ネイトの誤算
一方その頃。
ネイトはズキズキと痛む頭を押さえて目を覚ましていた。
「……っ!?」
視界に蝋燭の光を透かした見慣れた天蓋が映る。
すぐに状況が理解できず、ぼんやりした頭を振ってネイトは記憶を辿る。
「……確か、放課後いつものようにエリスを迎えに行って……」
教室にいなかったので探し回っているとクリス他生徒会メンバーに会った。
そこでようやく昨日の会話を思い出し、図書室へ向かうと、エリスが『奴』と一緒にいて、嫉妬で頭に血が上った。
「そうだ。クリスだ!
クリスが邪魔したんだ!」
思い出すと同時にネイトは跳ね起きる。
(運命の相手のエリスと俺が『婚約破棄』なんてするわけがない。
親友のクリスはわかっていたはずなのに、男同士の約束を破って介入してきた)
結果、エリスはショックを受けて走りだし、後を追おうとしたネイトはクリスに殴りつけられた。
(倒れた拍子に本棚に思い切り頭を打ったが、あのまま意識を失ってしまったのか……)
「こうしてはいられない!」
本当に婚約破棄されたとエリスが誤解しているかもしれない。
一刻も早く会って訂正しないと。
幸い、口で言っただけでは婚約破棄は成立しない。
ネイトはベットから飛び降り、急いでエリスの元へ向かおうとした。
ところが、なぜか部屋の扉が開かない。
押しても微塵も動かず、確認したが鍵はかけられていない。
どういうことだ?
ネイトは扉をどんどんと殴りつけた。
「誰かっ! 誰かいないのかっ! 扉が開かないっ!」
呼びかけると扉の向こうから声がした。
「クリストファー殿下が来るまで部屋の中でお待ちください」
この太い声はロニーだ。
「使用人については人払いしておりますし、ご両親は外出中のようです。
でも安心してください。夕食はそこのテーブルに用意してあります」
涼やかなこの声はマシューに違いない。
(そうか、こいつらが外側から扉を押さえているのか!)
騎士団長の息子のロニーは筋肉の塊。
財務長官の息子のマシューは策士。
どちらも生徒会メンバーにしてクリスの忠実なる配下だ。
「こんな事をして許されると思うのか?」
脅しつけたが、以降、返事はなかった。
ネイトはしばらくびくともしない扉と格闘した末、室内を見回した。
あるはずの呼び鈴が消失し、窓際のテーブルに食事が乗っていた。
マシューの言動から、多忙な宰相の父と皇妃の取り巻きの母はまだ皇宮から帰っていないらしい。
間が悪いことに今夜は二人とも遅くなると言っていたような気がする。
こうなったら窓から脱出するしかない。
この部屋は3階だが仕方がない。
と、ネイトが覚悟を決めたとき、急に扉が開き、部屋に入ってくる人物があった。
「ネイト、待たせたな」
静かに言いながら後ろ手に扉を閉じたクリスに駆け寄り、胸ぐらに掴みかかる。
「クリス、貴様っ! どういうつもりだ」
しかし、怯むどころか、クリスはネイトの手をぐっと押さえつけながらエメラルド色の瞳で睨みつけてきた。
「男として、愛する女性の覚悟を受け止めるのは当然のことだ」
「愛する? 何を言っている?」
けげんな思いで問うネイトに、クリスは堂々と答えた。
「エリスと私は、出会った時からずっと想い合っている!」
「何を馬鹿なことを! そんなことが有るわけがない」
「認めたくない気持ちはわかる。
だが、お前も気づいていたはずだ。
私とエリスが出会った瞬間、お互いに運命を感じ合ったことを!」
鋭く核心に斬り込むように言われた刹那、ネイトの脳裏に一つの記憶が蘇ってきた。
あれは13歳の春。帝立学院の入学式の日。
忘れもしない、親友のクリスを紹介したとたん、エリスは雷に打たれたように固まった。
空色の瞳を大きく見開き、クリスの顔を凝視したのだ。
ギクリとしたネイトは、反射的にクリスを見た。
すると、出会った瞬間の表情こそ見逃したものの、同じくその緑色の瞳はエリスの姿に釘付けだった。
見つめ合う二人の様子に、背中に冷水を浴びせられたような感覚がした。
しかし、その時――
『皇太子殿下が親友だなんて、ネイト様は凄いですね!』
沈黙を破ってエリスが感嘆の声をあげ、ネイトは心底ほっとした。
(なんだ。
純粋に驚いただけか)
クリスについては他の男同様、エリスの美しさに見惚れただけだろう。
速やかにそう結論づけながらも、警戒したネイトはその後クリスに正直に、エリスと必要以上関わらないよう頼み込んだ。
そんなネイトの願いをクリスは受け入れ、実際この5年間、エリスと距離をとっていてくれた。
それは上級学年に上がり、生徒会役員同士になっても変わらなかった。
だから、出会った時の二人の反応については二度と考えないようにしていたが――。
「……まさか、いや、でもエリスは俺のっ……」
頭に浮かんだ考えを必死に振り払おうとするネイトにクリスが畳み掛けてくる。
「お前じゃないエリスは私の運命の相手だ。
そうわかっていながら、お前との友情を優先し、一度は身を引いた。
お前がエリスを幸せにしてくれるなら、そのまま諦めようと思っていた。
だが、お前は婚約者の心得114箇条なるもの作って彼女をがんじがらめにした。
エリスを大事にするどころか、毎日苦しめ続けたのだ!」
「……違う! 俺はただエリスが、恋に目覚めたとき近くに居たくて……」
「だから、他の男に恋する機会を徹底的に潰したと?
だが、身体は拘束できても心までは縛れない。
惹かれ合う私とエリスの気持ちを止めることはできなかった!」
「黙れ! エリスはお前になど惹かれていない!」
半ば自分の心に言い聞かせるようにネイトは叫んだ。
そんな彼にトドメを刺すようにクリスが言い切る。
「残念ながら、エリスの気持ちはもう確認済みだ。
実はここに来るまで一緒だった。
彼女は私にすべてを委ねてくれるそうだ」
聞いた瞬間、ネイトは全身から血の気が引く思いがした。
動揺で唇が激しく震える。
「……嘘だろう? まさか、お前達、俺に隠れて今まで?」
「それはない。というか、わざわざ不貞を犯す必要はない。
両思いなのだからお前との婚約を解消して貰えばいいだけのこと。
つまり、それが今というわけだ。
そして彼女はついに心を決めて、お前との婚約破棄を受け入れると言った。
私はその覚悟に報いることにした」
「……そんなっ、だから、エリスは……」
(初めて俺の迎えを待たずに勝手に教室を出たのか。
俺の口から『婚約破棄』の言葉を引き出すために。
今まで従っていた婚約者の心得をあえて破った。
その上で避けていたはずの『婚約破棄』を受け入れると言った)
否定したくてもここまで材料が揃っていては無理だった。
愕然としたネイトは頭を抱え、床に膝をついた。
(俺ではなくクリスがエリスの運命の相手だった)
まさにこれこそ雷の直撃を受けたような衝撃だった。
残酷な真実の鉄槌を下されたネイトは、灰になったように呆然と床に座り込んだ。