伝わらないこと――毒草を見て思う
人は悪いことから覚えるものだと、私は思っている。
あるいは、伝えたいことはいつも空回りして、どんなに言葉を贈っても、伝えたいことは5割も伝わっていないんじゃないか。とすら思える時がある。
わかりやすい例えを出すなら、太宰治の作品【海】が良いだろうと思う。
そもそもが短いものだが、あえて、まとめれば――
太宰の三鷹の家が空襲でなくなり、妻の親類が暮らす疎開先の甲府で、またしても空襲で焼け出され、いよいよ親類のいる故郷・青森に帰るしかない。と、その道すがら子どもたちに自身が初めて見た時、感動した海を見せてやろう――と、指し示せば子供はトンチンカンな受け取り方をして、妻すらも大して関心を示さず生返事のまま船をこぐ。それに対して、作者……"私"は、ふてくされながら黄昏れる。
――そんな話。
これを読んで思うは、何時の時代も人間なんてものは、興味がなければ、周りがどれだけ騒いでも、見せようとしても、体験させようとしても無駄なのだろう。
実際、周囲の子供・少年少女・青年……皆が皆、自身の利益というモノが関わらない限りは、よっぽどの興味を抱かない限りは進んで何かを体験しよう。見てみよう。などと行動しているのを見た覚えはない。
むしろ、教科書に書かれている様な、濃縮されたキレイなものというのには魅力を感じず、むしろ悪い事とされるものに強く興味をいだいたものだ。
ある程度人生を体験したものが、煙草・酒・盛り場・性……この社会で、生きるには役に立たないから、と――のけておきたいもの、隠しておきたいもの、反対したいもの……。
先に興味を抱くのは、そんなものばかりだ。
しかし、体験した者がいくら訴えようとも、花を咲かせた時は白く美しく。春になれば、薄い紫色と濃い紫色おどろおどろしい色彩となるクリスマスローズ。学名:ヘレボルス(殺す・食べ物)が……クリスマスの時期には美しいと惹かれてしまう様に、華やかで魅力的なものに惹かれやすい時期には、何を言っても無駄なのだろう。
ならば、教えるべきものというのは、なんなのか……。
他人が教えるだろう。キレイなものはさておき。毒物、危険物を体験させる方向から入るのが、親・親戚と言う関係である近しい者達の役割なのではないだろうか?
「危険なものほど、最初は魅力的で美しく見えるものなのですよ」――と。
そんなコトを思いながら、自然界で生み出される人にとって危険物を眺めていた。
薬用植物園にてのひととき。
変な考え方かもしれないが、周りは当たり障りのないモノを教えるのだから、責任がある大人、親しい者は、危険物がなんなのかと、教えるのが筋なんじゃないか。
――というのが、趣旨でした。
でも、親ほど当たり障りのないモノから教えようとするような気がするんだよなぁ……。矛盾。
人の関係って難しいなぁ。ワカラナイなぁ……。