自由への賭け
翌日の昼休み。
いつものように生徒会室で過ごしていたエリスは、昼食を終えると、一通の手紙を取り出して読み返していた。
今日もクリストファーに無視され、役員同士の話し合いに入れて貰えなかったので、別にそうしていても問題なかった。
するとネイトが質問してくる。
「誰からの手紙だ」
エリスは少しドキッとしてから答えた。
「フロラ叔母さんからです。昨日、帰宅すると届いていたんです」
「ああ、あの3回も婚約破棄されて、いまだに独身の叔母さんか」
思い出したように言いながら、ネイトは形の良い唇に薄笑いを浮かべた。
エリスは大好きな叔母を馬鹿にされたようで腹が立って嫌味を返した。
「本当なら、この前の休みの日に家に遊びに行く予定だったんです。でも、ネイト様がその約束を断って自分を優先しろとおっしゃるから、会えなかったんです!」
「婚約者の俺を優先するのは当然だ」
「当然って、ご自分だって仲の良い叔父様に会えるのを楽しみにしていらっしゃるのでしょう?」
昨夜の夕食中、ガーランド公爵夫妻の会話から知ったのだ。
なんでも外交官として派遣された大公国で一人娘の公女に見染められて婿入りしていたネイトの叔父が、海を隔てた距離から久しぶりに帰国するらしい。
「キース叔父さんは、6年ぶりに帰ってくるのだ。お前の近くに住んでる親戚と一緒にするな」
不満が積もりに積もった上に、結婚が近づいてきて神経質になっていたエリスは、愚痴が止まらなくなった。
「だいたい、毎日こうして顔を合わせて一緒いるのですから、休みの日まで付き合わせなくてもいいではないですか」
「エリス!」
そこでとうとうネイトが怒りの声を発し、エリスはビクッとした。
「お前、最近、よく言い返すな? ちょっと俺に逆らいすぎではないか?」
「……それは……」
エリスが言葉に詰まっていると、ネイトがお決まりの脅し文句を口にする。
「お前もフロラ叔母さんとやらのように、1条と2条違反で、俺に婚約破棄をされたいのか?」
エリスは唇を噛みしめた。
さすがに父の立場を思えば、そこまでは思い切れない。
ただ、少しはネイトに譲歩して欲しい。
そう心から願ったエリスは、午後の授業中、フロラから貰った手紙の内容について考えていた。
フロラは、男性優位の社会を変えようと、女性の権利運動をしている先進的な女性だ。
エリスにとって、唯一ネイトとの関係の悩みを真剣に聞いてくれるありがたい存在でもある。
先日も、フロラにネイトとの結婚への不安を書き送っていた。
対する返事の手紙にはこう書いてあった。
『権利を手に入れるには戦いが必要よ。まずは小さなことから始めるといいわ』
追い込まれていたエリスの胸にその言葉はとても響いた。
(確かに、このままネイト様と結婚したら、完全なる奴隷生活の始まりだわ)
その前に、少しでも自分の権利を勝ち取らなくてはーー。
強くそう思ったエリスは、全ての授業が終わると、意を決して鞄を持って立ち上がる。
そして入学して以来初めて、ネイトの迎えを待たずに教室を飛びだした。
向かった先は、昨日行き損ねた図書室。
授業終了後に直行したので一番乗りだった。
扉を開いて中に入り、本棚がたくさん並んだ空間を見回す。
ただ本を借りに来ただけなのに、異様に胸がドキドキしていた。
教室にエリスがいないの見たネイトは、きっと昨日の今日だから、そんなに時間を経ずにここに辿り着くはず。
(早く本を選ばなくちゃ)
焦った思いでさっそく本棚に近づいて物色していると、誰かが近づいてくる気配がした。
「エリス」
声をかけられて飛び上がって見れば、懐かしい人物がそこにいた。
「レジー」
ダークブロンドの髪に灰色の瞳、中性的な乙女のように優しい顔立ち。
幼馴染にしてかつての親友レジナルドーーレジーが、驚いたような顔でエリスを見ていた。
「本を借りに来たの? 珍しいね」
話しかけられても久しぶりすぎて、すぐに言葉が出てこない。
ただ、彼がここにいること自体は意外じゃなかった。
二人は子供の頃、読書仲間だったから。
学院に入学して初めて本を借りに来た時も、レジーと遭遇した記憶がある。
「今日は、君の婚約者は?」
訊きながら不思議そうに周りを見回したレジーに、遅まきながら返事をする。
「いないわ。勝手に一人できたの」
口にしながら、自分のした行動に緊張してしまう。
ネイトの迎えを教室で待たないのは、婚約者の心得84条違反だ。
レジーは「えっ」と声を上げた。
「大丈夫なの? 確か、婚約者の心得25箇条みたいな言いつけがあったよね?」
「現在は114条なの」
恥ずかしい気持ちでエリスが言うと、レジーが吹き出した。
「そうなんだ。5年間でそんなに増えたのか」
「そんなに私達話してなかったのね」
「そうだね。入学式の日に、僕が君に話しかけて、邪魔されたのが最後かな」
「あの時は、不快な思いをさせてごめんなさい」
「別に、エリスのせいじゃないさ」
レジーが端正な口元に乾いた笑いを浮かべ、少し気まずい沈黙が流れる。
エリスは遅れて答える。
「さっきの質問なんだけど、実は大丈夫じゃないの。きっとネイト様にまた婚約破棄されたいのか? って怒られると思う」
「なら、されちゃえばいいのに」
「えっ?」
「――そうか、しかし、大変だね。
25条の時でも守るの大変だったのに、そんなに増えたんじゃ、自由なんてほとんどないのでは?」
「ええ、そうなの」
「普通逃げ出すよ。エリスはよく耐えているね」
「だって、両親をがっかりさせたくないもの」
「そうだね。言うことをきかなければ君はお払い箱だものね。
なにせ、皇族に名を連ねる公爵令息様は、婚約者に逃げられても代わりなんていくらでもいる。
だから、守りきれないぐらい規則を押し付けられるし、気軽に婚約破棄を連呼できるんだろう」
否定できないエリスはギクリとした。
「そういえば、卒業と同時に結婚するんだっけ?
おめでとう。
今度は離婚をちらつかせて言うことを聞かされる日々の始まりだね」
皮肉が過ぎるレジーに、エリスは言い返した。
「でも、離婚はそんなに簡単にはできないでしょう?」
「白い結婚ならいつでも離婚できるさ。
君をお飾りの妻にする気なんだろう」
指摘されたとたんエリスははっとする。
「なんて言うのは冗談だけど」
レジーは苦笑してつけ足したものの、エリスの全身からは嫌な汗が流れ出していた。
その可能性はないとは言えなかった。
(ネイト様は私に女性としての興味がないみたいだし)
そうなると、このまま我慢し続けても、ネイトに切り捨てられる未来は避けられないように思える。
想像したとたんエリスのは胸はぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。
(ううん、そんなわけない。考えすぎよ)
と、頭の中で必死に否定していたとき、
「エリス!」
名前を呼ぶ声と慌ただしい複数の足音が聞こえてきた。