一夜明けて
そこからのネイトの記憶は酷く曖昧でぼんやりしていた。
霞がかったような視界に、帰宅したらしい両親とクリスが会話している様子が映った。
脱力したまま見ていると両脇を使用人に抱えられる。
連れて行かれたのは応接室だった。
そこで両親と向かい合って座ったクリスが何かを説明し始める。
近くの椅子に座らされたネイトは父に確認されるたびに機械的に答えた。
「本当に婚約者の心得114箇条なんて作って、エリス嬢を従わせたのか?」
「……ああ……」
「エリス嬢に婚約破棄だと言ったのも?」
「……そうだ……」
いちいち確認した上で、両親はクリスと何やら相談し合う。
ネイトといえば、とにかく頭がぼうっとして、横で聞いていてもまったく話の内容が頭に入ってこない状態だった。
ただ、クリストファーと相思相愛のエリスは自分との婚約を終わらせたがっている。
その事実だけは理解することが出来た。
話し合いが終わるとネイトは自室に戻された。
再びベッドの天蓋を見つめながら、エリスとの思い出が頭を駆け巡る。
どの場面のエリスも夢のように美しかった。
初めて会った時に光の天使だと思った。
自分のものになると疑いもしなかった、あの少女はもう手に入らない。
考えるだけで身が引き裂かれるようだった。
いっそ殺された方がマシなぐらいの苦しみに夜中のたうち回った。
そうしていつの間にか意識を失うように眠っていたらしい。
気がつくと朝を通り越し昼だった。
ああ、すべて夢だったのか。
うつろに思いながら、いつものように呼び鈴を鳴らし、従者を呼んで着替える。
それから食堂へ向かい、執事に尋ねる。
「父さんと母さんは?」
「バレット伯爵邸へ出掛けられました」
聞いた瞬間、激しい頭痛に襲われた。
ネイトは額を押さえながら呟く。
「俺も行かなくては……」
ただ、エリスの顔が見たかった。
◆◆◆◆
婚約破棄された翌日なのに、エリスは朝食を完食してしまった。
今日から始まった街中での生活。
貴族の家が建ち並ぶ住宅街にあるバレット伯爵邸と違い、フロラの屋敷は帝都の中心街にある。
5階建ての建物で、1階はフロラが趣味でやっている喫茶店。
2階以上が自宅になる。
一方を川、一方を店舗が並ぶ多くの人が行き交う通りに面しており、窓から繁華街を見下ろせる好立地だった。
朝食後の紅茶を飲んでいるとフロラが提案してきた。
「今日は、気分転換に出かけましょうね」
「はい、フロラ叔母さん」
返事をしながらティーカップを傾けると、口の中に甘さと香ばしさが広がる。
「甘いものもいかが?」
と、差し出されたマフィンをエリスが頂いていたとき、一人のご婦人が食堂に入ってきた。
「おはよう、フロラ。紅茶を飲みに来たわ」
言いながら彼女はふんだんに羽根の盛り付けられた帽子を脱いで、当たり前のようにテーブルに着いた。
年齢は今年で38歳のフロラよりやや上だろうか。
濃い金髪の華やかな女性だった。
「ルイーズ。おはよう。顔が少し浮腫んでるわね」
「昨夜、賭場で飲み過ぎてしまったの。ところでこの美しい娘さんは?」
「姪のエリスよ」
「ああ、婚約破棄されたという」
エリスは紅茶を吹き出しかけた。
「な、なぜ、そのことを?」
「カードゲーム中に、エドモンドから聞いたのよ」
誰?
「エドモンドは、アンジーの従兄弟の息子よ」
フロラがエリスに解説する。
つまりレジーの親戚らしい。
「さすがはフロラの姪ね。どんな風に男性をやり込めたの?」
「……ええっと……」
単に図書室に本を借りに行っただけで婚約破棄されたなんて恥ずかしくてエリスは言えなかった。
フロラが話題を変えてくれる。
「そうだ。エリス、ルイーズは皇妃お気に入りの仕立て屋なのよ。
色々ファッションのアドバイスを貰うといいわ」
「皇妃様のお気に入りなんて凄いですね」
「おかげさまで、先月メイン通りに店舗を移転することができたわ。それからずっとここに紅茶を飲みに来てるの」
一流店舗のみが並んだ帝都のメイン通りはここからほど近かった。
フロラが説明してくれる。
「エリスは、自分の女性としての魅力が不足してるから婚約破棄されたと落ち込んでるの」
「この若さと美貌ならズダ袋かぶっていても男性にモテそうだけどね。
フロラの頼みなら断れないわ。
でも、男性を落とす手管に関しては、他をあたってちょうだいね。
私もフロラもモテなくて、お金目当ての男しか寄って来ないから」
ルイーズの言葉にエリスは純粋に驚いた。
「二人とも、そんなにお綺麗なのに?」
「あらあら、この娘、なかなか、お上手じゃない。
残念ながら世の男性は、フロラみたいな四カ国語話す女も、私のように手に職持つ女も好まないのよ」
「男性の気を惹くのが上手いと言えばエステルかしら?」
「そうね。男爵家のしかも庶子でありながら、あなたの元婚約者の侯爵家嫡男を落とし、略奪結婚したんですものね」
それは酷い話だとエリスは思った。
「言っておくけどエリス。私もう全然気にしてないのよ。
今では仲の良い友人としてつきあっているし。
そういえば今日、エステルの家で朗読会が開かれるから、さっそく行ってみる?
的確な助言を貰えるかもしれないわ」
「朗読会なら、行ってみたいです!」
フロラの提案に、本好きのエリスは勢いこんで返事をした。
久しぶりに充実した休日になりそうな予感がしていた。
ーー約一時間後ーー
「うん、いいわ、似合うわ。完璧よ。
サイズもぴったり」
ルイーズが満足そうに頷き、フロラが張り切ったように言う。
「朗読会なら、エリスと趣味が合いそうな独身男性が多そうだもの。気合い入れなきゃね!」
「でも、本当にお借りしていいんですか?」
「いいの、いいの。そろそろ別のドレスに替えようと思っていたところだし」
エリスが今いるのは帝都のメイン通りにあるルイーズのお店で、着ているのはさっきまで店内に展示されていたものだった。
淡いピンクのシルク地にリボンやレースをふんだんにあしらったお姫様風ドレス。
貞淑を旨とするバレット伯爵家ではシンプルで上品なものが好まれたから、こういうのを着るのは初めてだ。
サラサラしすぎて結いにくいのでいつも下ろしっぱなしのエリスの髪も、今日はハーフアップにされ、リボンや宝石、花で飾り付けられていた。
まさにドレスとお揃いの夢見る少女スタイル。
似合っている自信はなかったが、密かに少女趣味なエリスは着ているだけで嬉しくなってしまう。
仕度を終えたエリスはいよいよ、年頃になって初めて学院以外の男性がいる場所へ向けて出発した。