1話 玄い時間(5)
夕焼けの空は、血を一滴落としたかのように禍々しく紅い。
それがビルや町の建物にも反射していて、血の雨が降り注いでいるように見えた。すくなくとも、飛鳥には。
簡単な報告と、迎えを求める事を電話口で話したあと、飛鳥は落ち着けるような場所を探した。
町の中に入り込まず、更に目立たないような場所を探して歩く彼女は浮浪者のように動きがたどたどしい。
駅の近くまで来たと思ったら、少し離れた裏道を彷徨い。そこを抜けたと見れば、人気のない公園へとふらふらと歩みゆく。
ようやく落ち着いた場所は、町のすぐ近くを流れる川の傍だった。
飛鳥は膝を抱えて河川敷に座り込み、ただ川を見続けた。
けれど、その眼はどこも見ていなかった。
彼女の脳裏をめぐるのは、先ほどのビルの一室。
恐怖に怯える人々。とびでる脳髄や不気味な程に鮮やかな内臓。他にも白い球体に、傷口から覗く筋肉の色。一度は感謝の笑みでこちらを見た者たちの顔に浮かぶ、絶望。
自らの権力を誇示するかの様に、ただきらびやかなホールにあふれる、死体の群れ。
一つ一つが鮮明に頭の中によみがえり、他のたくさんの記憶に埋もれた筈の過去を引っ張り出そうとする。
何年も手入れされないままに、ぼろぼろになってゆく家具たち。床にはたくさんのゴミと、少しの生活用品。それらの層の薄い小さなスペースに布団は敷かれ、いつあれらに埋もれることになるかと恐怖していた日々。灰色の部屋から見える、蒼い空が唯一の色だった。
トクン。
心臓が一つ、高鳴る。
これ以上は、思い出してはいけない。
呼吸が荒くなり、全身から汗が噴き出した。
チカチカと光が瞬く。
幕が下りるように、視界が黒いカーテンに覆われていく。
『あんた、まだ生きていたの?』
思い出しては、いけない……。
思わず悲鳴を上げそうになった飛鳥は、寸前でそれを飲み込んだ。
目をかっと見開き、めまぐるしく動かす。
紫紺へと色を変えつつある空と、それに合わせて変化する世界の色を認識しなおした。
ほ、と息をつく。
それと同時に、飛鳥の頭上に白い色がのせられた。
「だいぶ汗を掻いているな。そのままだと風邪をひくからちゃんと拭いておけよ」
ふわりと、少女の目の前で真っ白なタオルが舞う。
「戻るぞ」
振り返った飛鳥の前には、いつになく優しい表情をした黒髪の男が立っていた。
乗れ、と暖かな声で飛鳥に指図をし、自分は車へと戻っていく。
少し型の古い4WD。
子供はすぐに大きくなるから、と彼は大きめのものを買っていた。
真っ黒な車体の中につまった思い出と、消えることのない憎しみと、それに気付いている男の愛情と。
それらに包まれるように、飛鳥は車に乗り込んだ。
泣きたかった。
けれど、泣けなかった。
家へと帰る車の中で、飛鳥はぼうっと空を見上げていた。
変わらぬ日常。
変えられぬ日常。
発端は男のせいで、だけれども受け入れたのは飛鳥自身で。
両親が死んだ時に手に着いた真っ赤な血は、とうの昔に洗い落とされた。
だが、それとは違う朱い色にこの手が染まっている事もまた事実で。
過去と現在。どちらも飛鳥には救いがないように思えた。
* * *
「おかえり飛鳥! 大丈夫だった!?」
家のドアを開けた飛鳥を出迎えたのは、心配顔の沙耶と、少しだけ人の気配のする大きな家だった。
玄関には数人分のくつがあり、沙耶の他にも何人か帰ってきている様子で、車から降りてずっと沈んでいた飛鳥の心は何となく軽くなった。
「ただいま。大丈夫だったよ」
朝怒ったときに見せたのとは違う、暖かな微笑みを沙耶に返しながら、飛鳥は思う。
(ありがとう、皆もおかえりなさい)
どんなに考えたところで、今此処にいるのが飛鳥の現実なのだ。
ほんの少しだけ人の気配が戻った家と、優しい、姉のような沙耶の笑顔があればもうしばらくはのりきれる。
救いを求める事がおかしいかもしれないけれど、それにすがって生きていよう。
「ほら、さっさと入れ。ついでに飯食って寝ろ。お前らは明日からしばらく普通の生活が待ってんだからな」
飛鳥の後ろからどたどたと歩いてくる男は二人を押し込むように家に入ってくる。
黒毛と栗毛の少女は、こらえられずに笑いながら走りだした。
何せきれいに整えられた玄関に入る男の姿はジャージなのだ。似合わないにも程がある。
「よし、明日に備えて全部食べちゃおうか!」
楽しそうに目を瞬かせた沙耶がそう言ってスピードを上げた。
もちろん、自分の分がなくなることを(本気で)危惧した男が急いで追いかけてくる。
けれど、二人をぬかした男は居間を覗いて脱力した、ように見えた。少なくとも飛鳥には。
一歩前を行く沙耶は笑っていて、不思議に思うけれど、多少遅れて中に入ってみれば、確かに笑いたくなる光景があった。
(まだご飯用意されてなかったのか)
「残念でしたー。ご飯はまだ準備中ですよー」
沙耶の楽しそうな笑い声がはじけて、男のくやしそうなうめき声が上がる。
飛鳥は、こういう時間が好きだ。
なくならずに、このまま在ってほしいと思う。
依頼という、他人からの悪意や殺意を他人に届けるのはとても疲れるけれど、終わった後のこの明るい雰囲気は暖かくて少しだけ疲れが消えるのがうれしかった。
そうして飛鳥は優しく、本当にうれしそうに笑った。