第119回 菊池槍 日本式・槍戦法の起源
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菊池槍
菊池槍穂
菊池千本槍
この槍が生まれたのは筑紫国と呼ばれる、現在の九州の北部、福岡県の西側部分であり。現在の熊本県になる肥後国を中心に作られていた槍です。
文献によって、この槍を作った人の名前が多少変わってきますが、肥後国にある菊池氏の一族が深くかかわってきます。
菊池槍の呼び方の1つでもある「菊池千本槍」は菊池家の勇猛や勇敢さを称える言葉でもあったりします。
菊池氏が合戦に挑む際に、短刀を竹や樫の棒の先端に括りつけて即席の槍というか薙刀のように仕立て上げました。
実際に合戦となった場合に思いのほか強力な効果があったため、後に肥後国の刀鍛冶にこの即席の槍を元にした武器を作らせるようになりました。
これが菊池槍の始まりです。
短刀を先端としたため、刺すだけでなく斬りつける動かし方もできました。薙刀のような長い刃をもっていなかったため、結果的に刺突優先の扱いやすい形状に仕上がったと言えます。
菊池槍は記録に残る限り、1336年に製造がはじまり、1568年頃まで使われていたとされています。
長さ2~2.5メートル、重さ1.5~2キログラム程度の取り回しの良い槍です。
今回はこの勇敢さの代名詞にもなっている菊池槍を見て行きましょう。
◇
~歴史~
さて、まずは冒頭でも述べた歴史や語り継がれた内容をもう少し掘り下げてましょう
筆者のピーターはこれを作ったのは菊池氏15第当主の菊池武光だと思っていたのですが、世間での主力な説はどうやら違っていたようです。
菊池氏13第当主の菊池武重が菊池槍の原点を作ったとする説が有力のようです。
時は1335年と過去のお話し、しばしお付き合いをお願いいたします。
菊池武重率いる軍は約1000名、対するは足利直義の率いる兵約3000名と戦力にして3倍もの差がついた相手と戦わなければならなくなっておりました。
しかも、菊池軍と足利軍はこの時点で何度か刃を交えており、薙刀は折れ、弓は痛み、矢は尽きかけるという敗走は時間の問題と思われる程に追い詰められておりました。
菊池軍は満身創痍、物資や人員だけでなく、士気の面でも何一つ相手より劣っている菊池軍は敗北が目前に迫る危機的な状況でした。
少なくとも武器を調達しなければ確実に負けてしまうと考えた菊池武重は、竹林から6尺以上の竹を多数切らせて用意させます。
そして、用意した竹の先端に兵士のそれぞれが腰に差していた短刀を括りつけるように命じます。
この時代にこうした形状の槍の存在はほぼ無く、戦場で活用されるのも突いて使うよりも振って使う薙刀の武器の方が多かったようで、即席とは言えどもこれまでの常識を覆す新兵器が登場した瞬間でした。
竹と短刀の即席槍を菊池武重は単騎ではなく複数でまとまって運用させたとする説もあり、足利軍は見たこともない新兵器と相対した事もない戦法により大いに苦戦を強いられます。
ここで負ければ後が無い菊池軍と、勝利を確信して油断をしていた足利軍、菊池軍の咄嗟に繰り出した即席武器に対応することが出来なかった足利軍は、決死の戦いをする菊池軍に徐々に押し返され、ついには足利軍を押し返す事に成功しました。
この出来事から劣勢の側が創意工夫で勝利をもぎ取った事実、菊池氏の勇猛さや諦めないという屈さぬ心などから「菊池千本槍」の逸話や言葉が生まれ、軍の精神的な支えの1つとなっていきました。
ちなみにこの戦いが、集団で用いる槍の威力が日本で証明された瞬間にもなりました。
短刀を括りつけた武器が非常に強力だったため、専門に仕立て直した穂先を用いた槍が使われるようになり、これを菊池槍と呼ぶようになりました。
時は進み1359年7月、菊池氏は第15代当主の菊池武光は懐良親王を擁し筑後国に進軍、少弐軍へと戦いを挑みました。
対する少弐軍は筑後川へと軍を進め、菊池軍を迎え撃ちます。
菊池軍約4万、少弐軍約6万という九州最大の戦いとも言える筑後川の戦いの火蓋が切って落とされました。
結果的にこの戦い、やはりというべきか菊池軍が勝利しております。
年代や地域的、そして菊池槍が肥後国を中心に製造や使用されていた事を考えると、この筑後川の戦いにも菊池槍が投入されていたとみる事ができます。
筑後川の戦いの勝利から、懐良親王と菊池武光による九州支配の体制の確立に至った背景には菊池槍の存在が見えていますね。
◇
~武器として~
菊池槍にはこの逸話の通り、短刀を模した穂先が取り付けられており、その特徴は直刀の短刀をそのまま引き継いで製造されています。
穂先は6寸と9寸の2種類があったとされており、どちらを持つかによって兵の階級というか質や立ち位置も判別できたとも言われています。
隊長的なまとめ役となる人物の持つ穂先は9寸の方だったみたいですね。
菊池槍様式の穂先もいくつか種類があったようで、インターネットなどで検索すると本当に短刀その物となっており、柄の部分には日本刀のように紐で締上げてある物まで存在しています。
直刀の刀身の刃の部分は6センチ程度という小さい物もあり、根元付近には背にそって走るような溝が刻まれているものもあります。
突き刺した時には根元側の刃が無くても先端は突き込めますし、この溝がある事で刺した時に相手の体から抜けなくなるという事態も防ぐことができそうです。
刀身にも厚みがあり、溝も力を受け止める作用があったと考えると、この槍は折れたり曲がったりしにくい形状になっていると考えられます。
中には鎧通しを槍にしたものもあったため、槍の得意とする強力な突攻撃との相性も非常に高くなっていました。
突き込むための短刀と、しなりのある竹というのも相性がよかったのでしょう。
全体重をかけて押し込む上に竹のしなりが刺さった後も刃を押し込む動きをしてくれます。
威力は抜群に高く、薄い鎧であれば鎧の上からでも致命傷を与えたことでしょう。
当然、薙刀や剣などよりもこの即席槍のほうが間合いは広く、振って扱う攻撃よりも突いて行う攻撃の方が早いため、間合いでも速さでも相手より優位に立ちまわる事ができました。
菊池槍と薙刀で考えると武器としての性質は間合いで優れる菊池槍と人間を両断できる威力に優れる薙刀の対決になります。
ですが、薙刀は両隣りの人間と密着しては使えません。
両隣りに密着されると腕や体を振ることができず、斬撃という薙刀最強の攻撃の威力が低下してしてしまいます。
つまり、局地的に見ると、密集して戦える槍と散兵にならざるを得ない薙刀となるため、戦場では槍に軍配が上がる事になります。
菊池軍の3倍の兵を要する足利軍を撃破できた理由も納得できますね。
こうして無類の強さを発揮した菊池槍は日本の槍の起源ともされるように広まっていきました
肥後国には菊池槍の穂先となる短刀のような刃物を専門に製造する鍛冶屋もおかれたほどです。
徐々に両刃で笹の葉のような、より槍として磨き上げられた槍の穂先が広まるにつれて、菊池槍の穂先は使われなくなっていきました。
使われなくなった穂先は打ち直され、短刀に作り替えられて、戦場に赴く者達の腰へと納まっていきました。
中には、竹の先に付けられた短刀であった物が何度も打ち直され、数百年を越え、再び短刀へと還ってきた物があったかもしれません。
不屈の心!
諦めないという心が逆境を覆すばかりか、戦いのあり方さえも変えてしまう結果をもたらせました。
本文の最後でも触れましたが、沢山あった菊池槍は打ち直しされて別の武器に生まれ変わる事が多かったため、現存している物は本当に貴重です。