舞い降りた天使
「マシューお前は、間違っても、一時の恋愛感情で結婚するな。
私のように、恋の熱から冷めたあと、そこにいたのは何の後ろ盾もない、社交もろくにできない、役立たずの妻だった、なんてことにならないようにな」
酔いに任せてある日父が言った。
「あなたのお母様にも困ったものよ。いつまで経っても女主人の役目を満足にこなせない。
教えても理解できない程度の頭で、知的な会話がまるでできないんですもの。
お願いだからあなたは、私のサロンを引き継げるような、教養のある女性を妻にして頂戴ね」
祖母がある日、真剣な顔で言った。
「私は努力してる。頑張ってるのに、お義母様も周りも全然認めてくれない!」
母はつねに被害妄想に取り憑かれていた。
父だけではなく、侯爵夫人の器ではない母にとっても不幸な結婚生活なのだ。
マシューは両親の失敗から『感情に流されて相手を選ぶと後悔する』という教訓を学んだ。
だからこそ、懸念をおぼえた。
昨夜ネイトの部屋の前で会話を盗み聞きして。
「残念ながら、エリスの気持ちはもう確認済みだ。
実はここに来るまで一緒だった。
彼女は私にすべてを委ねてくれるそうだ」
あきらかにクリストファーは感情に流された選択をしようとしている。
彼がエリスを意識していることには早くから気づいていた。
いくら病的に嫉妬深いネイトに気を使ってとはいえ、顔さえろくに見ようとしないのはおかしいからだ。
(でも、まさかあそこまで思い詰めていようとは)
配下として止めるべきなのかと思い悩み、昨夜はなかなか寝付けなかった。
おかげでいつもより遅く起きた休日の午後。
マシューは急ぎ、朗読会に参加する為、いつものように完璧な身支度を整えた。
貴族社会において人脈はとても大事だ。
特にマシューの祖母のサロンには一流の人物が集う。
学生の身でありながら、主催者の孫という特権により参加できる自分はとても幸運だ。
心からそう思いながら朗読会が開かれる広間に入り、帝国屈指の名士達に挨拶していた時だった。
テラスの扉が開き、秋のやわらかい陽射しを受けながら、母と共に二人の女性が入ってきた。
直後、片方の可愛らしいドレスを着た少女に、会場中の視線が一瞬で釘付けになる。
光を集めたような淡い金髪と輝くような白い肌、澄んだつぶらな瞳と、ふっくらとした唇、まさに天使としか形容しようのない愛らしい顔立ち。
その夢のような美しさに思わず一緒になって見惚れてから、マシューは、はっ、とした。
「エリス嬢?」
なぜ、この人がここに?
とっさに近づき、顔を見下ろし、後悔する。
吸い込まれそうな澄んだ大きな空色の瞳に、たちまち魂を抜かれそうになってしまったから。
「ごきげんよう、マシュー様。お邪魔しております」
「どうしてここに?」
「叔母に連れて来て貰ったんです」
(声まで澄んで美しい)
運命の相手だなどとこじつけてるが、ネイトも、クリストファーにしても、単にこの破壊的な美しさに心を奪われただけだろう。
昨夜の二人の会話を思い出しながら、マシューは確信する。
(本当に困った存在だ)
結婚したところで強い後ろ盾を得られるわけではない。
それどころかネイトとの間に致命的な亀裂を産むことが確定している。
どう考えても、クリストファーが選ぶべき相手ではない。
(とはいえ、この人がここにいることを、殿下に伝えておくべきだろう)
速やかに判断したマシューは、
「そうか。ゆっくり楽しんでいってくれ」
やや強引に会話を終え、いったん会場を抜け出し、クリストファーの元へ向かった。
◆◆◆◆
(やはり今日も話をさっさと終えられてしまった)
去っていくマシューの背中を見送りつつエリスは溜め息をつく。
マシューはクリストファーと違ってエリスに対するときも決して柔らかな物腰と口調を崩さない。
ただし、いつも最低限度で会話を切り上げる。
今日もそれは変わらなかった。
気を取り直し、遅れて人の輪の中心にいるフロラ達と合流する。
「ちょうど来たので紹介します。姪のエリスです。
エリス、こちらが朗読会の主催者の先代テイラー侯爵未亡人よ」
エリスはドレスを摘んで裾を上げ、深く腰を落として挨拶する。
「初めまして、バレット伯爵家の長女のエリスです。お目にかかれて光栄です」
ゆったりと椅子に腰かけた先代侯爵未亡人は老婦人と呼ぶのが躊躇われるほど若々しかった。
「今さっき、孫のマシューと会話していたかしら?」
目ざとい質問に、侯爵夫人が代わりに答えてくれる。
「エリスさんも生徒会役員なんです」
「そう、では、フロラさんに似て優秀なのね。帝立学院の生徒会は成績上位者しか入れないと聞いていますもの」
フロラが誇らしげに微笑む。
「ええ、自慢の姪です。今日は朗読会だと聞いて連れて参りました。エリスは詩が好きなんです」
「それなら、ぜひ、近くの席に座って聞くといいわ」
侯爵未亡人の勧めにより、既に部屋の中央で立って準備しているブレインの目の前の長椅子に座る。
彼は黒髪に神経質そうな奥まった黒い瞳をした作風そのままの暗い感じの青年だった。
それでも初めて詩人に会ったエリスが感動で瞳を潤ませていると、ほどなくブレインが開いた冊子を読み始める。