落掌
どうやって帰ってきたのかも分からない。気付いたら自室の扉の前だった。冷水を浴びせられたように突然意識がはっきりとして、見慣れたドアノブに手をかけたまま突っ立っていると分かった。何故。混乱したままそれを捻っても扉は開かなかった。そうだ。唐突に思い出した。鍵を探していたんだった。ポケットに左手が入っていた理由を思い出す。手首にぶら下がる紙袋の持ち手が痛い程食い込んでいる。早くこれを開けなければいけないんだった。いや、と意識の更に下で何かが拒む。開けたくない。でも今更、返しになんて、それもあの部屋へ――。
――あの、部屋。
氷を差し込まれたような恐怖が背骨を刺した。そうだ。そうだった。あの部屋。あの言葉。
急がなきゃ。
左手でポケットを探るものの、鍵が見つからない。震えだした手で念入りにまさぐる。ない。右ポケットにも手を突っ込む。掻き回す。冷たい音が小さく聞こえた。早く、早く。気ばかりが急く。もう一度。出てこない。金属の触れ合う音がする。もう一度。三度目の右ポケットの、一番底に冷たい金属の感触を見つけて、取り出したまではいいもののどうにも上手く嵌らない。がたがたと鼓膜に直に触れるような騒音を立てて、どうにか差し込んだそれが今度は抜けない。がちゃがちゃと上下に揺らしながら抜き取る。乱暴に扉を開け、閉める。内側から鍵をかけた頃には完全に息が上がって、それでも緊張は抜けたのか、扉に背中を預けた途端、へなへなとその場に座り込んでしまった。尻に、内腿に、硬い土間の感触。見慣れたはずの私の部屋が異常に歪んで見えた。蒼い。曇天を透かした薄明かりが室内を照らし、何もかもがその不健康な色に染められている。怖いくらいに暴力的な、どこまでも静かな蒼。
荒く。荒く息をつく。
脇に抱えたままの紙袋ががしゃりと鳴った。あからさまに冷気を含んでいるそれは私の脇腹を容赦なく冷やした。ぶるりと体が震える。そのうち吐く息までが冷気を帯びそうで、ゆっくりと体から離した。かといって床に置くことも、それもできなかった。目の前、昨日脱いだままのスニーカー。その揃ったつま先の上に紙袋を預ける。中に詰めたビニール袋の端が紙袋の口から飛び出していた。どくんと心臓が跳ねる。触れたい。触れなきゃならない。でも、触れたくない。怖い。痛いほどに鳴り続ける心臓。几帳面な四角い袋。ありふれた書店のロゴが印刷されたそれ越しに、私ははっきりとその中身を見ていた。そうだ。私が、この手で、詰めた――。
ひゅっ、と息を吸い込む。ケイの部屋で吸い込んだ空気が、肺の奥にべったりと錆び付いていた。念入りに息を吐く。いくらかマシになったような気もする。それでも心臓は、未だ肋骨を砕かんばかりに暴れていた。嫌でもケイのことを思い出す。ケイの目を閉じた顔を思い出す。僅かに開いた唇、温かく湿った息。至近距離のそれがうっすらと目を開けて、濡れた瞳で私を見つめている。少しだけ、優しい顔をする。
――ヒカリ。
慈しむように、宥めるように、私を呼ぶ。手首につけていたのは私があげた腕時計。それをゆっくりと外す。それから眼鏡をかける。これからすることには邪魔だと思うのに、ケイは気にならないと言う。それより、ヒカリをちゃんと見られない方が気になって落ち着かないよ、と笑う。ちゃんと見ていたいんだ、ヒカリの可愛いところ。明かりを落とした暗い部屋。ほんの僅かに煌く月光。密着した下腹部にケイの熱が当たっている。ケイはともすると怯えてしまいそうになる程背が高かった。そんな大きな体で、子供のように甘えた。
ヒカリがいるとさあ。本当に部屋が明るくなったような気がするんだよ。本当に。
ケイはそう言ってふにゃりと笑う。子供を相手にするように少し身を屈めて、私の肩にゆっくりと額を乗せる。あったかいなあ、と呟く声は寂しげで、その度に私はケイの痛いほど丸まった背を撫で、硬く突き刺さる髪を梳いた。触れたところからケイの心細さが滲んでくるような気がした。そういう時に泣くのはいつだって私だった。ケイは、泣かなかった。私は泣くほど壊れていて、ケイは泣けなくなるほど壊れていた。ずっと、私たちは壊れた二人だった。不器用で、脆くて。そういう互いを、骨の髄まで愛していた。今、ケイは隣にいない。残されたのは、紙袋に横たえた冷たい置き土産だけ。
……分からない。
土間の冷たさが滲んでゆく。これが不安なのか恐れなのか、自分の状態をどう言い表していいか分からなかった。無造作に投げ出されたような感覚。昂ぶりにも似た熱だけが輪郭を持って燻っている。蟠るそれが私を急かす。早く、早く、早く。疲弊しきった体が言うことを聞かないでいるのを、破裂しそうな心臓の音が苛む。ぼんやりと見遣った先で、紙袋を乗せたスニーカーがぺしゃんこに潰れていた。途端に、電流のような恐怖が走る。
靴の上なんて、そんなところに置いちゃいけないものなのに。
体に上手く力が入らない。早く、早く。のろのろと紙袋を持ち上げて玄関マットの上へ置いた。がん、と硬い音を立てて中の氷が鳴る。一拍遅れてしゃらりと水音がした。氷を冷蔵庫から出して、それから一体どのくらいの時間が経ったのだろう。ほんの数分が無限に分割されて過ぎていったような、アンバランスな時の流れ方。歪んでいるんだ、時間も。この蒼さのせいで。もう何もかもがおかしくなっている。
ゆっくりと、前のめりに傾ぐように重心をずらして、そっと玄関マットの上に乗り上げる。荒く、しかし緩慢に足を揺らして靴を脱ぎ捨てる。ヒールが床にぶつかって音を立てる。ケイはこれを嫌がった。一応後から揃えるのを、いつも困ったような笑顔で見下ろしていた。でも、ここにはケイがいない。靴をどう脱ごうが構わない。私はひとりで、ケイはさっき、部屋に残してきた。私は、ひとりになった。
ひとりだなんて、もう、何年ぶりだろう。
ケイとは大学からの付き合いだった。
ダンスサークルの先輩と後輩という関係が、何かの拍子に変質してこうなった。先輩だったケイの一目惚れから始まって、次第に私も惹かれていった。眠たげな目で微笑む、勿体ないくらい綺麗な人だった。今だってそうだ。私には勿体ないくらい綺麗で、きっと世界で一番、私を愛してくれた人。ケイはいつも私の一番だった。一番私を傷つけたし、一番私の傷をいたわった。一番私を頼ってくれて、一番私のことを知っている。これを依存というのなら、それでも構わなかった。私はケイが大好きだった。そのはずだった。
あの日初めて見たケイの左腕は、ダンサーらしくしなやかながらも逞しい筋肉がついていて、そして恐ろしいくらいに傷だらけだった。
肘から手首までの間は右より一回り太く、網を巻きつけたように沢山の傷で覆われている。見るだけで痛い気がした。そんなことはしてほしくないと思った。それでも、あなたが痛いのは嫌だと、私は言えなかった。痛みを伴ってでも選び取るしかなかったケイの生き方を、暴力的に否定してしまうようで怖かった。だから、その痛みを少し分けて、と。結局そういう言葉に押し込めた。ケイは拒まなかった。他人の痛みを自分の痛みにできるほど、ケイという人の容量は残っていなかった。自らを生きることに必死だった。私を殴るようになってもケイの傷は増えていった。ただ、その痛みの百分の一でも千分の一でも、分かった気になりたかった。分かっているのだと思ってほしかった。その瞬間だけ私とケイは繋がっていた。私を殴り、ケイを切りつける、その手を通じて。
ああ。あの手。
紙袋の中身が私を呼んでいた。早く。体はほとんど応じない。本当ならこのまま倒れこんで眠ってしまいたいくらい疲れきっている。ただ、体の痛みはないのが救いだった。唯一膝だけが鈍く軋んでいる。サークルで怪我をしたことのある膝が痛むのは、単に雨が近いせいだ。蒼い光だけが差し込む部屋。水たまりの色なのかもしれない、とふと思う。帰り道には曇り空が重くのしかかっていた。そんな時はいつも、右の膝がしくしくと痛む。
私とケイがいたのはコンテンポラリーダンスのサークルだった。背の高いケイは繊細な動きが得意で、舞台によく映えた。私も決して下手ではなかったけれど、実際に動くよりも舞台を作る方が得意だった。それでも踊ることは好きだった。ありったけの筋肉と神経と精神とで何かを表現するのは面白かった。全身に意識を張り巡らせながらも体は勝手に動いてゆく。そうして別々のことを考えて踊っているはずの人々が、同時に息を吸い、吐く瞬間。その、ほんの一瞬の共鳴が、心の底を熱い手で鷲掴むように私を感動させた。触れていなくても人は繋がれるのだと、そう教えてくれるような気がした。
三年の夏、コンクールに出す作品をケイと二人で作った。風と、それに乗って舞う木の葉になって私たちは踊った。回り、飛び跳ね、揺れながら落ちていく。振り付けを考えたのは私だった。入賞も狙えると言われていたその練習中に、見せ場のリフトで私たちは失敗した。持ち上げられるはずの私は体勢を崩してそのまま落ちた。幸いにもケイは左の手首を軽く捻っただけで済んだ。私は右膝から床に叩きつけられて、そこへメスを入れる事態にまでなった。危うく歩行困難になるところだったと、術後の傷跡を確認しながら医師は私に教えてくれた。私は舞台に立てなくなった。誰か代役を立てて出場しろという四年生の中で、ケイはどうしても首を縦に振らなかった。あれはヒカリと俺のためにあるんだ。他の人間と踊るつもりはない。最後までそう言い張って、結局コンクールには欠場した。
あの時、失敗したのは私だった。
ケイの手は確かに私を支えようとしていた。それでもバランスを失ったのは私だった。あの瞬間、私は明らかに、傷だらけのケイの腕に怯えていた。
雷鳴が遥か遠く、微かに地面を揺らす。
傷のある方の腕とさ、とケイはいつか私に言った。傷のある方の腕と、傷のない方の腕、どっちが怖いかって訊くんだよ。仲のいい友達とか、その時々の彼女とか。でもみんな揃って傷のある腕の方が怖いって言うんだ。ヒカリはどっちか怖い?
まるで試されているかのようだった。傷のある腕、と言おうとして、両方、と答えた。ケイは優しく笑った。それはずるいな。ちょっとずるい。でも、傷のある方って答えより三倍くらい好きだな。そして徐に私の頭を撫でた。傷のある左腕を持ち上げて。
正直な人にはどっちもあげる。そう言って抱き寄せて、左手を私の背に、右手を私の腰に当てた。
今は、左手の方が好き。
それを聞いて、ケイは笑いながら右手をどけてキスをした。じゃあ、左だけ。
あの時のケイは泣きたくなるくらい優しかった。丁寧に私の輪郭をなぞり、擽っていく。深爪した指先の、その僅かな段差さえ私の体には引っかからなかった。ケイが優しいだけで終わった夜はあの一度きりだった。他の、それ以外の全ての夜は、そうはいかなかった。ケイの左手はいつだって優しかった。私とケイが深くで繋がっている時、左手は私をあやし、慈しみながら、右手はいつも、私の喉首を押さえつけていた。私を殴りつける拳になるのも、いつも右手だった。そうしている最中にケイの左手は、同じくらいに固く握りしめた拳で、自分自身の胸を何度も上下になぞっていた。凍えた体を温めるかのように、ぐずる子供をあやすように、何度も、何度も。
そうだ、ケイのこと。騒がしい心音。早く。早く。早く。
目の前の紙袋には小さなビニール袋をいくつも入れてあった。彼の家の冷蔵庫に入っていた氷のありったけを詰めて、少し水を足してきつく口を縛って、隙間なく並べた。タオルに包んで袋へ入れたそれを、ぴったりと包み込むように。
一番上の袋をつまみ上げて、しゃらしゃらと冷たい音を立てるそれを玄関マットの上へ並べていく。ひとつ退ける度に、中央に置かれたそれに近付くのだと思うと心臓の音が鼓膜を内側から叩くようで騒がしい。退けた蒼い袋の下に白いものが見えて、ひゅっと息を止めた。これが。濡れた床に無造作に落ちていた、あの。
ケイの。
冷水の染み込んでくるような恐怖。
そうだ。私はケイを残してきたのだった。物盗りのように、自分に必要なものだけを拾い上げて、怯えて逃げ帰ってきた。きっと私のことを恨んでいる。ケイを助けられなかった私を。その痛みの千分の一も負うことのできなかった私を。ひとつだけ真っ白なその袋。ケイは自分の痛みを切り離そうとしたのだ。私に与えようとしたのだ。私がそうしてと言ったから。
――少し分けて。ケイが苦しいなら、その、ほんの一部でも。
そんなわけがない。できるはずがない。
ケイは分かっていたはずだった。自分の痛みを他人に与えるなんて、そんなこと、できない。例えどんなに願ったって、どんなに私自身を痛みの中へ沈めたって、それは新しい痛みにすぎない。割って半分どころか、ただ倍に膨れ上がっただけで。そしてケイはただ、私を傷つけた痛みを新たに抱え込むだけだった。本当は誰も救われない。私だって分かっていた。分かっていて、やめなかった。善人の振りをしてケイの暴力を受け入れて、自己嫌悪に寂しく笑うケイの頭を抱いて。その実私は、ただ私だけを愛してほしかった、それだけだった。ほら見て、あなたの棘に触れられるのは私だけ。そう、ケイに見せつけたかった、それだけだった。ケイを苦しめたのは私だ。私がケイを殺したのだ。
ケイは、きっとケイは、私を恨んでいる。ケイは、私に、絶対的な苦しみを与えたくて、こんな、ことをしたのかもしれない。
いいや。そんなはずがない。そんなはずが。
でも、だって、ケイは。ケイが残したものは。
幼稚園生の書いたような、下手くそな字の手紙。沢山の血痕に囲まれた、赤錆の色をした文字。
「 光へ
左と右、まちがえてごめん。
左も、もっていっていいからね。
苦しいおもいをさせてごめん。
光のこと、
わすれないで 」
光のこと、なんだったんだろう。何を、忘れずにいればいいんだろう。
今まではただ訊けばよかった。あのお手紙、どういうことなの。ケイは優しく笑って教えてくれた。今は。今、ケイは、あの浴槽の中で。赤く、ざらついた、ぬるいぬるい水の中で。忘れないでと言い残したのが私宛ての言葉なら、忘れない。忘れられるわけがない。蒼いフレームの眼鏡。その下で眠るように閉じた目、まばらに長い睫毛、僅かに開いた唇。肌色の絵の具を塗り重ねたような頬。淡い髭のあと。顎の下の剃刀負け。何度も触れた喉仏。くっきりと浮いた鎖骨。たっぷり水を含んで張り付いた紺色のワイシャツ。ケイは服を着たままぬるま湯に浸かっていた。体を隠したかったのだと思う。ケイは自分の体を、その傷を、滅多に晒そうとはしなかった。私とつながる時でさえケイは、最後の最後まで服を脱ごうとはしなかった。きっと恥じていたのだろう。そんな必要はないと私はいつも思いながら、ケイに言うことは遂になかった。恥じることは行為ではなく現象だと誰かが言った。恥じるなと言われて恥じずにいられるなら、きっと、ケイの傷は増えなかった。私がいなければ、出会わなければ、ケイは、もっと幸せな、もっと静かな終わりを、迎えたのかもしれない。私がいたせいで。私がこんなところにいたせいで。
ああ。
生まれなければよかった。
叫び出しそうになるのを喉元で押し留める。生まれなければよかった。こんな私なんて。こんな私、なんて。
ケイは手首を切って死んだ。あの部屋で、たったひとりで死んでいった。もう二度と私を見ない。誰もケイの痛みに寄り添わない。誰も私を殴らない。蹴らない。叩かない。首も絞めない。触れてくれない。もたれかかってくれない。踊ってくれない。手を差し伸べてくれない。私はひとりになった。ケイを永遠にひとりぼっちにした。苦しめた。苦しませた。私がケイを殺した。
殺した。
冷たい。結び目が緩んでいたらしい。いつの間にか溢れた氷水が玄関マットに染み込んで、左の脛を濡らし始めた。冷たい。ストッキングなど何の足しにもならない。手が、足が、じわじわと冷水に浸されていって、背筋が震えて。もう、こんなの、嫌。
ひとりにしないで。
白い袋を引っ掴んで取り出す、結びを解く。冷たい。指先が滑る。早く。引きちぎるように開ける。白かったタオルは泥のような色にまみれて所々ぐじゅりと濡れている。巻きつけられたタオルを取っていく。汚れはどんどん広がって吐き気を呼ぶ臭いがしてきて、ほとんど赤一面になったタオルの下から。
右手。
右手。血まみれ。傷一つない。右手。ケイの。何度も私を。殴った。切り離された。左手のない。右手。死んでいる。死んだ右手。壊れて動かない、冷たい、ケイの。私の手の上。脱力した。右手が。
ころりと転がった。
気付いたら叫んでいた。それを押し殺して、取り落としかけたそれを両手で掴んで、掌に人の手の、肉と骨とが軋んで、また叫びそうになって声が出なくて、タオルを持ち直してそれに包んで。目を閉じて。息を吸って、吐いて。震える手で、タオル越しの輪郭を確かめる。もう驚かない。私が持っているのは、ケイの、切り落とされた、右手。
タオルを開く。もう驚かなかった。
血にまみれた、小さな傷さえない右手。
ケイが昔訊いた。傷のある方の手と、傷のない方の手、どっちの方が怖い? 私は両方と答えて、ちょっとずるいなと笑われた。それからケイは言った。
傷のある手の方が怖い人って、多分、考えたことないんだよ。自分で自分に傷をつけようだなんて、思ったこともないんだと思う。普通、傷害事件とかだったら、被害者より加害者の方を怖がるはずなのに。みんなはさ、多分気付いてないんだよ。この無傷な右手の方が、加害者なんだって。左手は、何も悪くないんだ。悪くないのにただ傷つけられて、血を流した、かわいそうな被害者。
なのに、ね。
普通の腕と見た目が違うから。苦しみの痕を残しているから、それで、苦しみを思い出させるものだから。それに、俺が狂ってるってことの証だから。だから、左手を見ると怖がるんだと思うな。うん。……でもさあ。だって、本当に狂ってるのは、本当に怖いのは、違うじゃん。むしろ、普通の見た目をしたまま平気で左手を傷つける、右手なんじゃないかなあ。そっちの方が、本当に怖いって感じがするよ。まあ、俺は、だけどさ。
かつてのケイの言葉は、洪水のような濁流になって私の表裏を揺さぶった。ケイの右手は傷つける手。ケイの左手は傷つけられる手。私の手の上には、ケイが残した右手がある。まだ生きて動きそうな気さえするような、美しくも冷え切った、ケイの蒼褪めた右手。しわも、淡い体毛も、深爪気味の指先も、手の甲にある二つのほくろの位置も。いつもと変わらない。もう、ケイが傷つけられることはない。右手は切り落とされたし、ケイは死んでしまった。私を許しも罰しもせずに、ひとりで勝手に手首を切り落として、湯船にいっぱいの湯を血に染めて死んだ。そこから私は逃げ出した。残された右手を抱えて。冷え切った手の、甲にそっと触れた。血まみれの肌同士がべたりとついて、離すと指紋がくっきり残っていた。指の腹が薄く剥がれて張り付いたようだった。
どっちの手が欲しい、とケイは毎日のように訊いた。右手なら暴力。左手ならセックス。両手はおあずけ、何もない。そんなことを言って笑った。何故そうだったのだろう。どちらが言いだしたのかも覚えていない。ひとつだけ確かなのは、ケイがそれをルールだと思っていなかったこと。それだけだ。ふざけて言いたくなっただけなのかもしれない。そもそも、左手と右手はいつだってセットだった。
ケイは両利きだった。右手でも左手でも、切り落とすことはできたはずだ。
左手が欲しいと言った覚えもない。あの拙い手紙がなんだったのか、それを知っているケイはもういない。ただとにかく、残されたのは右手だった。ケイはあの手紙を、自分の血で書いたのだろう。赤錆色をまとったつけペンが転がっていた。意識の薄れる中で書いたのかもしれなかった。未完の文も、最後の一文も、消えかける意識と戦いながら書いていたのかもしれない。最後の最後まで。傷だらけの左手で。私に宛てて。手紙を。
ケイ。眠たげな目、あの笑顔。
痛いほどの心拍。冷え切った蒼白い右手に、そっと自分の右手を重ねる。体ががたがたと震えるのに涙は一滴も出てこない。かつてケイの一部だったもの。置き去られたもの。ひとりぼっちのもの。あまりにも普通で、あまりにも見慣れた。あまりにも触れ過ぎた。怖くなるくらい何の力も生じない、それでいて今にも動き出しそうなくらい、生々しい。まるで。それはまるで。生きているかのような。
いつも私の首を絞めてくれた大好きなケイの右手。
首に当てた。
あまりにも異常な感触に小さく悲鳴が零れる。全身に鳥肌が立って、痺れにも似た震えが体の自由を奪う。吐き気すら感じながら、両手を右手に添えて、ぎゅっと首に押し付けた。ケイはよくこうしていた。こうして、私の首を絞めて、別の場所へ連れて行ってくれた。ケイのいる頂きへ。
死ぬかもしれない。上向いた視界に無機質な白い天井が映る。ケイとつながる時にいつも見上げていた天井。ぎゅっと目を閉じる。両手に力を込める。冷え切っていた右手が少しずつ温かくなっていく。
動いて。私を連れていって。
怖い。死にたくない。ひとりで死にたくない。
動いて。動いてよ。お願い。動いて。
嫌、死にたくない。許して。お願い許して、殺さないで。
動いて。連れていって。私も。
怖い。怖いのは、嫌。ひとりにしないで。お願い。
連れていって。
会いたい。
殺して。
死にたくない。
ケイ。
待って、
ケイ、
――。
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右手は、少しも動かなかった。
ほぼ完全に私の体温と馴染んだ右手は、首と両手に挟まれたまま、ぴくりとも動かなかった。ケイから切り離された右手は、動かなくなった。ケイは、いなくなった。間違っていた。残されたのは私だけだった。私を傷つける右手も、私を愛した左手も、ケイの全ては、私のもとから遠く離れて、もう、帰ってこない。
「……なんで」
両手を離せないまま、ぽろりと言葉が落ちた。瞬きをした。ねっとりと重い涙が溢れて。
「なんで」
零れ落ちた。液体は両手の上へ流れ落ち。
「ねえ」
その隙間を縫って掌を濡らす。
「なんでなのよ!!」
遠雷。大粒の重たい雨が音を立てて降り始めた。
右手は死んだように沈黙している。