エリスの願い
「エリス、先ほどは声を荒げて悪かった。許して欲しい」
二つ隣の部屋の応接用の椅子に座ったとたん、クリストファーが謝罪してくる。
その上で、再度ネイトとの婚約破棄が成立した事実と、慰謝料などの詳細をエリスに教えてくれた。
フロラが落ち着かない様子で言う。
「エリスへのお話はそれだけですか? もしそうなら戻って婚活の続きをしたいのですが」
「ーーこっ」
クリストファーは何かを叫びかけるのを、ぐっと堪えてから、気を落ち着かせるように息を吐き、確認してくる。
「あなたはエリスの叔母ということで合っているだろうか?」
「ええ、そうです」
「はっきり言わせて貰う。婚活ということだが、エリスはそんなことを欠片も望んでいない」
まるでエリスの心を見透かすようにクリストファーが断言し、フロラが訊いてくる。
「そうなの? エリス」
悔しいけれど図星だったエリスは頷く。
「ごめんなさい、フロラ叔母さん……。
さすがに、婚約破棄された翌日では、とてもそんな気分にはなれなくて……」
初めてモテて舞い上がってはいたけど、あの場から解放された今、残念に思うよりほっとする気持ちが強いエリスだった。
「……そうね、エリスは、かなり傷ついているものね……」
フロラが言うように、すぐ人前で泣き出してしまうぐらい、エリスは傷ついている。
今もクリストファーから受けた報告がじわじわと効いていた。
(図書室で追って来なかった時点でわかりきっていたけど、こんなにあっさり婚約破棄が成立するなんて。
ネイト様にとって、私ってつくづく無価値な存在だったのね)
再確認させられると共に目に涙が滲んでくる。
「大丈夫か? エリス」
心配する声に驚いて見れば、クリストファーは白皙の美貌にいかにも優しげな表情を浮かべている。
そういえば、この部屋に来てからずっと穏やかな態度で接してくれている。
(さっきは現れるなり批判してきたから、ついに本性を現したかと思ったけど、基本的には私を嫌う感情を理性で抑えようと努力してくれているみたい)
「はい」
エリスは涙をぐいっと拭う。
「残念ながら、今はとても、他の男性との関係を進められるような状態じゃないみたいです」
正直に告白すると、なぜかフロラよりも、クリストファーが深刻な様子で受け止めた。
「……関係を、そうか、だから……」
しかし、フロラが忠告する。
「でも、エリス。私の父がそうだったように、兄も、間違いなくあなたの心の準備関係なしに、すぐに新しい結婚相手を見つけてくるわよ?
悠長に構えていられないのが現実なの」
実際フロラは婚約破棄された1ヶ月後、親子ほど年の離れた男性と無理やり婚約させられたらしい。
「……確かに、そうかも……」
エリスが青くなった時、救いの言葉が耳に届く。
「それは困るな。私からバレット伯爵に言っておかねば」
エリスは驚き半分、感動半分で皇子の顔を見つめる。
「それは、私の縁談を止めておいてくれるってことですか?」
「当然のことだ。エリス」
しっかり頷くと、優美な口元をきゅっと引き結ぶ。
「私は君の為にできることなら何でもするつもりだ。
他に私は何をすればいい?」
問われてエリスは思い出す。
そういえば昨日罪悪感を抱いているとクリストファーは訴えていた。
罪滅ぼししたいと思っているのは本心なのかもしれない。
――エリスはそこで思い切って、ずっと気になっていたことを口にした。
「……でしたら、私のことより、どうか、ネイト様のことをよろしくお願いします」
「ネイト、ああ、君に近づかないようにしろと言うなら……」
「そうではなくて、ネイト様は気難しい人だから、私がいなくなったら、近くにいるのはクリストファー殿下だけになるから……」
言いながら、なぜだか涙がこぼれた。
実際、出会ってから9年間、同年代でネイトと交流がある人を、エリスは他に知らない。
(なんでかんで、いつも私を側に置いていたのも、寂しかったからだと思うから)
「もちろん、クリストファー殿下が誰よりも友情を大切にする人だと言う事はわかっています」
(保身の為に親友のレジーを切り捨てた私とは違う)
「それでも言わせて下さい。
どうか、これからもネイト様の一番の味方になって、いつまでも仲良くしてあげて下さいね」
エリスが想いを伝えると、クリストファーは大きく目を見開き、息を呑んで、声を震わせる。
「エリス……君という人は……」
「エリス、あなたって娘は……」
フロラも口元を押さえて涙ぐむ。
クリストファーはエリスの意志を確認するように再度訊いてくる。
「つまり、それが君の願いなんだね?」
「はい」
エリスは強く頷いた。
(ネイト様にとって私はどうでも良い存在でも私にとっては違う)
だから、婚約破棄されてとても傷ついたのだ。
「そうか、わかった……。辛いけど君の気持ちを尊重しよう」
顔を歪めて言うと、クリストファーはおもむろに立ち上がった。
「それでは、さっそく、ネイトの元へ向かおう」
エリスも続いて腰を上げる。
すると、クリストファーが近寄ってきて手を伸ばしてきた。
とっさにエリスが手を掴まれるのを避けると、彼が溜め息をつく。
「エリス、手を握るのも駄目なのか?」
「すみません。今はまだ、気持ちが……」
長年のトラウマで触れられると身体が拒否反応を起こす事が昨日判明していた。
「わかった……」
クリストファーは寂しそうに言い、気を取り直したように微笑えみかけてくる。
「それではエリス。明日学校で会おう」
「はい、クリストファー殿下」
エリスも笑顔で挨拶を返し、出だしからは想像つかないほど、穏やかに別れられることができた。
(親友の婚約者でさえないなら、私はクリストファー殿下にとってそこまで許せない存在ではないのかも)
そう感じたエリスは色んな意味で胸のつかえが取れてすっきりした。