の音だって何ひとつ聞こえない。きっと、音消しの呪文が、使われているのだろう。


 男はしゃがれた声で、言った。


「あれー? おかしいな……連れ去る今夜は万が一にも、起こしたらいけないと思って、魔法を重ね掛けしようと思ったのに……起きちゃった。レティシア。おはよう」


 視界は薄闇の中で、良く見えない。だけど、男は微笑んだことがわかった。にいっと不気味に弧を描く口元。ひょろひょろとした体躯は、男が身体を鍛えるような……そんな職業ではないことを、示していた。


「……魔法を、重ね掛け? 貴方、なのね……ジークに悲劇を繰り返させる呪いを、掛けたのは……」


 ついつい声が震えたのは、目の前に居る人物が怖かったからではない。あまりに湧き上がる怒りに……感情の昂ぶりを、どうしても止められなくて。


「あれ? そこは、上手く行ってたんだ。あいつには、僕もレティシアを取られたからね。お返しに、取られた側の気持ちを教えてやろうと思った」


「取られた? 私、貴方のこと……何も知らないんだけど。そんな風に親し気に名前を、呼ばないで欲しいわ」


 まるで、旧知の中だと言わんばかりの男は、私の嫌味のこもった尖った言葉もさらりと受け流してしまったようだ。


「……そうだろうね。アヴェルラーク家の令嬢に、縁談の申し込みをしていたのは、マックールだけじゃない。僕は、あいつの前にレティシアに会っている。君の婚約者候補だった男だよ」


 名前を呼ばないでって言ったのに、私の意志なんてどうでも良いと言わんばかりに無視されたのも嫌だった。


 もう……本当にこの状況の全部が本当に、嫌なんだけど。


「……十年前の? マックール家に、婚約するなって脅迫したのも……貴方?」


「うん。そうそう。そして、君はアルベール・ロナンと恋仲になったはずだった。だが、上手く術が掛からなかったようだな。手応えは、あったはずなのに。その変な指輪に吸収されたせいか。というと、途中まで成功してはいたが……失敗したのか」


 静かにベッドから起き出した私の指に嵌っている指輪を見たのか、男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「そうよ。お気の毒様。大失敗よ……けど、なんで私の部屋に? 私はこれからアルベールと二人で、死ぬはずでしょう?」


「……流石に僕の作った魔法人形と言えど、今のレティシアのような、見事な受け答えは出来なくてね。まあ……あの男の前で死ぬだけなら、魔法人形で十分なんだが」


「許さない……あんなに、あの人を苦しめて」


 ようやく憎らしい悪役と対峙出来た私は、両手をぎゅっと握りしめた。


「僕からレティシアを奪った罪だ。何度も警告したのに、その度に、はね除けた。だから、僕も最後の手段に出ざるを得なかった」


 それは……そうでしょうね。この男の自分勝手な言い分に、本当に腹が立って仕方がなかった。


 私はベッドの隣にあった燭台を、手に取った。腰までの高さのものなので、非力な私でも優に持ち上げることが出来る。そして、金属製だ。これで殴れば、きっと痛いと思う。


「ジークを、これ以上苦しめるなんて……絶対に、させないわよ!!」


 私は言うが早いが、燭台を手に彼へと駆け出した。令嬢に有るまじき行為だと言われても良い。いい加減、この事態には、本当に頭に来ていた。


 目の前の男が、話が通じないというのなら。私だって、自分の身を守るために、強硬手段を使うしかない。


 けど、力のない私がよろよろと燭台を振り下ろした先で、男は余裕の表情で身を翻して避けた。


「なっ……! 何をするんだ! いくら、愛するレティシアだとて、僕に暴力をふるうなんて、許せない……今度は、お前を呪ってやっても、良いんだぞ!」


 だから、名前を呼ばないでと言いたいところを、ぐっと堪えて私は男を睨み付けた。


「良いわよ! ジークが、この先また、私のせいで何かで苦しむんだとしたら、その方が良い! やりなさいよ! それで、貴方の気が済むんなら! 私を、ジークの身代わりにしなさいよ!!」


 完全に怒り心頭の私はもう一度、良くわからないことを喚き散らす男に向かって燭台を構え直した。


 鬼気迫るほどに怒りを見せる私の迫力に、男は押され気味になって逃げ腰になった。


 両手を上げて、武器を持ち迫る私に止まるような指示をしてきたって無視だ。私がそれを聞かねばならない道理はないもの。


「……待て。違う。話し合おう……きっと、僕たちの間には誤解があるはずだ」


 慌てて両手を合わせて頼んでも、そんなことは私には関係ない。


「誤解なんて、何ひとつとしてないわよ! ジークと私は相思相愛で、誰に邪魔されたって、二人の気持ちが引き裂かれたりなんてしない。私はジークと結婚するために、これまで十年間、ずっと必死で頑張って来たのよ! 名前も知らないあんたになんか、私たちの邪魔なんてさせない!」


「あんたに……なんか。酷い。レティシア。君はそんな女の子じゃない」


 彼の中の私の理想像は、こんな最低な行為をされても何もかも許せる女の子なのかもしれない。そうじゃなくて……ごめんね。


「お生憎様。私は、元々こういう女よ。それに、私が可愛いところを見せる異性は、ただ一人ジークだけなの! それにそういう勝手な自分に都合の良い決め付けで、私の意志を操作しようなんてしないで。もう二度と、私に関わらないで。気持ち悪い。大嫌いよ!!」


 心からの言葉を荒げて大きく振りかぶって、私はなんとか手に持っていた燭台を男にぶつけることが出来た。


 ひょろひょろとした体躯の男はわざとらしく悲劇的に倒れて、いかにも大きな衝撃を受けましたというような被害者面だ。けど、もしこの人に何か言い分があるように私にだって言いたいことがあるというのは、当たり前の話である。弁護側が居るとしたら、被告側の言い分もあるはすだ。


「そんな……きっと、君は僕に会えば、喜んでくれるとばかり」


「どんな、おめでたいご都合主義な妄想なの……? そんなこと知らないわよ。ジークに、何故あんなことをしたの? 言っておくけど、ジーク本人が許しても、私は絶対に貴方を許さないからね」


 私は、思いっきり憎しみを込めて相手を睨み付けた。何の落ち度もないジークに対し、なんであんな酷いことが出来たの。どんな理由を聞いたとしても、納得なんて出来るはずがない。


「……ここに居る僕は、まだその行為をしていない。君の魔法人形が死ねば、あいつはまた過去へと戻る。その繰り返しのはずだ。だから、それはまだ僕のせいじゃない」


 要するに今回の繰り返しでは、私は死んでいないし、ジークだって過去には戻らない。ということは、この人にまだ罪はない。という主張なのは、私にも理解は出来た。


 けど、私たちが何もしなければそうなることは、明白なのだ。未遂でも、立派な犯罪行為だ。


「どれだけ、勘違いをした自分勝手さなの。もう二度と、私に近寄らないで。私は何を言い訳されたとしても、絶対に許せないから」


 男は立ち上がったので、もう一度燭台を構えなおそうとした私は、窓の方から荒い足音が聞こえて振り返った。


「……ジーク!」


 私は、突然現れた愛しい人の名前を思わず呼んだ。男と対峙する私の後ろから抱き付いて、後から入って来たアルベールと部下たちを一瞥した。


「……捕らえろ」


「まっ……待て! 僕は、彼女にここに呼び出されたんだ! それに、ここに居るというだけで何もしていない。燭台で殴られそうになったのは、僕の方なんだ!」


 見苦しく妙な言い訳を喚き立てる男に、私は本当に心底呆れた。何もかも人のせいになれば、自分は悪くないものね。


 ジークみたいな素敵な人と結ばれることになって、本当に良かった。政略結婚は貴族の娘の責任だとは理解しているけど……こんな人となんて、絶対に一緒になりたくない。


「……ブルース伯爵。貴方を今からアヴェルラーク侯爵家の邸に侵入した不法侵入罪と、我々に黒魔法を違法に使用した罪で逮捕します。申し開きがあれば、担当の刑務官に……僕は職務権限で貴方を今切って捨てることも可能ですが、それはしません。貴方と同じ側に、堕ちたくはない」


 ブルース伯爵と呼ばれた男は、ジークの言葉を聞いて項垂れた。


 ジークは目の前のブルース伯爵のことが、憎くないはずがない。こちらに戻って来た時から、あれだけ憔悴した様子を見せるくらい酷いことをされていたというのに、それを今自分の手で仕返しすることも出来るだろうに。


 ジークの言葉には、何の迷いはなかった。


「アルベール。頼む」


「わかった。おい。連れて行くぞ」


 窓から続々と現れた部下から、寝巻姿の私を隠すようにしてジークは前に出た。とても、淡々とした様子だ。彼はあんなに……本当にあんなに苦しんだのに。


 時間も時間だということで私の証言は後日ということになり、部下の人たちはあっさりとブルース伯爵を連れて帰って行ってしまった。


「ジーク……これで、良かったの?」


 ジークは私の言葉を聞いて、微笑んだ。私もそれを見て、嬉しくなる。


 彼のことが本当に好きだから。こうして、笑っていてくれるだけでも嬉しいのだ。自分でも思うけど、私の恋の病は相当重症で完治は無理だと思う。


「実は変な結界があって、それを破るまではと時間が掛かっていたんだけど……それまで、僕たちも君たちの会話を聞いていた。その中で僕の前で何度も死んでしまったのは、レティシアの魔法人形だとわかって」


「う……うん? そうだったみたいね。あの人も、そう言ってたわ」


 私はジークの言葉に、曖昧に頷いた。


 だって、それってももう、戻れない過去の枝のようなもので、そこでの私がどうだっただろうと関係ないと思うのに。


「うん。けど、僕の前で死んだレティシアが、本物のレティシアじゃなくて、良かったって……本当に思っているんだ。それにさっきのレティシアみたいに啖呵を切って、魔法を解かれればすぐに本当の君だって、あの男から逃げ出しているだろう……そう思うと、本当に良かったって思うんだ」


「あの……それって、その時の私が死んでなかったら、別に何でも良いって言ってるみたいに、聞こえるんだけど?」


 ジークは騎士団長の職務に相応しい、きっちりとした騎士服を着用していた。私は彼に近寄って、自分から抱き着いて背の高い彼の顔を見上げた。


「その通りだよ。レティシア。僕があれだけ落ち込んでいたのは、君のことだけだ。僕のことなど、どうでも良い。君さえ、生きていて幸せで居てくれたら」


「……ジーク」


「はい。そこの二人。自分たち以外のことなど、目に入らないことは理解しているが、こちらの邸の主であるアヴェルラーク侯爵とレティシアのお兄様二人がいらっしゃっているが、お通ししても良いかな?」


 アルベールがわざとらしく咳払いをしたので、私とジークは慌てて彼の方を見た。


 私たち二人が見つめ合っている間に、お父様とお兄様たちが来てしまったらしい。


 彼ら三人は私の婚約者ジークフリートのことを、あまり良く思っていない。それは、何故かというと、末娘の私をこの家から、連れ出すことになるから。それって、もしジーク相手ではなくても同じことなんだけど、いつも揃って彼に嫌味ばかり言うのだ。


 要するに子離れと妹離れの、出来ていない人たちなのだ。


「……ごめんなさい。ジーク。私行かなきゃ」


 責任者のジークフリートとアルベール二人は、この後私の家族に状況説明をしなければならない。けど、その前に私自身が状況を説明して、彼らをなるべく宥めなければ。


 それは、私にしか出来ないことだった。


「大丈夫。気にしないで。もうすぐ、こんなに可愛い子と結婚出来るんだから。何を言われたとしても、笑顔で耐えられるさ」


「……これからは、困ったことがあったら何でも私に言ってね。知っていると思うけど。私、可愛くて大人しいだけが取柄じゃないからね」


 私が腰に手を当ててそういうと、ジークは私の額にキスをくれた。


「うん。一番に、頼りにしている。ありがとう」



◇◆◇



 例の事件が公になり、現在王都は大騒ぎになっている。


 何故かというとあの勘違い男のブルース伯爵は、自分が禁じられている黒魔術を扱える事を告白し、それをマックール侯爵家の次男であるジークフリート・マックールへと使用したことを認めたからだ。


 私とアルベールに関しては事前に情報を手に入れていたから魔除けの指輪を付けていたことにより、難を免れることが出来たけど、精神を操る黒魔法は禁呪だ。罪状にも、書かれるはずだ。


 特に彼がジークフリートに仕掛けた無限に悲劇を繰り返す黒魔法に関しては、それを聞いた国民もこの国の上層部も決して許さないだろう。この件に関しては国王様も、激怒しているという噂を聞いた。


 私は、同情はしない。自分の独りよがりの恋に酔って、仕出かしてしまったことを正当に裁かれれば良いと思う。


 だから、あまり目立つことを好まないジークの意に反して、現在悲劇のヒーローとして大注目を浴びている。そんな私たちは、アルベールおすすめの湖畔の宿に滞在することになった。


 私たちの結婚式も、一年は延ばすことになりそう。


 この大騒ぎが終わる頃には、社交期は終わり皆領地に戻ってしまう。けれど、ジークの家も私の家も、懇意にしている貴族は数多く居るし、お父様たちの仕事の関係で呼ばなければならない人も多い。


 そんな人間関係の中、領地に戻ってしまっているのに、招待を受けたとなればわざわざ王都に戻って来てしまう人も出てしまう。純粋な好意で、とんぼ返りをする人も出て来るだろう。だから、それは避けたかった。


 なので、私たちはどう考えても、今年に式を挙げることは無理そうという結論に至ったという訳。


「……レティシア。見て。白鳥が飛んだ」


 ジークは、湖から飛び立った白鳥を指差した。王都は内陸地にあり、私たちは水鳥を見ることは少ない。気分が変わったようで、良かった。


 私はジークの端正な顔が好きなのは、もちろん好きなんだけど。彼に向かう好きという感情をどう言って表して良いのか、もうわからない。


 ジークの持つ外見だけではなく、私たち二人の間に積み上げられた年月。その中で、培われていたもの、とても形容し難いもの。


 婚約していた十年間の間には、私たちにも色々なことがあった。ジークは三つ上で、とても真面目で優しい性格とは言え、融通が利かないところがある。長所だけど短所でもあるという、とてもわかりやすい性格の例だ。


 お互いに性格上譲れないところもあったりして、喧嘩になったことだって何度だってあった。それを擦り合わせて、ここは譲り合おうと何度も話し合い、私たちはこれまで上手くやって来た。


 喧嘩をしても何をしても、私の中のジークを好きだという気持ちが目減りすることは、今までに一度たりともなかった。


 これまでだってそうだし、これからもきっとそうだろう。変わらない想い。私はジークのことを、ずっと好きだろう。彼の気持ちは彼にしかわからないことだけど、幸運なことに今は両想いだから。


 私はその関係を存続させるために、ずっと努力し続けると言い切れる。


 死が、二人を別つまで。




◇◆◇




「アルベール……仕事は、大丈夫なの?」


 私たちが湖畔の宿にやって来て、次の日の朝。


 ジークの親友で今回の一番の功労者であるアルベールは、何食わぬ顔をして私たちの朝食と取っていた同じテーブルへと席に着いた。


 付き合いの長いジークと私は、彼のこういう気まぐれな猫のような性質を知っているので、特に驚きもしなかった。


 飄々として見えるアルベールは、あまり自分自身のことを無闇にやたらに話さない。彼の元からの性格なのか、やたらと警戒心が強いのだ。そういうところも、なんだか人馴れしてない野生の猫っぽい。


 けど、幼馴染で仲の良い上司のジークのこと一人だけは、アルベールは何故か絶対的に信用しているのだ。その婚約者の私はというと、幼馴染の親友のことが好き過ぎる変な女だと、今だって絶対に思われている。間違いない。私を見る時は、彼はそういう目をしてるもの。


「大丈夫だよ。僕がそんな適当な仕事を、すると思う? すべて片付けて、担当の部下に完璧に仕事を割り振った上での、ちゃんとした休暇だ。お熱い恋人同士の君たちにお邪魔虫が一人混じるのは、どうかなと自分でも思うけど、今回の僕の働きを考えれば、二人は歓迎してくれるんじゃないかなと思ってね」


 長身の給仕係は銀の盆に、お茶を載せてアルベールの前に置いた。前もっての相談もなくいきなり相席した客が現れたから、宿の食堂側もびっくりしていると思う。富裕層相手の商売なので、まだ特に何も言われてないけど。後で、チップを弾まなきゃ。


「……あいつは、どうなったんだ?」


 ジークは、静かに聞いた。私たちは大騒ぎの仕掛け人である黒魔法使いのブルース伯爵の判決が出るのを待たずに、ここに来た。


 大昔、黒魔法はもてはやされた時期もあったものの、今ではもう廃れ、なんなら禁呪に指定されている魔法も多い。時を反復させるものは、知識のない私にはわからないけど。他人の精神を操ったりする魔法は、例外なく禁呪だ。


 だから、アルベールに尋ねるまでもなく……私たちは、彼の末路がわかっていた。


「あー……判決は、もちろん死刑だよ。他にも色々と悪どいことをやらかしているようだが、その調べが終わり次第、刑は執行されるだろう」


「そうなんだ……」


 私はもう既にわかっていたこととは言え、彼の判決を聞いて暗い気持ちにはなった。いくら自分たちに危害を加えた人間だとしても、生きている人間が死ぬと聞けば嫌なものだ。


「王は自分の治世の中での黒魔法など、絶対に許されないと激怒されていてね。他の人間に対する、見せしめもあるだろう。楽には死ねないだろうが、自業自得だな」


 アルベールは熱いお茶を飲んで、ふうと息をついた。


「……そう言えば、私たちこの指輪借りたままで良いの? ロナン家の家宝ではないの?」


 ジークと私はアルベールに借りた、あの魔除けの指輪を付けていた。もうあの男は捕まった後とは言え、何かあればいけないと慎重な考えを見せたアルベールに、私とジークは借りたままだったのだ。


「うん。どうせ、兄も僕も机に仕舞ったままだったからね。今回、それが大活躍をしたが……使われない道具など、悲しいものだ。役に立つところにあった方が、指輪も幸せだろう。あの男が完全に息を引き取ったと確認出来るまで、君たちが付けていた方が良い」


「僕も、アルベールの意見に賛成だ。黒魔法には、今ではわからないことも多い。あいつは、魔封じの塔に入っていると聞くが……万が一という場合も、あるからな」


 二人は目配せをして、頷いた。別に仲間外れをされた訳ではないんだけど、たまにジークとアルベールは二人の世界に入ることがあって、残された私はやきもきしたりするのだ。


「ねえ。アルベールって、恋人は作らないの? 私のお友達、紹介しましょうか?」


 アルベール・ロナンに紹介して貰えるとなれば、私の知っている婚約者のいない令嬢は全員にわかに色めき立つはずだ。


 なんせ、彼は見た目は本当に天下一品なので。付け加えておくとジークの方が、素敵だけど。


「……アルベール? どうした?」


 私とジークは、いきなりティーカップの取っ手を持つ手が震えているアルベールを見て、思わず息を呑んでしまった


 だって、その時のアルベールの様子は、ジークがやり直しに戻ってきた時とても良く似ていたから。


 だから、隣に居たジークも、私と同じことを思ったのだと思う。


 きっと……彼は、この先にあった何かの悲劇のやり直しのために、ここに戻って来たのだ。


「……何回目だ?」


 ジークは表情を変えずに、冷静にそう聞いた。問われたアルベールはというと顔を歪めて苦笑して、私たち二人を交互に見て、そうして大きく息をついた。


「ああ……話が早くて、とても助かる。これで、二回目だ。そちらの、結婚を控えた幸せな恋人たち。とても良い友人の僕の幸せのために、君たちもこれから尽力してくれるよね?」


 私とジークは顔を見合わせてから、微笑み合った。アルベールは私たちの恩人であることは、間違いない。彼の幸せのために、これから力になれるなら、何よりのことだった。


「もちろんよ。アルベール。一体、貴方には何があったの?」


「話は長くなるが、聞いてくれ。実は……」


Fin





お読みいただき、ありがとうございました。

もし、良かったら最後に評価をよろしくお願いします。


また別の作品でも、お会い出来たら嬉しいです。


待鳥園子

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
::::::୨୧::::::::::୨୧:::::::::::新発売作品リンク::::::::::୨୧::::::::::୨୧::::::

【8/22発売】
i945962
婚約者が病弱な妹に恋をしたので、家を出ます。
私は護衛騎士と幸せになってもいいですよね


i945962
溺愛策士な護衛騎士は純粋培養令嬢に意地悪したい。
ストーリアダッシュ連載版 第1話


【6/5発売】
i945962
素直になれない雪乙女は眠れる竜騎士に甘くとかされる
(BKブックスf)
★シーモアのみ電子書籍先行配信作品ページ
※コミックシーモア様にて9/12よりコミカライズ連載先行開始。

:::୨୧::::::::::୨୧:::::::::::コミカライズWeb連載中::::::::::୨୧::::::::::୨୧::::

MAGCOMI「ひとりぼっちの花娘は檻の中の竜騎士に恋願う

:::୨୧::::::::::୨୧:::::::::::作品ご購入リンク::::::::::୨୧::::::::::୨୧::::

【電子書籍】婚約者が病弱な妹に恋をしたので、家を出ます。
私は護衛騎士と幸せになってもいいですよね


【紙書籍】「素直になれない雪乙女は眠れる竜騎士に甘くとかされる

【紙書籍】「ひとりぼっちの花娘は檻の中の竜騎士に恋願う3巻

【紙書籍】「ひとりぼっちの花娘は檻の中の竜騎士に恋願う2巻

【紙書籍】「ひとりぼっちの花娘は檻の中の竜騎士に恋願う

【コミック】ひとりぼっちの花娘は檻の中の竜騎士に恋願う THE COMIC

【紙書籍】「急募:俺と結婚してください!」の
看板を掲げる勇者様と結婚したら、
溺愛されることになりました


【電子書籍】私が婚約破棄してあげた王子様は、未だに傷心中のようです。
~貴方にはもうすぐ運命の人が現れるので、悪役令嬢の私に執着しないでください!~


【短編コミカライズ】今夜中に婚約破棄してもらわナイト

【短編コミカライズ】婚約破棄、したいです!
〜大好きな王子様の幸せのために、見事フラれてみせましょう〜


【短編コミカライズ】断罪不可避の悪役令嬢、純愛騎士の腕の中に墜つ。

― 新着の感想 ―
[一言] とても面白かったです。 アルベール編も是非読みたいです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ