恐怖の始まり
朗読会の次の日。
フロラの家から帝立学院へ登校し、馬車から降りて玄関へ向かう途中。
婚約者の心得から開放されたエリスは、女性だけではなく男性にも心置きなく笑顔を向けて挨拶しながら歩いていた。
すると、ふっ、と背後に張りつくような人の気配を感じる。
背筋に冷たいものが走り、とっさに振り返ってみたところ――青白い顔に虚ろな表情を浮かべたネイトが亡霊のように立っていた。
「きゃあっ」
驚いて飛び上がった次の瞬間、エリスは全力で逃げ出す。
登場の仕方も心臓に悪かったけれど、それ以上に向けられた暗い瞳が怖かった。
ネイトが自分を怒っていることは知っていた。
昨日の夕方、わざわざエリスの母が、怒り狂ったネイトが屋敷に乗り込んできたことを教えに来てくれたから。
(つくづく留守にしていて良かった)
びくびくしながら教室に入ったところ、クラスメイト複数人から同情の声をかけられる。
「エリスさん、聞いたわ。大丈夫?」
「ネイト様は酷過ぎるわ」
どうやら婚約破棄の噂は早くも広まっているらしい。
しかし、今のエリスはそれどころではない。
恐る恐る眼を向けると、教室の入り口に立ってじっとこちらを見ているネイトの姿が見え、心臓が凍る思いがする。
幸い、教室内まで入って来なかったし、無言で睨み付けてくるだけで、直後に鳴った始業のベルと共にいなくなったけれど。
(怖すぎる!)
そうして怯えながら迎えた昼休み。
エリスは授業が終了するやいなや教室から飛び出した。
ネイトのクラスからは最速で移動しても2分かかる。
その間にできるだけ遠くに逃げようと、人気のない別棟まで走ってゆき、誰もいない音楽室に入り、ようやくほっと息をつく。
同時に激しく疑問に思う。
(なんで、私が逃げ回らないといけないの?
ネイト様が悪いのに)
だから絶対に謝りたくない。
かと言って身分も体格も上のネイトに立ち向かえる自信はない。
情けない気持ちで机に座り、お弁当を広げていたとき、扉ががらりと開かれる。
一瞬ネイトが来たと思って、びくっ、として見ると、入り口に立っていたのはレジーだった。
「エリス、こんなところで一人で何しているの?」
不思議そうに問いながら、中に入り、扉を閉めて近づいてくる。
「レジー、あなたこそ、どうしてここに?」
「僕は、エリスが走っているのが見えたから、追ってきたんだ」
元親友の繊細な造りの顔を見上げながら、エリスは深く溜め息をつく。
婚約破棄された噂が広まったことについては、すでに昨日、自ら朗読会で拡散したのでレジーを責められなくなっていた。
「一昨日のことでネイト様が怒っているから、会うのが怖くて、逃げてきたの」
正直に告白すると、レジーが噴き出す。
「何、それっ、エリスは相変わらず小心者だね」
エリスは唇を尖らす。
「でも、今朝見かけた時のネイト様の顔、すごく怖かったのよ?」
レジーは勝手にエリスの隣の席に腰を下ろすと、自分の昼食を広げ始めた。
「だからって、卒業までずっと逃げ回り続けるつもり?」
「それは……無理だと思うけど……」
エリスは嫌な話題から話を逸らすように、机上に置かれたスケッチブックに目を止める。
「レジーはまだ絵を描いていたのね」
昔からレジーは読書だけではなく、絵や音楽も好きだった。
指の長い手はとても器用で、絵を描かせても、ピアノを弾かせても天才的。
幼い頃からずっと物知りで多才なレジーはエリスの憧れで、仲が良いことが自慢だった。
ネイトに婚約者の心得114箇条を貰うまでは――
ネイトとの婚約継続を選び、レジーとの友情を切り捨てたのはエリス自身。
今更、また仲良くできるとは思っていない。
それでも、こうして一緒にいると、まるで昔に戻ったみたいだった。
「まあね。
エリスも何か文章を書いているの?」
「一応ね」
「へぇ、ちなみに今書いているのはどんなの?」
レジーに訊かれたエリスは、書きかけの小説を思い出して頬が少し熱くなる。
「騎士が出てくる小説だけど、人に見せるレベルじゃないの」
そう笑って答えたとき――廊下からバタバタという足音が響いてきた。
誰かがやってくる気配に、緊張で胸が高鳴る。
「……どうしよう。今度こそネイト様が来たのかも」
焦ってうろたえるエリスをレジーが溜め息まじりに見つめる。
「一昨日ネイト様に言い返した勇気はどこへいったわけ?」
(でも、結局その後、走って逃げたんだけど……)
――と、会話しているうちに隣の教室の扉が開け閉めされる音がし、次はこの音楽室だと思ったエリスは急いで立ち上がる。
そしてピアノの陰まで走って行き、しゃがみこんで身を隠した。
ほどなく扉が開かれ――果たして室内に響いた声はネイトのものではなかった。
「――君は確か、一昨日エリスといた――」
(この声は――)
「エリスの幼馴染みのメドウズ伯爵家のレジナルドです、皇太子殿下」
(やはりクリストファー殿下!)
「そうか幼馴染みか……ところでエリスを見なかったか?」
レジーは質問をはぐらかす。
「なぜ、エリスをお探しなんですか?」
それはエリスも知りたかった。
(なぜクリストファー殿下が私を探しに?)
「ああ、一緒にお昼を食べようと思って」
クリストファーの返事を聞いた瞬間、エリスは机の上に置きっぱなしの昼食の存在を思い出した。
(見られたら私がここにいることに勘づかれてしまうのでは?)