婚約破棄の成立
同じ頃。
護衛の親衛隊を引き連れてバレット伯爵邸に訪問していたクリストファーは、昨夜のことを思い出していた。
『残念ながら、エリスの気持ちはもう確認済みだ』
そう告げるとネイトはよほどショックが大きかったのか、魂が抜けたような状態になった。
親友として見ていて心は痛んだものの、おかげでその後すんなり話がまとまったのは良かったと思う。
実際のところエリスと直接的な言葉での確認はしていない。
ただ『これからずっと離れない』という意思表示で手を繋ぎ続けていた。
エリスは一度も振り解こうとせず、婚約の件も自分に一任してくれた。
その前に婚約破棄を受け入れるとネイトに告げた行動だけでも充分にエリスの意思は伝わっていた。
いったいどれほど勇気がいったことだろう。
想像すると、エリスが行動するまで何もできなかった自分が恥ずかしかった。
(せめて今後の責任はすべて私が被ろう。
エリスを手に入れる為なら親友から婚約者を奪った汚名など易いものだ)
昨日もエリスに寄り添いながら、終始、彼の頭の中は忙しかった。
真珠のような涙を眺めては、舌で舐めとりたくなったり。
この薔薇の花弁のような唇をネイトは何度貪ったのか。
想像しては、激しくエリスの唇を奪って上書きしたくなったりした。
とにかく、今まで堪えてきたぶん、エリスを求める衝動が溢れておかしくなりそうだった。
とりあえず、卒業したら即結婚することは心に決めていた。
その為には、何を置いてもネイトとの婚約を終わらせねばならない。
残念ながらエリスは留守のようだが、今日は別に彼女に会いに来た訳ではない。
大事な目的を達成すべく、ガーランド公爵の到着を応接室で待ち、両家の話し合いに立ち会う。
昨夜、急遽、取り付けた場なのに、ことは驚くほどスムーズに進んだ。
高額な慰謝料に驚くバレット伯爵に、ガーランド公爵が心からの謝罪の言葉を伝える。
実は伏せて貰っているが、ガーランド公爵に無理を言って、バレット伯爵家に支払う慰謝料の半分をクリストファーが負担することになっていた。
理由はどうあれ親友から婚約者を奪う罪悪感と、後のエリスとの婚約を踏まえ、ガーランド公爵家とのわだかまりをあらかじめ軽減しておきたかった。
本当なら全額出したかったが、さすがにそれは受け入れられなかった。
親友としてネイトの暴挙を見逃してきた自分にも責任があるという主張では弱かったらしい。
そうして滞りなく婚約破棄の合意書へのサインがなされ、ついに婚約破棄が成立した。
これでエリスは自由の身だ。
完全にネイトから解放された。
そのことを早く本人に伝えてあげたい。
そう思ったクリストファーが、バレット伯爵にエリスの居場所を訊こうと口を開きかけた時だった。
バレット伯爵家の執事が慌てたように部屋に駆け込んでくる。
「ネイト様がいらっしゃって、制止を振り切って勝手に二階に上がってしまいました!」
「なんだと!」
クリストファーは椅子を蹴るように立ち上がった。
◆◆◆◆
エリスを乗せた馬車が到着したのは、広大な庭を構えた8つの尖塔のある大邸宅だった。
「ここがエステルの嫁ぎ先のテイラー侯爵家よ」
「テイラー侯爵家?」
(って、もしかしなくても同じ生徒会のマシューさんの家っ!?)
偶然に驚きながら玄関ホールに入ったとたん、大袈裟なほどの歓迎の声が飛んでくる。
「フロラ、よく来てくれたわね! 嬉しくて泣きそうよ!」
「こちらこそ呼んでくれてありがとう。エステル」
エステル、ということはこの人がマシュー様のお母様のテイラー侯爵夫人?
エリスは目を疑う。
なぜなら出迎えてくれた女性はとてもフロラとは同年代には見えない。
ぱっと見、一回りぐらい年上に見える。
でも、髪はマシューと同じハニーブロンドだし、垂れ目の目元がそっくりだ。
「本当に来てくれて助かったわ! おかげで今日1日をどうにかしのげそうよ」
フロラの手を取って握りながら、侯爵夫人が溜め息をつく。
「ところで、そちらは?」
「姪のエリスよ。兄のバレット伯爵の長女」
「初めまして、テイラー侯爵夫人。お会い出来て嬉しいです」
「まあ、とても可愛らしいお嬢さんね! お母様似なのね」
(さっそくルイーズさんに借りたドレスのおかげで褒められてしまった)
照れながらも歩き出したフロラ達に続きながら説明する。
「私、マシューさんと同じ生徒会役員なんです」
「へぇ、そうなの? あの子、私には何も話してくれないのよね。
姑とはよく会話しているのに」
そこで侯爵夫人が思いついたようにフロラに相談してくる。
「ねえ、フロラ、お願い! 私に詩の感想が振られたら、代わりに答えてくれる?
いつも姑はわざと私に恥をかかせようと訊いてくるのよ」
「私も詩はそんなに得意じゃないけれど、いいわ。
その代わり、と言ってはなんだけど、実は私もお願いしたいことがあるの」
「あら、なあに?
私にできることなら何でも言ってちょうだい」
会話しながらいったん三人はテラスから中庭に出る。
侯爵夫人は庭の隅の目立たないベンチまで二人を連れて行ってから、改めて訊いてくる。
「それで、何をして欲しいの?」
「ええ、帝立学院時代モテまくっていたあなたを見込んで、男性の心を掴むコツをこのエリスに伝授してあげて欲しいの」
侯爵夫人は長い睫毛をパチパチさせた。
「いいけど、なんで? 信者が多かったお母様同様、その見た目だけで充分じゃない?」
エリスはそこで正直に告白した。
「実は私、昨日、婚約破棄されてしまったんです! しかも9年間も婚約者だった相手に」
「まあ、それは、ショックね……!
失礼だけど理由と、相手のことを聞いてもいい?」
「はい――」
エリスは恥ずかしい気持ちで、婚約破棄に至るまでの経緯と、それに絡めてネイトの身分と人となりを伝えた。
すると、エリスの話を聞き終えたテイラー侯爵夫人が、思いも寄らぬ一言を発する。
「それは婚約破棄されて良かったじゃない!」