異人
舞台はまだ携帯電話が普及する少し前の時代。
今のような情報化社会ではなくともそれなりの通信機器等が普及している時代。
現代のように「性の不一致」について重視はされず、そのような人々は軽蔑されていた時代。
そんな時代に生きた二人の異人はどのように生きようとしたのだろうか。
季節は夏の暮。ここに二人の男女がいる。
一人は肩下あたりまで黒く長い髪をなびかせる半袖のセーラー服の女子高生。もう一人は黒がかった茶色の髪を襟下あたりまで無造作に下ろし、学ランの第2ボタンまで開けっ広げにして、中から紫色のTシャツをチラつかせる男子高校生。
二人は一見、ただの優等生とただの不良という相容れない関係性に感じるかもしれない。
だが彼らには、ある共通点があった。
ここは某県の某高等学校、仮称として『A高等学校』としよう。このA高等学校(通称A高。以下からは“A高”と記述する。)は、海と山に挟まれており、都会というよりは田舎に近い場所ではあるが特段不便な立地場所ではなく、バスや鉄道などの交通インフラやスーパーなどの現代人にとって必要不可欠な商業施設も充実しているので、生活するには十分な環境であるといえる。
A高は公立高校であるため外観や設備は一般的だが、自然に囲まれているという強みを生かし、月に一回、自然観測会という名の課外授業がある。この課外授業は学年ごとに今月は1年、来月は2年…のように順番に行われている。
その中で今日は2年がその課外授業が行われている。そのため教室内は静かであるはずなのだが、ある教室からひそひそと話し声が聞こえる。声の主はあの二人だ。
「アンタまた行かなかったのね。いい加減参加してみたら?あーしは肌とか荒れそうだから嫌だけど。」
「僕が行くわけないだろ。暑いし疲れるし面倒だし。」
女は机に上半身を押し付け、だらんとしている。その表情はいかにも無気力そうだ。目元のくまがよく目立つ。一方、男の方はと言うと右手の指を使って髪の毛を絡ませてクルクルと回している。
二人はある共通点から仲が良くなり、授業をさぼるのも、昼食をとるのも一緒で、その
関係性に第三者からたびたび“恋人”と間違えられることがあるが本人らはそれを否定している。
だとすると、それほどまで仲が良くなる程の“共通点”とは一体何なのか。その答えはこうだ。
二人は産まれ持った“性同一性障害の疾患者”である。
性同一性障害とは主に心と体の性別が不一致であることを指し、その症状は生まれつきかもしくは年齢を重ねる過程で発症する場合が多い。つまりこの男性の心は女性で、逆に女性の方は心が男性であるということになる。
二人は物心ついた時から自らの性別に違和感を持ち、そしてそのコンプレックスが徐々に自分たちとは違う他人に対して壁を作るようになった。自分たちは彼らとは違う“異人”なのだから分かり合うことはできないのだと、そう考える様になった。だからその分、お互いに同じ症状である二人の仲は深まっていった。
「なぁ倫太郎、人間って死んだらどうなると思う?」
髪の長い女性は机にうなだれたまま突然尋ねる。倫太郎というのはもう一人の男子高校生の名だ。彼女(ここでは倫太郎の意思に従って彼女と呼ぶようにする。)はこの名前が気に入っていないこともあってか自分の名前を呼ばれた瞬間、少しだけ眉間にしわを寄せた。
「人が死んだら?そんなの決まってるじゃない。あの世に行って極楽か地獄行きよ。」
倫太郎がそう答えると彼(倫太郎と同じくこの髪の長い人物の意思に従って彼と呼ぶようにする)はやれやれといった顔で首を横に振る。
「違うよ、すぐに生まれ変わるんだ。動物ってのは脳から電波信号を伝って動いているだろ?記憶回路も同じで電気信号で思い出したりしている。つまり僕たちは魂という電波で生きているんだ。」
「ちょっと待って輪花、アンタ変な物でも食べた?」
輪花が首を横に振る。彼女もまた、自分の名前を好きではない。
「食べてないよ。ただそういう話を最近よく調べるんだ。で、この考えが一番しっくりときたってワケ。じゃあ話を続けるけど…。」
「ごめん輪花。また遮ることになるのだけど、アンタ本当に何かあってない?ヤバイ宗教とかにのめり込んでるならやめた方がいいよ。」
「だから違うって、最近よく考えるだけさ。“死んで生まれ変わった方が幸せになれるんじゃないか”ってね。」
姿勢を正し、鋭い目で倫太郎を見つめる。いつになく真剣なその表情に思わず倫太郎はつばを飲み込んだ。
「ほら、僕たちって性別と肉体があべこべだろ?それのせいで面倒なことが色々と多いと思うんだ。特にウチの父親なんかは意地でも女として育てたいみたいで家では口調や仕草どころか、趣味でさえ女の子にしないといけなくてさ。この長くて鬱陶しい髪も腰より少し上になるまで切れないにしても、窮屈で仕方がないよ。」
黒くツヤがある長い髪を引っ張りながら煩わしそうにする輪花。それを見て倫太郎は不満げな表情を浮かべた。
「えぇ~勿体な~い。あーしはアンタの黒髪好きなんだけどなぁ。」
突然ドンッ!という重い音が輪花の机から響く。あまりもの轟音に倫太郎は一瞬体を震わせた。
「でも僕は嫌なんだ!毎日毎日『女らしくあれ』ばっか言われてさ!何が女らしくあれだ!!僕の心は男なのにそんなの無理に決まっているじゃないか!それでもあの親は少しも僕のことを分かろうとしないんだよ!!」
握りしめた拳が小さな振動を繰り返す。僅かながら血管が浮きだっていた。
「だから僕は生まれ変わって、男として男に生まれてもう一度人生をやり直したいと毎日思うようになった!」
まだ気分が落ち着かないのだろうか。輪花は席を立ち、教室内を歩き始める。青かった空はいつの間にか橙色に染まり、夕焼けが二人を照らす。輪花は呼吸を整えた。
「ごめん、ちょっと感情的になりすぎた。話を戻そう。それでさっきの続きだけど、動物は肉体が死ぬと当然のことながら生命活動を終える。その時に魂が出るなんて考えがあるけど実はあれこそが電波みたいなんだ。でもその電波はあの世に行ったりなんかせずに、これから生まれる新しい“器”を探すんだ。器を見つけると電波はそこに滞在し、新しい命としてまた生命活動を始める。でも新しい器にはいずれ新しい自我や記憶に描き換えられるから、古い記憶や自我なんかは徐々に消されていく。でもまれに“前世の記憶”が残っている人もいるみたいで、特に幼児期ぐらいの子供にそのような事例が多い様だ。多分まだ新しい自我も記憶も薄いからだろうね…って聞いてる?」
倫太郎はポカンと口を開けている。先ほどの激昂による衝撃やあまりもの情報量に脳が処理しきれていないようだ。
「まぁともかく、僕は一刻も早く生まれ変わりたい。そのためにも早く死にたいと思っているんだ。それはわかるよね?」
「生まれ変わりたいねぇ。確かに一致した性別に生まれ変われたらいいなーとは思うけどそれはあまりにもリスキー過ぎない?死んだからって人間の男に必ず生まれ変われるかどうかはぶっちゃけ微妙なとこでしょ?それに今のありのままを受け入れるのもまた人生だと思うわよあーしは。」
倫太郎はその後「まぁその親には抗うべきかもだけど。」と続けて苦笑する。しかし、輪花の意見は変わらないようだ。
「君にはそう思えるかもしれないけど僕は思えないね。17年間もありのままを受け入れ続けた結果がこれなんだよ。大失敗だ。」
「でも受け入れ続けたからこそあーしという似たような存在に出会えたわけでしょ?違う?」
彼の中で沈下した炎が再び音を立てる。その炎は刃のような鋭い声に纏わりつき、倫太郎を突き刺し、焼き斬った。
「うるさい!!お前はそうやっていつもいつも知ったような口をきいて!!おせっかいなら止めてくれ!!不愉快だっ!!!!」
喉を引き裂くような声で叫び、倫太郎を睨みつける。倫太郎は先程のように唖然としてはいない。口元は笑っているがその目元はどこか悲しげに映る。
「そ、そうね。あーしが悪かったわ、ごめん。じゃ、じゃああーしは先に帰るから。
また明日…。」
学生鞄を肩に掛け、夕日を背に倫太郎はひっそりとその場を後にする。いつもより小さく見える後ろ姿を輪花はただただ眺めていた。
あれだけ明るかった太陽も沈み、星々が瞬く夜となる。町の外から仕事を終えて帰ってきたサラリーマンや主婦等で夜の町が徐々に賑やかになっていく。その人ごみの中に倫太郎はいた。学生鞄とはまた別にビニール袋を持っている。中には駅前のスーパーで安売りになっていた弁当やカップラーメン等が入っていた。
空虚な気持ちで歩く。彼の頭の中では輪花に言われた一言が響き続けた。どこまでも重く、重く、深く、深く。
誰かと肩がぶつかる。「すみません」と一礼をしたが、相手の男に舌打ちだけされた。普段なら悪い気分にでもなっていたところだろうが今日は違う。何も感じられない。
あの時、自分は言い返すべきだったのだろうか?だとしても何をどう言い返す?そんなことが何度も何度も頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
分かったつもりでいた。自分が輪花の一番の理解者でいたつもりだった。しかしそれはただの自己満足だった。彼にはむしろそれ自体が煩わしく、迷惑だった。そう考えるたびに頭痛がして吐き気を催す。
それを何度も何度も繰り返しているうちに、気が付けば自分の家に辿り着いていた。決してボロボロではないが、それなりに錆びたアパートが倫太郎家の家だった。
灯りはついていない。今日も倫太郎の母親はまだ帰っていないらしい。慣れたものだ。
倫太郎の父親は生後間もなく一人で夜逃げした。理由は今でもわからない。
母親はその日から変わった。自分の子供には目もくれず近所の住人に子供を預けては自分は仕事と表して夜の街へと繰り出すのだった。
倫太郎はその現状に慣れてしまい、いつしか一人で全ての家事をこなせるようになっていた。生活費に関しては母親が定期的にどこからか仕入れているので、贅沢しない限りは別段問題なかった。
鍵を挿入して解錠する。ギィィィ…という扉の開く音がこのアパートの年季を感じさせる。灯りを点けると部屋中に物が散らかっており、そこら中にビールやチューハイの空き缶が転がっていた。
「はぁ…。」とため息をつき、空き缶を拾ってはごみ袋に捨てる。最近特に量が増えたため、気苦労も増えた。今まで一度も愛してくれているとは感じたことのないような親だがそれでも今の自分が知るたった一人の家族だ。心配にもなる。
全ての空き缶を捨て終えると、袋から弁当を取り出して電子レンジで温める。それまでの間、彼女はただぼうっと床に座っているだけだ。
何かをしようにもその気力が湧かない。自分でもしつこいと思うくらいに夕方の出来事が頭の中で繰り返し繰り返し再生される。
明日からどのように接すればいいのか、また元の関係性に戻れるのだろうか。自問は止まらず、答えは出ないまま時だけが過ぎるが「チーン」という音とともに一度打ち切られた。
レンジの中からフタ口の曇った弁当を取り出し、机の上に並べる。ついでに冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出す。
冷蔵庫の扉を閉めようとした時、突然「ピンポーン」という音が鳴る。この家にはめったと人が来ないので少し警戒しつつ、先に冷蔵庫の扉を閉めてからゆっくりと玄関に近づく。その途中で「ピンポーン」という音がまた鳴り、さらに警戒をする。
とうとう借金取りが来たのかもしれない。そんなことを考えながらおそるおそる扉ののぞき窓から覗いてみると、そこに映る人の姿に絶句した。
輪花だ。輪花がいる。
デニムのズボンに無地の灰色のTシャツと、その麗しい見た目からかけ離れたシンプルな格好をした彼がそこに立っていた。倫太郎はバクバクと唸る鼓動を抑えつけながら扉を開けた。
「い、いらっしゃい輪花。こんな時間にどうしたの突然。まぁまぁ遠かったでしょ?」
彼に無駄な心配をかけないようになるべくいつも通り、まるで夕方のことなんて気にしていなかったかのように平静を装って話しかける。実際、倫太郎の家から輪花の家までは自転車を使ったとしても片道で30分程はかかる。開けた扉のすぐ横あたりには真っ黒な自転車が停まっていた。
「そんなことない、どうせ君のことだ。今日のことで色々と悩んでいたのだろう?その時間に比べればここまでの移動時間なんて大したことない。」
「…なるほど、すべてお見通しだったってわけね。」
倫太郎は安心しきった顔で「入って。」と輪花を誘導し、家の中に入れた。
「こんな物しかなくてごめんね。今日は手作りしない日だったから。」
スーパーで買ったカップ麺を用意して机に並べる。輪花は物珍しそうにそれを眺めていた。
「驚いた。君はこういうのは食べないと思っていた。」
「何言ってんの。そりゃできるならあんまりこういうのは食べたくないわよ、健康にも美容にもあまり良くないしね。でもそれよりこういうのに頼って少しでも家事をする時間を減らしたいだけよ。」
「なるほど、まるで主婦のような考えだな。」
倫太郎は「まぁね。」と鼻高々に高揚したがすぐにハッとして「そうじゃなくて…。」と自分を諭してから彼の目の前に座る。輪花も姿勢を正した。
「今日はごめん。アンタの事情も知らず勝手なことばっか言っちゃって。持論だとしても言い過ぎたわ。」
輪花に向かって頭を下げる。許されようとは思っていなかったが、彼女がどうしても言いたかった言葉だ。
「僕のほうこそ悪かった。頭に来たとはいえ、言い過ぎた。僕ももう少し考えを改める必要がありそうだ。」
輪花もまた頭を下げる。そしてしばらくしてから二人はお互いに笑い出した。
「あぁもう、やめやめ!こんな湿っぽい話はもうおしまい!ほら、さっさとカップ麺食べちゃって。麺が伸びちゃうから。」
すっきりとした顔つきで少し冷めた弁当を開ける。輪花は「ありがとう…。」とコッソリ呟いたのだが、彼女にその声は聞こえていなかった。
食事を終え、テレビでお笑い番組を見る二人。時間は21時を過ぎている。
「そういえばアンタ、そろそろ帰らなくて大丈夫なの?アンタのお父さんのことだから無駄に心配してるんじゃない?」
現代社会であるなら情報機器が発達しているため、携帯電話という連絡手段がある。しかし、この時代にそのような代物は存在していないので、連絡するには固定電話しかない。そのため、輪花の父親は少しでも“娘”の身の安全が確保できるよう21時までに帰宅するという門限を設置していた。無論、このことについて倫太郎はまったく知らず、輪花も守る気はさらさらない。
「まぁそうだろうね。でもまだ帰りたくないよ、こっちの方が心地良いし。」
まだ帰りたくない、心地良い。その言葉は倫太郎にとって悪くない響きだ。だがそれを許すわけにはいかない。
「その言葉は正直嬉しいけどやっぱそうはいかないでしょ。ほら、あーしも交差点まで付いてってあげるから。」
輪花は渋々頷き、支度をする。それに続いて倫太郎も後から支度を始めた。
夏も終わりへと向かっているためか、夜風が少し肌寒い。
「うぅ…、思ったよりも寒いわね。アンタはどう?寒くない?」
「うん、このくらい平気さ。何ともないよ。」
そう言いつつも玄関の外で小刻みに体が震える輪花。倫太郎は部屋に戻って薄手のカーディガンを二着持ってきた。
「ほら、これ貸してあげるから着なさい。風邪ひいちゃったら親御さんに迷惑かけちゃうし。あーしも心配したくないしさ。」
輪花は「別に寒くないけど確かに君に心配されたくないし。」と少し強がりながらも渡されたグレーのカーディガンを着る。サイズが少し大きく袖が余っているが、きっと暖かったのだろう。彼の震えは止まった。
「ありがとう、洗ってまた返すよ。」
輪花は満足そうに微笑む。その表情に思わず倫太郎はドキッとした。
「そ、そう?でもまぁ急いで返さなくていいからね。あーしはいつでも大丈夫だし。」
倫太郎は続けて「じゃ、行きましょっか。」と紫色の自転車のサドルに腰を掛けた。
目的の交差点に着くまでの時間はあっという間だった。普段ならまぁまぁ時間がかかると感じる場所だったが今日は一瞬のように感じた。すぐ右横には海が見える。満月に照らされている青い海がまるで夜空のように煌めいていた。
「じゃ、あーしはここで。またね。」
自転車を来た方向と逆向きに置き換える。その姿を眺めていた輪花は「なぁ」と思わず彼女を呼び止めてしまう。
「ん?どーしたの、何か忘れ物?」
「ええっと、それはその…。」
言葉が思い浮かばない、けれど何か言いたい。輪花はそんな気分だった。倫太郎は首をかしげながら彼を待っている。
少し時間がたち、輪花はようやく口を開けた。
「海…!海を見ないか?倫太郎。」
倫太郎はさらに首を傾げた。課外授業の時にあれほど嫌っていたし、何なら毎日飽きるほど見ている海を今更見たいというのだから当然だろう。しかし、そんなことを口にはしない。彼がそう思っているなら基本はそれに従う。それが自分にとっての義務だと彼女は思っている。
「あーしは別にいいけど門限的にも絶対アウトでしょそれ。」
「いいんだよ。今は門限とか親とか忘れて君といたい気分なんだ。」
「アンタねぇ…。」
そう言いつつも少し嬉しい倫太郎。今日は散々だと思っていた日だったが結果的には丸く収まった安心感からの安堵でもあったが、単純に“君といたい”と言われたからだ。胸の辺りが少しむず痒くはあったが。
「まっ、アンタがそういうなら仕方ないわね。ちょっとだけだけど付き合ってあげるわ。」
二人はお互いに目を合わせ頷き、自転車で海岸の方へと下っていく。
夜の海岸は当然の事ながら薄暗く、人気は全くなくて、そこにいるのは倫太郎と輪花の二人だけだった。
「うん、見慣れたものだけど夜の海ってのはやっぱり良いものね。昼間と違って人はいないし、何より落ち着くもの。」
ジーンズに砂がつかないよう、足元だけを砂地につけて腰を掛ける。その隣で輪花は何も気にせずに砂浜に腰を掛けている。
「そうだね。僕もこの時間の海は好きだ。」
輪花が月に照らされてより一層美しく見える。こう見ると彼は見た目としてはやはり“女性”なんだと思う。自分がもし中身も男性だったならば告白していたかもしれない。そう思えるぐらいに倫太郎の目に映る彼の容姿は美しかった。
しかし、それは自分も当然のことながら彼も望んではいない。
あくまでも自分は女であり輪花は男である、そのことに変わりはない。好きになるのは彼を友人としてではなく一人の“男”として意識してからだ。倫太郎はそう自分に言い聞かせた。
「なぁ倫太郎。」
不意に輪花が倫太郎を見つめる。月夜に照らされたその肌は普段より一層白さを際立たせていた。
「やっぱり僕、君に出会えてよかったと思っているよ。これまでも、そしてこれからも。」
「何よ急に変なこと言って…。」
気恥ずかしそうに微笑む倫太郎。輪花もそれを見ながら同じように口元を緩める。
「でもまぁ、そうね。あーしもアンタに出会えて良かったと思っているわ。」
輪花は目を見開く。いつもとは少し違った歯がゆい感情に揺れ動いたからだ。その感情の正体を彼はまだ知らない。
「そ、そうか。それは嬉しいな。うん、とっても…。」
身体が熱くなり、彼女を見つめているとその熱はより一層増していくように思えた。熱が体内を駆け巡り、今すぐにでも彼女を抱きしめたいという気持ちを加速させる。輪花は抑えきれない欲求を別の形で解放するために海水を両手ですくって、倫太郎の顔にめがけて投げかけた。
「うわ!しょっぱ!何するのよもう!」
水をかけられて前髪がわかめのように垂れ下がる倫太郎を見て、輪花は心の底から大笑いした。
「あははははは!すごい!すっごい前髪垂れてる!!今の君、さいっこうに面白いよ!」
ひたすらに笑い続ける輪花に黙って、倫太郎は同じように海水を両手ですくい、彼の白く端正な顔にめがけてさっきの自分がやられたことをやり返した。
「フフフ、アンタも今、相当面白いことになっているわよ。まるで井戸から出てくるあのお化けみたいにね。」
「…ッ!言ったなぁ…。じゃあもう一回僕の番だ!!」
そんな事を繰り返し、二人は気が済むまで遊び続けた。
「ふぅ、思ったより白熱した戦いになったわね。」
最初は顔だけにかかっていた海水が最終的には全身にまで及び、二人ともすっかりびしょぬれになってしまった。
「ああ、まさかこんなに服がビショビショになるとは思わなかったよ…。」
カーディガンを羽織っていたため大事には至らなかったが、彼の着ていたTシャツが所々肌に張り付き、女性らしいカタチを強調していた。
不覚にもその光景にドキッとしてしまった倫太郎は「ほら、カーディガンのボタン留めなさいよ。今日は特に寒かったんだから留めないと風邪ひくわよ。」とそれっぽい指摘をして、何とか視界に入らぬよう促した。
「フフッ、君が言うならそうするよ。」
輪花は素直に従い、カーディガンのボタンを留めた。
「それにしても不思議だね。君は親友みたいだし親みたいでもある。やっぱり変わった存在だ。」
「それはこっちのセリフよ。アンタは親友なはずなのにどこか自分の子供のように感じる。ホント変な存在よ。」
「もしかしたら僕たちの前世って親子だったのかもしれないね。その名残で電波が…」
「ハイハイ、その電波に残ってた記憶が本能を刺激しているとでも言いたいんでしょ?分かった分かった。」
手を外側に払うように振り、話を遮る倫太郎。輪花は少し拗ねたような表情を見せた。
「ひどいな倫太郎。まさしく今それを言おうとしたのに。」
「ごめんごめん。」と笑いながら謝る倫太朗。ふと左手に着けている薄い紫色の腕時計を見てみると、時計の針は既に22時を過ぎていることを知らせた。
「いっけない!もうこんな時間じゃない!アンタ早く帰らないとよ!」
腕時計を輪花に見せる。彼は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「そうか、もうこんな時間だったんだ。じゃあ今日は解散だね…。」
トボトボと自転車を停めている場所へ向かう二人。先ほどからずっと暗い表情のままの輪花に気を使い、倫太朗はそっと声をかけた。
「せっかくだし家までついて行ってあげようか?」
腕を組み、少し考えこむ輪花。しばらくすると小さくうなずき、倫太朗に目を向けた。その目はいつもと変わらない何かを見通しているような、もしくは退屈な日々に気だるく感じているような鋭く、少し垂れ下がった目だ。
「いや、ここでいいよ。僕はもう大丈夫だから。それに…」
少し駆け足で坂を上り、倫太郎を見下ろすような体勢で彼女の目の前に立つ。
月の光に照らされた彼はさながら舞台の中央でスポットライトを浴びるメインキャストのように白く輝いていた。
「僕は明日も明後日もその先もずっと、きっと会うことができる!」
発言でさえも役者のような言葉を言い放ち、今日一番の笑顔を見せる輪花。その姿に倫太郎はホッと胸をなでおろした。
「フフッ、どうやら心配して損したみたいね。それならあーしも安心だわ。」
倫太郎も笑顔で返す。輪花はまた少し顔が暑くなったが悪い気はしなかった。
そうして二人はまた、一緒に坂を上るのだった。
「じゃあ、また明日!」
何の変哲もなく、言い慣れた言葉。だが今日はいつもと違い、そんな言葉ですら胸の中をくすぐる。輪花は急いで自転車に乗り、その場を後にした。
「また明日!ちゃんと学校に来るのよ!」と大きな声で叫び、彼の姿が小さくなって見えなくなるまで手を振りながら見送った。
辺りはさっきまでとは違い、しん…とした静寂に少しの波音が混ざり、夜の海岸を包み込む。あれだけ明るく輝いて、スポットライトのように輪花を照らしていた月も今では雲に隠れて見ることはできない。倫太朗の視界は“闇”そのものだ。だがしかし、彼女の心は月のように輝いていた。
「ふふっ、また明日か…。」
自然と笑みが零れ、少しむず痒い気分になる。それもまた心地良い。
「また明日ね。」
同じ言葉を反芻して、ペダルに足をかける。倫太朗は晴れやかな気分でその場を跡にした。
遠くで大型トラックの音がしたがその時の倫太郎は特段気にはしなかった。
翌朝、倫太郎の目が覚め、重い眼をこすりながら辺りを見わたす。母親はまだ帰ってきていないようだ。
やれやれ、また昼帰りか。そう思いながら朝食の準備をする。
今朝の朝食はあまりお腹が空いていないので市販のバターロール2個のみで、倫太郎はそのバターロールの一つを口にくわえながらテレビを点けようとすると突然家の固定電話が鳴り始めた。
何故かは分からないが倫太郎はその電話の音に謎の不安を感じる。しかし、しばらくしても鳴り止む気配はなく、リビングに響き渡り続けるので、不安とは別に煩わしく感じた倫太郎は受話器を上げ「もしもし。」と電話に出た。電話の主は担任の先生であった。男性であるということを除いても心なしかその声は重く、雨雲のようにどんよりとしている。
「倫太郎さんだね。担任の加々見です。先ほど輪花さんのご家族から直接電話がかかってきました。どうやら昨晩…」
担任の言葉が一度詰まる。電話の向こうで深呼吸をする音が聞こえた気がした。そして次の瞬間、倫太郎は謎の悪寒の正体を知ることになる。
「昨晩、輪花さんが交通事故に巻き込まれ、亡くなったようです。君には何やら受け取っていただきたいものがあるみたいですから直接A病院に向かっていただけないでしょうか。」
悪い予感は的中した。輪花が死んだ。それこそが悪寒の正体だったのだ。虚ろになりながらも話の続きを聞いていると、昨晩自転車に乗って帰宅する途中で心臓発作を起こしたドライバーの乗るトラックと正面衝突したらしい。二人とも即死だったようだ。
倫太郎の顔は一気に青ざめた。「また明日ね。」と約束したその後すぐに死んだ。その事実を受け入れられなかった。
担任の加々見はまだ何かを話していたが無言で電話を切り、何も考えられぬまま自転車に乗って倫太郎はA病院へと向かった。
A病院まではさほど距離はなかったのですぐに着いた。場所は地下階にある霊安室の一室。そこに彼は眠っていた。顔は目も当てられないほど原形をとどめてないらしく、見せてはもらえなかった。
彼の母親から貰ったのは昨晩自分が渡したグレーのカーディガンだった。綺麗に洗ってくれたようだがところどころに血の跡が残っている。
母親の隣にいた例の父親からは数え切れぬほどの罵詈雑言を吐かれた。「お前がいなければ死ななかった。」や「金輪際顔を見せるな。」とのような怒号を倫太郎に投げかけているが、その全てが耳から通り抜ける。その様子が彼の父親の怒りをより増幅させることになったのだが、それからのことは全く記憶になかった。
帰りは徒歩で帰った。自転車を漕ぐ気力ですら彼女には1mmも残されてはおらず、すべてを失い0になった気分だった。もうどうにでもなれ、そんな風にも思った。
フラフラと歩くうちに倫太郎の足並みは少しずつ車道の方へと向かっていた。まるで“死”を望むかのように。
そんな彼女を止めるかのように薄っすらと立つ姿が車道越しの向こうの歩道に見えた。
「輪花…?」
それは幻かもしれない。もしかしたら夏の終わりが見せた季節外れの蜃気楼なのかもしれない。そうだとしても彼女にはそのゆらゆらとゆらめく人影が輪花に見えた。
「倫太郎、生きろ。きっとまた会えるから。」
声は聞こえない、でも確かに、そんな風に言っているような気がした。
倫太郎も色んなことを言いたかった。「自分を恨んでいるか」「どうか行かないで」「アンタなしには生きられない」そんな言葉を言いたかった。しかし、そんな言葉を口にする前に彼の姿は走り抜けた自動車に連れ去られるように消えた。
いつの間にか差していた夕焼けがあの頃のように彼女を照らし、街を茜色に染めた。
数年が経ち、倫太郎は大手ファッション誌の専属筆者として働いていた。
『ファッションに“○○らしい”はいらない』というコラムを書いていて、毎日忙しいがその分、日々充実はしていた。
それでも輪花を思い出さない日は一度もなく、そしてきっとこれからも忘れることはないだろう。そう思いながら彼女は今日も生きている。
その日は仕事の後、倫太郎は地元の自然地帯にある集団墓地を訪れていた。
数年前と同じような天気、気温、湿度。そう、今日は輪花の命日である。倫太郎は毎年、この日になると彼の家の墓にこっそりと花を手向けている。花の名前は「カーネーション」。本来は母の日に手向けられることの多い花だが、倫太郎は何処か彼の雰囲気と似たようなものを感じたため、この花を手向けるようにしている。無論、時期としてはずれているので造花ではあるが。
「輪花、今年も来たわよ。最近嬉しいことに仕事も上々で今年は行けるかどうかちょっと心配だったけど何とか来れて良かったわ。」
黒い喪服に身を包む倫太郎。この喪服を着るたびに彼の葬式に呼ばれなかったどころか「来るな!」と彼の父親に追い出されたことを今でも思い出す。あれから未だに輪花の家族と会ったことはない。
膝をゆっくりと押し曲げ、中腰の姿勢にする。持っていたカーネーションをそっと供えてそっと手を合わせる。しばらくして立ち上がろうとすると、一陣の風がふわっと少し吹き、その風と共に一人の少年の体が彼女の右膝あたりにぶつかった。
「あら、ごめんね。君、ケガはなかった?」
少年の顔を見た瞬間、倫太郎は目を見開いた。自分の視界に映るその少年の顔は輪花によく似た端麗な顔立ちであったためである。
「アンタ…まさか…。」
あの子が本当に生まれ変わった…?そう思いながら無心で少年の頬に触れようとする。しかし、少年の後ろに映る二人の人影を見てその手を止めた。見覚えがあるどころか今でもキッチリと記憶に残っている顔ぶれだ。
「輪花のお父さんと、お母さん…。」
正直会いたくなかった。母親は大して問題ではないが、父親の方は大問題である。顔を合わせるだけでまるで咎人を見るような眼で見られるからだ。倫太郎はそのことに恐怖感を覚えていた。
「どうしてここにいる。」
輪花の父親の眉間にしわが寄る。やはり数年たった今でもあの頃の恨みはまだ消えていないようだ。白髪としわが増えどもその迫力は数年前とまったく変わらない。
母親が「止めなさいよ。」と父親を止めようとするが、聞く耳を持たず、ゆっくりと倫太郎に近づく。
「私はお前に金輪際顔を見せるなと言ったハズだが…?」
父親が一度少年に視線を向けて「お母さんのとこへ行ってなさい」と声量を少し抑えて囁く。すると少年は静かに母親の元へ向かった。そしてその目は再び倫太郎を睨みつけ、すぐ側にある自分たちの墓石にカーネーションを見つけて、それを掴み取った。
「ほう、この造花は毎年お前が届けていたのか。」
そう言い終えた次の瞬間、彼女の目の前でそのカーネーションを地面に叩き落として害虫を踏み潰すかのように踏みつけた。
「こんな造花を手向けたから許されるとでも思っているのかこの人殺しっっっ!!!!お前が許されるわけないだろ!!!!!!こんな物でウチの“娘”が救われるとでも思っているのかっ!!!!!!」
造花を踏みにじりながら数年前のように罵詈雑言を倫太郎に吐き続ける。その姿は父親というよりも言葉の通じない“怪物”の様であった。
倫太郎はただ黙って粉々に砕けていくに作り物の赤い花を見つめていた。確かにあの時、自分が家まで付いて行っていたら、いや、そもそも喧嘩にならなければ、輪花が死ぬことはなかったのかもしれない。だが、どんなに悔やもうとも彼が帰ってくることはない。自分はただ、懺悔をしてあの子が生まれ変わることを信じ続けながら生きよう。そう心に誓った。その象徴としてカーネーションを手向けることこそが償いだと信じて。
「さっきから黙って私の足元を見やがって。詫びの一言でも言えないのかお前は、ええ?」
倫太郎の髪を掴み、引っ張り上げる怪物。その力は凄まじいもので今にも首ごと引きちぎられそうなぐらいに痛かった。
しかし、倫太郎は冷静だった。今の自分が言うべき事、それを自覚していた。
「輪花のお父様。アナタさっき、輪花のことを“娘”だと言ってましたよね…?」
痛みに耐えながらも言葉を続ける。
「輪花は…あの子はあーし…、いえ、私と同じ性同一性障害でした。アナタはもちろん、そのことを知っていたハズです。」
髪を引っ張る力が一瞬緩んだその隙に、倫太郎は自らの髪を掴んでいた指を無理やりほどいた。少々髪を抜けてしまったが今の彼女には関係ない。
「でもアナタはそれを認めなかった。あくまであの子を“女”とでしか育ってなかった。」
全身を震わせ、「今度はこちらの番だ。」と言わんばかりに怪物を睨みつける。
「あの子にとってそれはとても辛いものと聞きました。『生まれ変わりたい』と願うぐらいに追い詰められていました。」
再びあの日のことを思い出す。茜色に染まる教室で「あの親はわかろうとしない。」と叫ぶあの姿が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
「アナタはもっとあの子の話をしっかりと聞くべきでした。過ぎたことなので何を言っても変わらないのですが。」
あくまで冷静な対応をする倫太郎。この怪物のように感情のままに叫んではいけないと、己に諭し続けた。
「お父さん、もういいんじゃないですか?今日はあの子の命日です。それにここはあの子の墓前。これ以上いがみ合ってもあの子は浮かばれませんよ。」
輪花の母親が間に入るように諭す。隣にいる少年も同意をするように頷いた。
倫太郎は先に「少々言いすぎました。申し訳ありません。」と一礼をする。彼の父親はふと我に返ったかのように後ろに振り返り、妻と少年を見つめてからもう一度倫太郎に目を向けた。その目は決して睨みつけるというわけではなさそうだ。
「そうだな、いくら頭に来たとはいえ、声を荒げるのは良くはなかった。こちらこそすまない。実はな…」
父親は話を続ける。さっきまでの怪物のような様相とは違い、落ち着きつつもどこか哀しげな姿に見える。
「私は分かっていたハズだったんだ。あの事故は君のせいではないと。悪い人間は誰でもない、この私だと。我が子の話を一切聞かず、自らの理想論を押し付けていた私自身だと。そう気づいていたはずだったんだ。」
両眼から涙が零れる。先ほどまでの異様な威圧感はまったく無く、それはまるで力のない“子犬”のように小さく、そして震えていた。
「しかしそう分かっていてもそれを飲み込むことができない!誰かのせいにしないと自分は自分として生きていけない。愚かにもそんな考えでこの数年生きてきたのだ!」
子供のように泣きじゃくる。彼の妻もまた、自分と同じように涙で頬を濡らす。しかし、少年はただひたすら輪花の父に視線を向け続けていた。
「あの子は血の繋がりのない我が子だ。娘…いや、“息子”か。息子が死んで霊安室に運ばれたあの日に同じA病院であの子は生まれた。あの子の本当の母親は体が弱かったらしく、出産してそのまま息を引き取ったそうだ。当時、親戚や夫はいなかったとは聞いたが詳しくは聞いていない。とりあえず身寄りがなく、このままでは孤児院で育てることになると医者が話していたのでそれならばと私たちで育てることにした。」
話の途中で泣き止み、今度は穏やかにそれこそ“父親”の肩書にふさわしいやさしい顔つきに変わった。喜怒哀楽を感じやすい人だと、倫太郎はそう感じた。
「あの子を最初に見たとき、私は息子の…、輪花の生まれ変わりだと思った。端正な顔立ちやどこか懐かしい雰囲気、そのどれもが息子にそっくりだった。」
倫太郎は彼もまた自分と同じようなことを考えていたということを知り、ハッとして輪花の顔を思い出した。
「私はあの子に輪と名付けた。輪は活発とは言わないが元気に育ってくれている。これからもきっと元気に育ってくれるだろう。息子の…輪花の分までな。」
「おいで。」と輪を呼ぶ。彼はゆっくりと近づき、父親に頭を撫でてもらった。
「私はついさっきまでこの子を輪花の生まれ変わりとして育てようと考えていた。しかしそれは止めよう。また同じ過ちを繰り返すことになるからな。」
視線は倫太郎の方に向く。さっきまでの恨みのこもった視線はすっかり無く、今では暖かく軽やかで友好的な視線を送る。
「倫太郎君、改めて謝ろう。今まで本当にすまなかった。そしてありがとう。私に新しい生き方を教えてくれて。愚かであった私を止めてくれて。」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございます。」
二人は握手をする。それはとても固く、絆のこもった握手だった。
「それで差し支えなければで良いのだが、これからも私たちと“二人の息子”に会ってくれないか?」
倫太郎の表情が明るくなり、彼女は迷わず「ええ、喜んで!」と快く返事をした。
「そうか。良かった。ではまた会おう。その時は君の分のカーネーションも用意しておくよ。」
そう言うと彼は新たな息子の輪と手を繋いだ。母親も「また今度会いましょうね。紅茶を用意して待ってますから。」と軽く会釈をしてから同じく輪と手を繋いでその場を後にした。
倫太郎は三人の姿を温かい気持ちで見送り、「さて、もっかいお花を買いに行こうかしら。」と呟いて踵を返そうとしたその時である。喪服の後ろ裾を何者かに掴まれる感触を感じた。
首を横に向け、何者かを確認する。そこにいたのはさっきの少年、輪だ。
「どうしたの?パパとママが心配しちゃうわよ?」
膝を折り曲げて、視線を合わせて優しい声色で尋ねる。すると輪は口元を少しゆがませ、フフッと笑った。
「何その声、君ってそんな声出せたんだね。」
懐かしい話し方。無論、声は全く違うが倫太郎はその話し方に聞き覚えがあった。
気だるそうに、でもどこか安心できるような暖かな言葉の組み立て、間違いない。
「りんか…?」
「うん、その呼ばれ方久しぶりかな。昔は飽きれるほど聞いたのにね。」
倫太郎は口元を抑える。ずっと会いたかった、会ってまた話がしたかった。そして謝りたかった。本当にまた会えた。そんな思いが混ざり合って涙となり、溢れる。
「アンタ、本当に生まれ変わったんだね。それも男に…。」
輪。いや、“輪花”は頷く。
「うん、そうなんだ。でも…」
一度目を閉じる。そうしてしばらくした後、大きく深呼吸をしてソッと目を開けた。
「でも僕はもうここで消えようと思う。これからは“輪花”としてではなく、“輪”として生きていくつもりだ。」
決意に満ちた声。それはあの時の輪花と同じだった。しかし、内容は全くもって正反対だ。あれだけ生まれ変わりたいと望んでいたハズなのにどうして?倫太郎は困惑を隠しきれず、その表情をまた歪ませた。
「困惑しているようだね。じゃあいいよ、何故僕がそう思ったか教えよう。」
またあの時のように歩き回る。小さいながらも歩き方まで当時の輪花そのものだ。
「確かに僕はあの時生まれ変わりたいと願ったし、幸か不幸か、あの事故で一度死んでからこうやって生まれ変わることができた。しかし、これはどうなんだろう。僕はたまたまそこで生まれた器を乗っ取り、改めて“輪花”として生きることは生前の僕が父親にやられていたことと同じことなんじゃないかと考えた。」
探偵のように歩き回りながら人差し指を小さく振る。倫太郎は色々と思うことあったがそれを言葉にすることができず、ただ見つめ続ける。
「さっき僕の父親が言ってたよね。『自分の理想論を押し付けていた私自身だと。そう気づいていた』って。あれで考えが確信に変わったんだ。僕も同じことをしようとしていて、これは自分のワガママで僕はこの器の人生を奪っているじゃないかってね。だからこれ以上奪うのは良くないと、そう思ったんだ。」
「そう気づかせてくれるキッカケを作ってくれたのは君のおかげだ。ありがとね。」と続けて話す。だが、倫太郎は途中から聞く耳を持ってはいなかった。
「嫌よ、あーしは嫌。せっかくまた会えたと思ったのにまたサヨナラしなくちゃいけないの?どうしてまた逝っちゃうのよ!また昔みたいにあーしといてよ!」
それは初めてのワガママだった。
倫太郎はこれまでなるべく他人の要望に付き添って歩くような人生を送ってきた(理不尽な内容は別だったが)。それは輪花に対しても同じで、自分が他に何かやりたいことがあっても彼からの誘いがあればすぐに乗るようにしていた。それぐらい彼女にとって輪花は全てだった。自分の肉親よりも大事な存在だった。
だからこそ、もう二度と逢えないと思っていた彼に再び会えたことは至上の喜びだった。しかし、その彼は今、自らの意志で再び自分の前から去ろうとする。それは彼女にとって最大の苦痛である。
そんな心境から倫太郎は輪花にありったけのワガママを吐いた。
「また昔みたいにくだらない話しでもしようじゃないの!誰々が本当に馬鹿で見てて飽きないとか、喫茶店の限定メニュー食べに行こうとかさ!後はブティックに行って、お互いに相手が似合いそうなコーデを選んだりコーディネート対決したりさ!休日はちょっと遠出してテーマパーク行ったりだとか、それからそれから…ええっと…。」
指を折りながら輪花としたいことをひたすらに言い重ねる倫太郎。彼はその姿を見てまた少し口元を歪ませた。
「フフッ、初めてだね。君がそんなにワガママを言うのは。でもやっぱりダメだ、その願いは僕じゃ叶えられない。」
ハッキリとそう答える輪花。彼の決意は揺るがないようだ。
「僕は輪花であって輪じゃない。輪花はあの時、事故で死んだ。そしてこの身体は輪の物。それは揺るぎない事実だ。そもそもこの自我は遅かれ早かれ時が流れれば消えるものだしね。そして…」
膝から崩れ落ちて、子供のように泣きじゃくる倫太郎。その肩に小さな手をポンと置いて輪花は親が子に言い聞かせるように優しく言った。
「いいかい倫太郎。君はもう僕から離れるべきだ。これからは無理して墓参りに来なくてもいい、あの日のことに責任を感じなくていい。きっとあれは“運命”だったんだ。早とちりした神様が生まれ変わりたいと願った僕に与えてくれた運命。だから気にすることはない。これからは君は君らしくいい人でも見つけて長生きするといいさ。」
「できないわよ…。」と、それでもまだ拒否反応を示す倫太郎。輪花はしばらくすると不意に彼女をそっと抱きしめた。
「大丈夫。きっと君ならできる。だって君は…。」
身体は幼児であるため、腕は彼女の背中まで届いてはいない。だが、不思議にも倫太郎は細くしなやかな両手で自分の全てを抱きしめられているように感じている。
輪花の手が震える、何故かは自分でも分からない。だが確かに自分の両眼からも涙が溢れていることが頬を通じて伝わった。
涙が止まらず「君は…」の続きを言おうとするたびに瞳から光の雫が言葉とともに零れ落ちる。薄くなりゆく意識と溢れて止まらない涙で彼の心も滅茶苦茶になっていく。
しかし、この言葉はどうしても伝えなくてはならない。輪花はその意志の下、零れ落ちる涙を手で拭いながら抱きしめた手を放す。
「倫太郎、君は僕が信じた…」
「僕が信じた最愛の人なのだから。」
やっと気づいた。気づくのが遅すぎた。僕はその人を愛していたんだ。
いつも傍にいて僕のワガママを聞いてくれた。そして何よりも僕のことを心配してくれた。
そんな倫太郎に、僕はいつしか惚れていたんだ。
でも、だからこそ、僕はもう一度この世から旅立たねばならない。自分が愛した“女性”の未来を願うためにもここを離れねばならない。
だから許してくれ。こんなにも愚かな僕を。本当はまだ君と同じ時間を過ごしたいと思う僕を。
「アンタズルいよ、今更そんなこと言うなんて。しかもあーしよりも先に。」
そうか、あーしも輪花のこと好きだったんだ。この子の為なら何でもできる、この子を否定するのはあーしが許さない。そういうのは全部自分と似ているからだと思ってた。でもそれは半分合ってて半分違っていたんだ。
愛していたから、そう思えたんだ。
でも気づくのも言うのも遅すぎたのよね、あーし達。余計にサヨナラをするのが苦しくなって、もっと胸が張り裂けそうな気分になっちゃったわ。
でもそうよね、それだけ好きだった輪花がそう望むなら仕方のないことよね。きっとこの子はこの子なりの覚悟をしているに違いない。それならあーしもその思いに応えなくちゃ。覚悟して前に進まなくちゃ。
「あーしもアンタのこと愛しているわよ。今でも、そしてこれからも。あ、それとこれ。」
この時期になると毎年持ってくるグレーのカーディガン。時が流れて血の染みもやっと落ちて元通りに戻った。だからといって着ようとは思わないけど、これは輪花との最期の思い出だし、唯一の物質的な繋がりだったから処分するにもできなかった。でももういらない。前に進むためにはきっともう必要はないから。
「これ、アンタ…というか、輪くんにあげるね。捨てるには忍びないし、アンタはもう着ることはないとしてもこの子が着てくれるかもしれないしね。」
「ありがとう、きっとこの子も喜ぶよ。」
不思議。さっきまであれだけ悲しい気分だったのに今ではもうむしろ清々しいぐらいの気分。
きっとあと少ししたら今度こそ輪花とはさよなら。でももうあーしは止めないし止まらない。これからはまた前を向いて歩いて行こうって、そう決めたから。
懐かしいカーディガン。あの時、少し寒かったけど我慢していた僕に渡してくれた思い出。
サイズは大きかったけどとても暖かかったことを今でも憶えている。
結局僕の手から直接返すことはなかったけどまさか最期には貰えることになるなんてね。嬉しいような少し申し訳ないような…。
…!
自分がこの肉体から徐々に離れ出しているのを感じる。この感覚は久しぶりだ。ふわっとして軽く、まるであの雲と混ざり合って溶けていくような気分。そろそろお開きのようだ。
意識がだんだんと遠のく。自分という存在が曖昧になっていくのを感じる。
「りん…たろ…そろそろ……」
「ええ、わかったわ。」
君はそうやってまた涙をためて。いつからそんなに泣き虫になったのだろうか。いや、違うか。
君は僕の前でずっと強がってくれていたんだったね。僕が心配しないように。でも今になって思えば君のことをもっと心配したかったな…なんて。
ああ、もうかんがえることもできなくなってきた。きょうもそらはあおい。
…?だれかにだきしめられている…?あったかいな。
「じゃあね、輪花。またどこかで会いましょ。」
「う…ん…。」
じゃあ…ね、また
ありがとう。ぼくのあいしたひと。
「おねーさん、なんで泣いているの?」
潤む視界に映る少年はもう“彼”ではなく、ただの子供だった。“輪”という顔立ちの整った少年だった。
涙をハンカチで拭い、先ほどのように目線を合わせる。目の周りが紅く染まっているがしっかりと笑ってみせた。
「ごめんね、ビックリしたかな?あーしは倫太郎。こう見えて肉体は男なのよ。アンタのお父さんとは知り合いなの。よろしくね。」
後ろ髪を少しかきあげ、年上アピールをする倫太郎。輪は少し不思議そうな目をしたがすぐに無邪気な笑顔で返した。
「うん!よろしく!ぼくはね、輪って言うの!パパとママの“大事な人”の名前の一部から取ったんだって!」
「そっか。」倫太郎は少し眉を下げて微笑む。“大事な人”の顔を思い浮かべながら。
「ねぇ輪くん。輪くんは自分の名前、好き?」
倫太郎がそう尋ねると輪はまた大きな笑顔を見せた。
「うん!大好きだよ!ぼくはこの名前が大好きっ!」
「そう、なら良かった。あーしもその名前素敵だと思うから大事にするのよ。」
頭を撫でながら優しく微笑む倫太郎。
輪が「うんーっ!」と快活に返事をしていると彼の後ろから「りんーっ!」と彼を呼ぶ両親の声が聞こえる。
「ほら、パパとママが呼んでるわよ。早く行きなさい。」
「うんー!またね、りんたろーおねーちゃん!」
倫太郎は「はいはい。」と少しめんどくさそうながらも嬉しそうに、何度も振り返っては大きく手を振る輪に手を振り返して見えなくなるまで見送った。
辺りが再び静寂になり、少し冷たく心地良い風が頬をなぞる。季節がそろそろ夏から秋に変わり、衣替えの季節ね、なんてことを考えながら倫太郎もその場を後にする。
ふと空を見上げるとあれだけ青かった空が少し橙色に染まり、日が暮れ始めだすことを告げた。
「今日はちょっと奮発してお鍋でも作ろうかしら。お母さんの分もまぁ、一応用意しておきましょ。」
そんなひとり言を話しながらまた日常へと戻ってゆく倫太郎。
彼女を後押しするかのようにそよ風がそっと頬を撫でた。
読んでくださりありがとうございました。
詳しい事は言いませんがこのお話のように性の不一致があるだけで軽蔑や疎遠になるような世界が変わってほしいと思います。
また、今のところifの世界の短編も書いてみたいとは思いますがそこら辺はまだ未定です。