1話 玄い時間(2)
沙耶は、長い廊下を歩いていた。
『あのむかつく馬鹿』の部屋にすぐに行くのはためらわれたのだ。
その上に、この家はやたらに広い。住んでいる人数は多くても絶対に二桁には届かないというのに、だ。二階に十部屋もあるのに、それらをつなぐ廊下がまた広く長く、どこかのホテルの様に家全体が大きい。一階の大半は道場のような巨大なホールで場所が取られている。敷地面積を調べてみたら、本当にどこかのホテルぐらいはありそうだ。
(家はいいのにねぇ)
手放しで褒めるような美しさはないが、要所要所を統一感のある装飾で押さえてある。
客などが来れば、誰もが家の主のセンスの良さを称賛するだろう。
沙耶はうろうろと周囲を見渡して、改めて思う。
(でも、なんでか此処って嫌な感じしかしないんだよねー)
広すぎて人の気配がしないせいかもしれない。
そう思う沙耶の顔は少し暗い。
部屋の数ほどの人間が本当は住んでいるはずなのに、そろいもそろって余所へ出かけているからだ。
だが、例えここに彼らがいたとしても同じ事を思ったかもしれない。
元々この嫌悪の感情は家の持ち主に端を発している。
『あのむかつく馬鹿』と沙耶が呼んだ人間は、孤児を集めては一級の教育を受けさせてこの巨大な家に住まわせる代わりに、何故か徹底的に殺人術を覚えさせる。
拒絶する子供は最初から選ばないらしく、沙耶も、多分飛鳥も、気づいたらのばされる手を取っていた。
そうして集められた十人弱の子供たちは皆逆らう事をせずに彼に従う。
自分たちは、殺し屋、という仕事を全うする異常者なのかもしれない。
そう思った沙耶は大きなため息を吐いて、今度はまっすぐに部屋へと向かった。
* * *
六畳一間の狭い部屋。
すかすかの本棚が入口の真向かいの壁に一つ二つ並び、沙耶には部屋の主の脳内が広がっているように思えた。決してそんな風にはなってはいないと、知ってはいるのだが。
左手には卓袱台が立てかけられていて、それらの他に何も置かれていない部屋は実際以上に広く感じられ、そして殺風景だった。
お茶すらもないことを心の中で嘆きながら、沙耶は卓袱台を床に置くことにした。
本来そういう事をすべき人間は、窓から外を覗きつつ、何か思案をめぐらせているのだろう。
ほおっておくのが一番だ。
卓袱台を置いて、さあどうやって暇をつぶそうかと考え始めた沙耶は、部屋の外から人の気配を感じることに気付いた。
そして、すぐに微かな音を立ててふすまはあけられた。
「遅れました、飛鳥です」
現れた少女が静かに声をかける。
襟足までのばされた髪は闇にとける漆黒。多少幼さの残る顔は氷のように冷たい。伏せられた瞼の奥には、隠しても隠しきれない暖かさが眠っている。
そんな飛鳥を沙耶は見やるが、とくに何も声を掛けることはない。
それをするのは、別の人間の役目だ。
「入れ。沙耶と並んで座っていろ」
ようやく窓から顔をあげた彼は、二人の少女に笑いかけながら動き始めた。