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三人組踊 -王師の螺鈿-

作者: 葛柴 桂


 それは、かつてリウクーを揺るがしたオヤケアカハチの乱から二百年ほど後のこと。すなわち、後の世ではジュゥハッセー紀と呼ばれる頃のことであった。

 南海に浮かぶ島々を束ねるリウクー王国は、大陸のシンと北のヤマト、二つの国との甘くひりつく駆け引きに身を踊らせつつ、繁栄の蕾を開花させていった。

 王朝の根城・シュリ城の一室では、今日も一人の中年男が恭しく頭を垂れていた。完璧な楕円を描く特徴的なハチマチを頭に載せて、着物にきりり、と美しい大帯を締めて。だが、その僅かにかがめた背中には、ほんの少しだけ疲れたような影がある。その俯けた顔を覗き込めば、眉間に深いしわが刻まれているのも見えただろう。

 ピイヨー……、と何百年の時を経ても変わらない鳥の声が天から降ってくる。そんな、のどかなシュリ城の午後のことであった。


蔡温(さいおん)。あの人を連れてきたのだよ」

 どこか夏の酒気に浮かされたような声に、中年男──蔡温はしぶしぶ頭を上げる。不機嫌な視線を迎えるのは、甘く潤んだ少年の瞳であった。その輝きといったら、周りにひしめく豪華な調度品の輝きすらも圧倒しそうである。

 少年王、尚敬(しょうけい)──童名は思徳金。数年前、十をほんのいくつか過ぎたばかりで玉座に座ることになってしまった少年、多感な時期に大人の世界に放り込まれてしまった心細げな子供に、蔡温はどれだけ保護欲をかきたてられたことか。

 中年男・蔡温──若き王の師・すなわち国師の位を授けられた高級官僚。かの渡来人の子孫・クメ三十六姓の出で、父親も優秀な官人である。

 若い時は色々あったが、後に頭角を現し、通詞としてシンの国に赴任した経験もある。帰国後は先王の信頼を得て、皇太子の近習に抜擢された。いわば異国の血を引くよそ者がこのような厚遇を得るに至ったのには長い物語があるのだが、ここでは割愛する。

 やがて王の早すぎる崩御と幼帝の即位に伴い、蔡温は少年王・尚敬のために父親代わりとして、師として身を粉にして働いた。そんな蔡温を、この少年も慕い、学んだ。

 尚敬は年に似合わぬ聡明さと慈悲深さを兼ね備え、早くも偉大な帝王への道筋をひたすらに歩んでいるかに思われた。

 しかし……彼には、致命的な欠点があったのである。かつてはあどけなく素直だった少年は、数年のうちに化けた。化けてしまった。

 尚敬の瞳がみるみる艶を帯びてきて、蔡温は見てはいけないものを見てしまったような居心地の悪さに目を逸らす。

 尚敬王──花から花へ舞う蝶のように移り気で、多情。結婚もまだなのに、舞姫や歌姫の類に目が無く、火遊びの相手として宮中に仕える少年たちまで寝室に引き込む始末なのである。

 ──更にたちが悪いのは、と蔡温は俯いた自らの眉間をぐりぐり、と親指でほぐす。

 この早熟な少年は、蔡温が「だめです」というようなことはしない。全て計算づくなのである。

 遊び相手に選ぶのは大抵、金で片のつく、だがある程度は身元がしっかりした下級士族の出身者か高級な遊郭の姫たち。深入りもしないし、ましてや、どういう秘術を使っているものか、女に子供をこさえてしまうようなへまも犯さない。対価に渡す金や贈り物とて、歴代の王たちが妾やその家族たちにかけてきた費用に比べれば微々たるもので、要するに「ちょっとした気晴らし」を「どうして王である私がしてはいけないんだい?」という微妙な狭間を突いて、小首を傾げてくるのである。

 今でこそ王の師として確固たる地位を固めた蔡温ではあるが、若い時にはそれなりに遊んだ。やんちゃもした。そんなことを知り尽くしているからこそ、この相手は勝利を確信したうえで聞いてくるのである──「今度の遊び相手はこの人ですが、いいですよね?」と。もちろん、蔡温の顔を立てるためと、聞いたし許可も取ったので、という責任の分散のためにである。

 ──かの名高き知略の少年王・尚真という方もこのようであっただろうか──、と床を見つめる蔡温の眉間の皺は深まってゆく。

 いいや、と蔡温はすぐに思い直す。

 ──尚真王の方が、まだ良かったのかもしれない。なにせ尚真王は、妾たちの面倒を見ることは見た。それに比べて……。

  だが、その思考はあえなく中断の憂き目にあった。

「さあ、こちらへ来なさい。私が父と頼りにする蔡温を紹介しよう。私のさえずり、私の舞人……詩の天啓に彩られた人よ」

 必要とあらば己の感情を毛ほどにも漏らさない蔡温ではあるが、さすがに浮かれた言葉の羅列に忍耐の糸がぷちり、と切れそうになった。

 だが──熱のこもったハチマチの中の空気をかき混ぜるように、ふわ、と芳しい薫りが鼻を抜けていった。

 思わぬ不意打ちに、蔡温は顔を上げる。

 はたして、そこに立つ姿に、蔡温は唖然と目を見張った。

 ──螺鈿。

 それが蔡温の頭に浮かんだただ一つの言葉だった。

 夜光貝のきらめきを剥いで漆の闇に張りつけた、この世のものならぬ滑らかな輝き。

 思わず指でなぞって、その照りと吸い付くような感触を確かめずにはいられない、美しいもの──そんなものが、目の前に立っていた。

朝薫(ちょうくん)。蔡温はもう知っているね。朝薫というのだよ、この人は」

 それが、蔡温がこの年になって初めて見た、生きた螺鈿細工だった。



 かさ、かさ、と紙がこすれる音が薄暗い小部屋に響く。

 蔡温は一人、机の上に山積みになった書類を不機嫌にめくり続けていた。あれから緊急で行った身辺調査の釣書の山である。

 低い木の机に片肘を突きながら、蔡温は不機嫌に唇を突きだしていた。

 ──玉城(たまぐすく)朝薫。生まれはシュリで、たどれば尚家の血を引く名家の出である。若くして父を、そして後には世話をしてくれた祖父をも失い、ほんの少年のうちにシュリ城に上がった。歌舞音曲に秀で、先々王の寵愛を受け、サツマやエドに行ったこともあり──、

 蔡温は頭に載せたハチマチを片手で抑え、もう片方の手を傍らの茶椀に伸ばす。この中年男は、先程から苛々が止まらないのであった。

 生まれ年は、蔡温とほとんど変わらない。つまり、立派な三十過ぎのはずである。だが、あの滑らかな肌。澄んだ瞳。それにふく、とした唇など──……。

 ──若い。

 最近、髪の毛が減った気がしている蔡温ではあった。再びハチマチの内側におかしな熱が籠ってきた気がして、蔡温は思わず首に食い込んだ止め紐を引っ張る。

「何故、こやつなのだ……。よりによって、この汚らわしいお稚児野郎を!」

 あまりの忌々しさに、思わず拳が上がる。そのまま腹立ちまぎれに机を殴りつけた時、いきなり背後で声がした。

「机に八つ当たり」

 本当は、口から心の臓が出そうなくらいに驚いた。だが、そこは幾多の修羅場を潜り抜けてきたこの男のことである。驚きなどおくびにも出さなかった。

「……朝薫殿。人の背後に回り込むとは、趣味が悪い」

 わざとゆっくり振り返った先で、件の朝薫その人が大きく開いた目で見つめ返していた。長い睫毛が開閉する瞼と共に何度も動く。

 こうして近くで見てみると、全体的な雰囲気がつるん、としていて、剥いたゆで卵のような男だった。だが、つややかな顔から放射される視線はぴん、と張った弦のようで、蔡温は今まで経験したことのない、何ともいえない居心地の悪さを感じていた。まるで心の裏側までもを白日の下にさらすような、子供のような目をしていた。

 そんな密かな動揺など知らぬ風に、形の良い唇が動く。

「どっちが」

「……『どっちが』とは?」

 問い返す喉がからからに乾いていることに、蔡温は苛立ちを隠せない。

「人のこと、嗅ぎまわって。どっちが趣味悪い」

 何とも特徴的な、かくかくした喋り方である。しかも、立場は蔡温の方が上なのに、言葉遣いときたらまるでなっていなかった。だが、そんな些細なことに腹を立てる自分ではないぞ、と蔡温は密かに自分を鼓舞する。

「私の役目は、御主をお守りすること。身辺の確認は、今までもお側に侍る全員に対し行ってきたこと。悪趣味ではない」

 フーン、と朝薫は短く答えた。それから、またあの瞳でじっ、と見つめてくる。

 ──なんて無礼な男だろう!

と、ついに蔡温が腹を立てはじめたところで、いきなり片手をズイ、と突きだしてきた。

「早く」

「……は?」

「鍵。ない」

 ようやく意味を掴んだ蔡温は、間抜けな声を返しながら懐に手を入れる。

 国王の遊び相手の選定は微妙に個人的な事柄であるがゆえに、最終的な判断は王が全幅の信頼を置く蔡温に任されていた。幾多の調査の末に選ばれた者は、平民だろうが、官人だろうが、男だろうが女だろうが──こうして蔡温の元に……夜に──送り届けられてくるのである。

 勿論、武器だの毒物だのの類は細心の注意を持って取り上げられているし、十重二十重に秘密も安全も補償された数夜の「王のお戯れ」──なのであるが……。

 ──なぜ、その門番が自分なのか。と釈然としない蔡温ではあった。

 これは全くその通りで、本来ならこんなことは国師の役割ではない。蔡温の役目は政務に励む若き王に助言し、導き、時には軌道を修正し……とにかく、このような……乳母のような役割では断じてなかった。

 だが、尚敬王にはいびつなところがあって、ふとした時に異様な神経質さを見せるのである。こういった伽に関することもその一つで、蔡温が不満の一つでも述べようものなら、「こんなことを他の者に任せるくらいなら、私は死んでしまいたい。いや、きっと死ぬ」などと悲壮な顔で言うのである。

 その様子があまりに真に迫っていると同時に、心細さもちらりと覗くものだから、蔡温は根負けする形で寝ずの番を務めることになるのであった。

 蔡温の役目とはこうである。

 まず連れてこられた相手を「総合的に判断」する。そして、ここで蔡温が鍵を渡せば「よし」ということになる。そしてこの鍵はといえば、数年前に焼失し、先日ついに再建された際にシュリ城にしつらえられた隠し部屋の鍵なのであった。用心深く作られた、人目につかない廊下の奥の壁──鍵を使って巧妙な仕掛けを突破すれば、壁はたちまち扉に変じ、その奥には音をもらさない分厚い壁に囲まれた豪華な寝室が待っているのである。そして、その秘密の廊下に入るすぐ手前に、蔡温の小さな待機部屋が鎮座しているのであった。

 今までも散々蔡温にお小言を食らっていた王は「これなら、いいだろう?」と得意げに笑ったものだ。王の笑顔に滲む念入りな計画性と執念に、蔡温は深いため息をついたものである。実際、この部屋が出来てから王の「遊び」の頻度は加速し、蔡温のため息の回数はますます増えていた。

 懐に入れた手がひや、と触れた冷たさに、蔡温は息が詰まるような感覚に襲われた。

 すでに今まで、何度も違う相手にこの鍵を渡してきた。これも、その中の一回──そう分かっているのに、なぜか淡い不快感が騒めいた。

 じっ、と見つめる視線に気がついて、慌てて鍵を渡す。はたして、その小さな金属の鍵は、目の前の男の手に渡った。僅かに触れた手は、やけにすべすべしていた。

「では、その……宜しく」

 その言葉に、朝薫はきょとん、とした。ややあって、言葉の意味をようやく掴んだのだろう、年齢を感じさせない顔に淡い笑みが浮かんだ。

「夜伽話。宜しく(、、、)します」 

 そのまま、ぱっ、と背を向けて暗い廊下へと去って行く。闇が、濃くなり始めていた。夜が、深まっていた。

「言葉遣いが……まったくなっとらん」

 その姿が闇に呑まれるのを見送ってから、机に戻ってどっか、と腰を下ろす。所在なさげに愛用の茶碗に手を伸ばすと、一口含んでみた。冷たくなった茶が、喉を転がり落ちて行く。その味は、やけに渋くて苦かった。

 


 朝薫と言う男を、知らなかったわけではない。むしろ、この男・玉城朝薫は有名人だった。最初に認識したのは、尚敬の曽祖父・尚貞王の寵童としてである。若くして即位し、齢六十を越えても王であり続けた長命な王──その五十の頃にぽつ、と咲いた一輪の花が、朝薫なのだった。この季節外れの幼な花の話題に、都は好奇心と僅かな嘲笑を含んだくすくす笑いで満たされたものである。

 齢僅か十と少しで宮中に上がった少年・朝薫──当時の名は思五郎──は、他の多くの士族たちの例に漏れず、出世に必須の教養として歌舞音曲を体に叩き込んであった。ただ、他と違ったのは、その技が教養の域を越えていたことである。

 歌えば陽の光が降り、舞えば彩雲が湧き出る。楽の音は天女のさえずりのよう。その当時、世の中全てを斜めに見ていた蔡温からすれば、やっかみも手伝って鼻で笑ってしまったものだったが、その評判は都中に響き渡っていた。かくして、この少年は老王の晩年に彩を添え、その後押しもあって親雲上(ぺーちん)の位まで賜った。

 老王の死後も地位を失うどころか、ヤマトの言葉に長けている強みを活かして、サツマへの使節団だけでなく、遥かエドにまでも上っていた。

 その頃には心を入れ替え、官吏の道をひたすらに歩み始めていた蔡温は何度か宮中ですれ違ったことがある。だが、もちろん知り合いでもなんでもなかったし、正直なところ蔡温の方がこの男を避けていた。蔡温からしたら、同年代にそんな甘っちょろい出世の仕方をしてきた男がいるというのは、何とも気にくわなかったのである。

 ゆえに、蔡温がこの男の存在を初めて直視せざるを得なくなったのはもう少し後のことである。それは老王・尚貞の後を継いだ尚益王がほんの数年で崩御し、その息子である尚敬が即位した後──すなわち、尚益王の一周忌のことであった。 

 この時、玉城朝薫は年忌の芸能を執り行う踊奉行の一人に選ばれていた。

 ああ、あのいけ好かないやつがいるな、とは思ったのである。だが、その頃は蔡温自身が新王・尚敬の国師職に就いたばかりで、正直なところ多くを気にしている余裕は無かった。

 そして間もなく、この男はエド上りの一行に加わってリウクーから出て行ってしまった。その時何故か気が抜けたような、安心したような……そんな奇妙な思いだけが残った。

 そうして、蔡温が国師、尚敬が新王、という新たな役目にようやくなじんできた頃──この朝薫は宮廷に戻ってきた。そしてほどなく執り行われたのが、先々王・尚貞の七年忌だったのである。玉城朝薫は、再び踊奉行の一人を務めた。

 これが、素晴らしい出来だったのである。聞けば朝薫はエドの都でありとあらゆる芸能の場所に通い詰め、その真髄を体に染みこませてきたとのことであった。だが、そこでエドの猿真似をしないのがこの男の才能と言うべきか、朝薫はリウクーの歌舞音曲にエドの血を混ぜ込んで、なにか別のものに昇華してしまったのである。

 芸事にはめっぽう疎い蔡温ではあったが、そんな門外漢にも、この年忌の芸能が今までとは全く違うことは分かった。見慣れた歌や踊りに不思議な緩急と艶が加わり、衣装や楽の音も驚くほどに洗練されているのである。

 さらに驚いたことには、本来は監督の立場であるべき朝薫自身が、舞った。かつて自らを寵愛した王を惜しむように、慕うように舞われた哀しげな踊りと、天を揺らすような悲痛な歌声に、満座の参列者は滂沱の涙を流した。そして、全ての悲しみを浄化するような非現実の芸の技に、人々は城が揺れるような称賛の声を上げた。

 正直、蔡温も感動した。もっと言えば、涙まで流してしまった。

 そして──その行事の場で、蔡温はとても嫌な予感がしたのである。今の有能な官人ぶりからは想像できないが、蔡温は元々勉強嫌いの不良児として有名で、喧嘩も随分した。そんな暴力沙汰の経験から身に付けた、目に見えない衝動を感じ取る能力が、鋭く警告を発していた。はたして──そろそろ、と隣に座る尚敬に視線をやれば、この少年王の全身から何ともいえない熱気が発散されていたのである。

 ──今思えば、

 もう一つ、深いため息が漏れた。

 ──春になるとどこでも見られるではないか。相手を追いかけ回す鳥やら、犬やら、猫やら、蝶々やら……。

 なにせ、あの尚敬王である。手を付けた遊び相手はこの年にして数知れず。若き少年王は年に見合わぬ重圧を、歌や踊りに身を任せることで和らげてきたのである。その目の前に、この芸能の申し子が現れてしまった。

 ──何が起きそうかくらい予測し、対策してしかるべきだった……。

 結局のところは、自分の至らなさゆえである。

 はああ……と何度目かのため息をついて瞑目した脳裏に、ふとあの男が片手に持っていた包みがよぎった。サンシン──あの男が得意とする楽器の一つであった。

 ふ、と頬を撫ぜた夜風に目を上げてみれば、夏のおぼろな月が訳知り顔で見つめ返していた。分厚い扉の向こうで、あの螺鈿の男はすべすべした指で楽器をつま弾いているのだろうな、と思った。音色にうっとりと身を預ける王の姿までもが目に浮かぶようだった。

 夜闇に踊る白い指が、幻の音色が心の奥底を無遠慮にかき乱した。




 それからも、朝薫の夜の訪問は続いた。と言っても、ズイ、と突きだされる掌に、黙って冷たい鍵を載せてやるだけの邂逅である。大した言葉も交わさないし、蔡温はそもそも目も合わせなかった。それでも、視界に入ってくる相手の着物が少しづつ良いものに変わって行くな、とか、無駄な肉のついていない腰をきゅ、と絞める帯がやけに良い織だな、とか、今日は知らない香の匂いがするな……であるとか。気にしないようにすればするほど、どうでもいいことが目についてしまうのであった。

 今宵もぷい、と背を向けた姿を見送りながら、蔡温は机に八つ当たりをしていた。

 ──すぐに飽きると思ったのに!

 今までの行いを見る限り、王はおそろしく移り気であった。まるで飽きた玩具を放り出すように、数夜以上続いた相手などいたためしがないのである。だから、いつもの通りにすぐにお役御免になるだろうと高を括っていたのが、朝薫はもうしばらくの間あの隠し部屋の来客であり続けていた。持ち込む楽器もサンシンだけだったのが、いつしか胡弓や笛まで加わり、王がぽろりと漏らしたことによると、最近はついに王自身がサンシンの手習いまで始めたという。そして加速した夏は、ついに熱夜の猛暑の終わりに差しかかろうとしているのである。

 じと、と肌を伝う汗の不快さも手伝って、蔡温は苛々を止められないでいた。

 ──少しの間の遊び相手ならいい。だが、それ以上になれば必ず政に良くない影響を及ぼすのは歴史が証明しているではないか──閨房での嘆願、漏えい、讒言諸々。

 ましてや、朝薫はそれなりに地位のある男である。王である尚敬が公私混同も甚だしい、とそしりを受ける可能性もあった。

「何とかしなくては……」

 一人呟いてはみるものの、哀しいかな、この男はこういう色恋のあれこれにはめっぽう疎いのであった。せいぜい別の相手を見つけてくる……であるとか、尚敬をこんこんと諭す、くらいしか思いつかない。そもそも、後者の選択肢についてはすでにもう何度も失敗していた。

 ほんの数日前にも、蔡温は意を決して尚敬に向き合ったばかりなのである。多忙な執務の合間を縫って王の元に馳せ参じれば、王は私室にしつらえた白檀の長椅子にゆったりと身を預けて件のサンシンをつま弾いていた。

 時はうだるような夏の午後である。開け放たれた引き戸と内庭を隔てる薄布が淡い風に舞い、薄手の上布の着物をまとった王はつたない音色を一つずつたどっていた。

 ──機嫌が良さそうだ。

 上目づかいにうかがった王の顔は穏やかだった。唇の端をほんの少し上げた、瑞々しい年相応の少年。普段から微笑を顔に張りつかせている王ではあったが、その肩がいつも少しだけ強張っているのを蔡温は知っていた。だから、こんな風に素直に和らいだ顔を見るのは久しぶりのことだった。

御主(うしゅ)

 だが、王はその声に気づかないふりをした。そんなところは、やはりいつもと同じ──人生の早いうちに、鷹揚な微笑みに包んで物事をやり過ごすことに慣れてしまった王の姿なのであった。

 わざと足音を大きく立てると、蔡温は王の傍らにのしり、と立つ。

御主加那志前(うしゅがなしーめー)

 見下した顔の輪郭はふく、としていて、肌の内側に幼さの残滓が灯っている。王子だったころの無垢な笑顔が遠くで明滅した気がして、蔡温の胸は痛んだ。

 それでも厳しく見つめる視線に根負けしたのだろう。王はようやくつま弾く指を止めると、億劫そうに目を上げた。

「私はくつろいでいるのだよ?」

「そのようですな」

 跪いて覗き込む視線に反発するように、王は黙って目を逸らした。そんなことはお構いなしの蔡温の厳しい声が続く。

「そろそろしっかりして頂きたい。らしくありませんぞ、このような……」

「このような?」

 淡い笑みを含んだ視線が返ってきた。その瞳の色に、蔡温はぎくりとなる。こんな目で見返す時の尚敬は、たちが悪いのだ。

「ねえ蔡温。私は、常々飽きっぽいと非難されてきたものだよ。その私がようやく腰を据えている。何が不満なのかな?」

「……腰を据えるとは、そういう意味ではありません」

 よろしいか、と蔡温は視線に力を込める。

「御主。あなた様はこれからシンの国の冊封をお受けになられる身。かの国からこのリウクーの国王に相応しいと、公に認められる必要があるのです。数夜の遊びならいざ知れず、目立ったことは慎んで頂きたい」

 ぷい、と顔を背ける王の視線の先に蔡温は回り込む。

「よろしいですか。王のお役目には相応しい妻を娶り、立派なお世継ぎを民に贈るということも含まれているのです。このような火遊びではなく、そろそろ──」

「そろそろ?」

 鞭のようにしなる声は尖っていた。

「そろそろ? さっさと好きでも無い女を抱いて、子供をこさえる覚悟を決めろとでも?」

 刺し貫くような若い視線が、ひどく固かった。

「そうです」

 ぎゅ、と口を引き結ぶ王に、蔡温は厳然と続ける。

「それが王の義務というものです。あなたが座っているその長椅子、あなたが齧る甘い菓子、あなたが啜る異国の茶……。その代償が、義務です」

 は……と尚敬の口から短く息が漏れた。その瞳が深い底まで覗き込むように見つめ、また表層に戻り、そして霞がかかったように遠ざかっていくのを蔡温はじっと見守った。

 やがてうだる夏の午後がゆらめくのに合わせて瞳が揺れ、いつもの鷹揚な微笑みが戻ってきた。ゆっくりと唇が開く。

「……そうだとも。だからこそ、今は羽目をはずしているんじゃないか」

 押し黙る蔡温に、王は抗しがたい微笑みを注ぐ。

「もう少しだけ時間をおくれ? あと少しだけ、私も夢を見ていたいんだ」

 その微笑みを前に、蔡温はもう何も言えなかった。いつかの昔に、はにかみながら袖を掴んできた無垢な少年の面影が、憐憫と優越感をないまぜにした感情の波で蔡温を圧倒していた。

 これが父親代わりとしてこの少年を見守り続けていた男の、致命的な弱点であった。 

 結局その日の午後は、王にせがまれて昔話をしているうちに終わってしまった。遠いシンの国の話、それに、かつて旅した北山の地の物語──。夢見るように耳を傾ける少年を見ていると、蔡温はそれ以上の負荷を掛ける気にどうしてもなれないのであった。


 蔡温は再び机に拳を叩き付ける。本当は蔡温も分かっているのだ。相手は王と、高貴な血を引く貴人であり、自分は元を正せばクメ村のよそ者──その厳然とした身分の差に、蔡温自身が怯んでしまっている。そこに加わった、都合のいい言い訳──高貴の人々の逢引きに口を出すなど、僭越至極──が、蔡温を怠惰に、臆病にしているのである。

「ああ……畜生っ!」

 ついに若い頃の言葉遣いの名残がぽろ、と漏れたところで、控えめに声を掛ける者があった。

「蔡温様……?」

 慌てて振り返れば、柱の影から小姓の少年が戸惑い気味にこちらを伺っている。クメ村の子供で、蔡温が引き立てている同郷者の一人であった。

「ああ、どうした」

 何事も無かったかのように声を和らげると、少年は顔を俯かせた。

「あの……言いつけるみたいで嫌なのですが、」

 もじもじ、とつま先を触れ合わせる少年に、蔡温は穏やかに問いかける。

「何だね、言ってみなさい」

「あの……これ」

 はたして、少年が差し出したのは二つ折りの紙であった。

 怪訝に首を傾げ、かさ、と紙を開いた蔡温の顔色がみるみる変わっていく。

「控えの間の棚に忘れてあったんです。束で……」

 控えの間、とは、先ほどまで朝薫が待たされていた部屋のことである。そして、その部屋に入ったのはあの男ただ一人である。つまり、これを忘れたのは……、

「……朝薫……あの男……っ!」

 少年を従え、地響きのような足音を立てて廊下を進む尋常ではない様子に、数人の官人たちが慌てて駆けつけ、後に続く。

 はたして薄暗い控えの間に着くと、少年はためらいながらも部屋の隅の棚からその紙束を引っ張り出した。

「いいから、早く持ってきなさい」

 びし、と放たれた蔡温の声に肩を震わせると、慌ててそれを捧げ持つようにしながらこちらへ向かう。だが、あまりの剣幕に怯えていたためだろう──少年はつま先を板の間の継ぎ目に引っ掛けて、ころん、と転んだ。

「あっ──」

 蔡温が息を飲む前で、紙を束ねていた布紐がするり、とずれた。いましめを解かれた無数の紙が、ぼんやりと照らし出された板の間に、ばさ、と散乱する。無数に散った一枚を拾い上げた蔡温は、頭にかっ、と血が上るのを抑えられなかった。

 背後ではようやく追いついた官人たちがめいめいに声を上げ、息を飲んでいる。うろたえた空気が渦巻く中、蔡温は頭から湯気を出していた。

 少年が恐る恐る蔡温の手の中を覗き込み、「きゃっ」と言って両手で目を覆う。

 そう──震える蔡温の手の中にあるのは、全くもって目のやり場に困る、卑猥な絵なのであった。

「おお、これが噂に名高いヤマトの“春画”というものか……」

 思わず心の声が漏れてしまった官人の一人からむしり取ってみれば、こちらの絵の中でも男と女があられもなく戯れ合っている。

「……拾うな! おい、懐に入れるな!」

 慌てふためく官人たちを突き飛ばし、胸ぐらを掴んで次々に絵をむしり取る。次々に上がる落胆の声を吹き飛ばすように思い切り恫喝してやると、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 一人薄闇の板の間に残された蔡温はぜいぜい、と肩で息をし──ずり落ちそうになっていた自らのハチマチをむしり取った。

 荒い息の音だけが響く中、怯え切った少年が、それでも律儀に目を逸らしながら絵を拾い集めて紙束に仕立て直している。

 やがておず、と差し出された卑猥な束をひったくると、蔡温は再び憤怒の形相でドタドタと廊下を進み始めた。向かう先はもちろん、あの王の隠し部屋である。



 秘密の廊下の闇を切り裂くように、力任せに扉を叩く。二回。三回……。そして蔡温は腕を組んで、仁王立ちで待った。

 もちろん、王の私的な空間でこんな態度が許されるのは蔡温しかいない。それを王もよく分かっているはず──だからこそ、蔡温はそれ以上のことはせずに、ただ待った。

 やがて怯えたような気配が扉の向こうから近づいてきた。懐かしい、不安げな足音だ。

 ──王子だったころは、あんなに良い少年だったのに。

 おそらく今、自分の額には青筋が立っているのだろう……。煮えたぎる怒りをかろうじて御しながら立ちつくしていたところで、ついに声がした。

「……蔡温?」

 続いて、キイ、と細く扉が開く音。王が部屋の向こうからこちらを伺っているのである。

「尚敬王。服は着ておいでか?」

 蔡温の声は地の底から響く地鳴りのようである。

 扉の向こうで顔が青くなり赤くなり、やがて平静を装うために何とか普通の色に戻す気配がした。

「……もちろんだとも」

「それは結構」

 言うやいなや、蔡温は薄く開いた扉と壁の隙間に指をねじ込んだ。

 わあ、と上がった悲鳴などもろともせずに、そのまま力任せにこじ開ける。

 ぱあ、と温かい光が部屋の中から差し、蔡温は王の第二の寝室に瞬く間に乱入していた。噛みつくように見つめた先にあるのは、豪奢な天蓋が覆う寝台である。

「さっ……蔡温! 無礼だぞ、私の私的な部屋に……!」

「お黙りなさい」

 押し殺した低い声に、尚敬は直ちに黙った。こういう時の蔡温は本当に恐ろしい。何といっても、シンの国の男たちと数え切れない真剣勝負を繰り広げてきた男なのである。

 無言でのしのし、と部屋の奥へ進むと、問答無用で天蓋を押し開く。果たして、ふわふわした布の海の中では、あの夜光貝の男が螺鈿の光を放っているのであった。

 うつ伏せで、頬杖をついてこちらを見ている。そしてその周りには、あの卑猥な絵が散乱しているのであった。気だるげな視線がちら、と蔡温が鷲掴みにしている紙束へ動いた。

「ああ……もう一束、どこかに忘れてきたと思ってた」

 とろん、とした目がふてぶてしい光を放っている。そのまま猫のように身を起こすと、朝薫は面倒くさそうに伸びをした。

「噂には聞いてた。サイオン父さん(、、、)は無粋」

 優美に伸びをした体を覆う着物がかろうじてはだけているだけでなかったら、蔡温はそのまま朝薫を殴り飛ばしていただろう。

 無言で片手を伸ばすと、首根っこを捕まえる。そのまま、ぐい、と寝台から引き剥がすと、床を引きずるように引っ立てて行く。

「蔡温! 乱暴なことをしないでくれ、その人は……」

 ぎろり、と投げられた視線に、寝間着姿の尚敬が立ちすくむ。

「こやつは失格です。宮中の風紀を乱す輩は、あなた様に相応しくありません」

 後は、問答無用で扉が閉まるだけだった。



 この「春画事件」の後、朝薫は王の隠し部屋に出入り禁止になった。だが、小憎らしいことに朝薫本人には全く堪えていないらしく、ただ粛々と自らの執務に励んでいるとのことであった。むしろ、この件が大いに堪えたのは尚敬王であった。執務には真面目に臨むものの、蔡温が見ているのを横目で確認すると、しおしお、としょぼくれた顔をしてみせたり、朝薫が置いていったサンシンを哀しげにつま弾いて見せたりするのであった。

 そして蔡温はといえば、ひたすらに無視を貫いていた。大人気ないとは思うのだが、ふつ、ふつ、と湧き出る怒りが止まらないのである。その怒りは王に向けられたものなのか、あの男に向けられたものなのか──それすら判然としないことが、この男の苛々に拍車を掛けていた。

 シンの国への冊封願いの旅が迫っている。ヤマトやサツマとも上手くやらなくてはならない。そして国庫にはいつものように金がない。

 冊封願いの旅が終われば、次はシンの国から冊封使たちが大挙してリウクーに訪れる。彼らの歓待にかかる費用もやりくりしなくてはならない。

 ──ただでさえ多忙な宮中で、このような些事に乱されるわけにはいかないのに、何という未熟者であることよ。

と蔡温は自分で自分を叱咤する。問題が山積みなのはシュリの王宮ではいつものことで、今までも蔡温は粛々とその処理に当たってきた。これもその中の一つのはずなのに、何がそんなに自分の心を乱しているのかが分からない。そんな気持ちの悪さが眉間の皺を深くしていた。 

 ことん、と小姓の少年が茶碗を机に置いてくれる。その湯気の出る椀から一口飲み、椀を机に戻し、そしてしばらくの後にまた取り上げて飲み干した蔡温は──ついに立ち上がった。

「蔡温様……?」

 きょとん、とした小姓の問いに、蔡温は決然とした声を返した。

「はっきり言ってやる。ああ、言ってやるとも」

 唖然と見送る少年の視線を背中に感じながら、蔡温はのしのしと歩き始めていた。向かう先は、城の一角。今日は、朝薫が出仕しているのである。



 再建された広大なシュリ城には、歌舞音曲を好む王の意向を反映して、専用の大広間がしつらえられている。この板の間に、節目々々の行事ごとに歌い手や踊り手が集い、稽古をするのである。蔡温もいつぞやの行事の前に様子を覗いてみたことがあったのだが、あまりのむさ苦しさにすぐに退散した。宮中で公式に執り行われる芸能は、男たちが舞い踊るのである。

 ──つまらん。と言うのが男・蔡温の素直な感想であった。

 ──どうせ踊らせるなら、女がいい。やわらかくて、すべすべした……、

 ぶつぶつ、と個人的な意見を攪拌していた中年男の頭の中を、何かさわやかなものが通り抜けていった。

 喉の奥で転がすような、やわらかい音。閉じたまぶたをそっと撫でるような、ほんの少し艶のある音。

 それは薄暗い宮中の空気をひそやかに揺らし続ける、夢幻のような歌声だった。

 誘われるように瞳を上げれば、薄闇に覆われた大広間で舞っている者があった。

 ふうわり、ふうわり、と薄い羽衣をなびかせて、雲を踏むような足取りで、板の間の空の上を行きつ戻りつ舞いながら。

 ──天女だ。

と蔡温は思った。そう、その天上の貴人が、この世のものとは思えない美しい歌声を紡いでいた。

 ──遠い天へと還りましょう 遠い空へと還りましょう……。

 呟くように、確かめるように流れ続けるまろやかな歌声──。そしてゆっくり、ゆっくりと虚空に踊る優美な手指。やがて天女はすう、と腕を上げると、見えない琴をつま弾くように、透き通るような白い掌を虚空に捧げた。

 ──遠い、遠い天へと……。

 蔡温はただ、息をするのも忘れていた。歌声が立ち消え、天上の舞が闇に溶けて消えるまで、ひたすらにその光景を見つめ続けた。

 やがて空気を闇が満たし、ほんの少し上がった息の音が密やかに闇を震わせる。天女の姿は消えて、そこは再びがらんどうの宮殿の広間に戻っていた。

「──す、」

 ぱち……、と割れるような音が弾けた。

「──素晴らしい! 私は見たぞ、確かに今、そこに天女が……!」

 ぱちぱちぱち、ぱちぱちぱち……それは子供のように無心に手を叩く音、我を忘れた蔡温が何年か振りに自発的に行った拍手の音だった。

 朝薫──舞を止めた途端に人間の姿に戻った天女が、ぱち、ぱち、瞳を開閉させてこちらを見つめている。

 次の瞬間──ごつ、と嫌な音がした。後頭部に鈍い痛みが広がってゆくとともに、蔡温はじわじわと理解する。

「──見るな見るな見るな!!」

 唖然と見上げた視界に一杯に広がるのは、ヤマトのハンニャ面のように変じた朝薫の顔面であった。つるんとした顔が、瞬時に上った血で真っ赤に染まっている。

「私の! 自主稽古を! 覗き見するとは! この変態野郎野郎野郎!!」

 飛びかかった勢いで蔡温を床に押し倒した朝薫が、ぎゅうぎゅう、と襟元を絞め上げる。その渾身の力に、蔡温は本気で「殺される」と思った。

「ぐっ……離せっ! 宮中で人を殺したとあっては、貴様だけでなく、一族郎党に類が及ぶぞ!」

 その一言に、朝薫の動きがぴた、と止まる。

 その隙を逃さず組み付いた蔡温は、そのまま床の上でしばし朝薫と揉みあった。だが、やはりそこは喧嘩慣れした蔡温である。咄嗟に身をよじると、勢い任せに朝薫を投げ飛ばす。渾身の反撃を受けた朝薫の体は板壁目がけて吹っ飛び、強かに叩き付けられておとなしくなった。

 ぜい、ぜい、と肩で息をしながら、蔡温は立ち上がる。首に手をやってみれば、まだ指の跡が熱を放っていた。

「国師の私に手を出そうとは、いい度胸だ……」

 荒い息の下から噛みつくように言ってやれば、壁に寄りかかったままの朝薫も燃えるような瞳を返してきた。

「国師だろうがなんだろうが関係ない! 私の神聖な稽古を邪魔した罪は重い重い重い!」

 再び二人の男の荒い息だけが薄闇に響き、険悪な視線が絡み合った。

 ──なんてやつだ! と蔡温は心の中で歯噛みをする。

 ──権力に媚びない傍若無人。卑猥な害毒を王に注ぎ込む破廉恥野郎。さっきからおかしな言葉遣い。

 獣のような目で睨み付ける男を、蔡温は仁王立ちで見下す。

 ──寵童上がりの色事師。その証拠に、きめの細かい肌をして、やけにやわらかそうな口元で。それに見ろ、この貝の内側のような……、

 つ、と歩を進めていたことに蔡温は自分でも驚いた。

 そしていつのまにか自分の手が伸びて、朝薫の頬のあたりに触ろうとしていたのに気づいてもっと驚いた。

 時間が止まって、見つめる瞳が薄闇にきらめいた。後は、空気を乱す鼓動の律だけが、やけに不規則に打っていた。

「……あー……」

 長らくの沈黙の後に虚空で止まったままの指を引っ込めると、蔡温はこほん、と咳払いをする。

「つまりその……稽古の邪魔をしたことは悪かった。だが、暴力を容認することはできん」

「言われたくない。あんたに」

 気まずそうに目を逸らす蔡温ではあった。

「その……だな、つまり私は、このようなことをしに来たのではない」

 フン、と朝薫が馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「つまりその……、貴様……いや、そなたが置いて行ったサンシンなどがあると、御主も心が休まらない」 

 フーン、と小馬鹿にしたような声が続く。

「あれはお返しする。……つまり……」

「まわりくどい。もう王の近くには行ってない。何が言いたい」

「……」

 そこで蔡温は言葉を詰まらせる。そう、この男の言う通りなのだ。朝薫はもう王の私室には足を踏み入れていないし、役目に従って宮中の行事の稽古をしているだけである。通常のありように戻っただけで、もはやこの男には何の非も無いのであった。

「…………目障りだ」

 ついにぽろり、と漏れたのは、いたって個人的な、子供っぽい本音であった。

「目障りだ。貴様が嫌いだ。ちゃらちゃらして、御主をたぶらかして……」

 ──それに、夜光貝の光のように美しくて、眩しくて──とは決して蔡温の自尊心が言わせなかった。

「つまり……私は、お前が嫌いなのだ!」

 ぽか……ん、と朝薫は初めて驚いたような顔をした。いつの間にか肩を上下させていた蔡温の顔を穴の開くほど見つめると、ぱち、ぱち、と澄んだ目を開閉させる。そして、何拍もの沈黙が落ちた後に、抑えがきかない様子で笑いだした。

「あ は は は は は!」

 壁に寄りかかったままの琉装の男は、子供のように腹を抱え、ばし、ばし、と足を床に叩き付けながら笑い転げた。

「あ は は は は! “お前が! 嫌い! なのだ!”」

 可笑しい、可笑しい、と涙を流しながら笑い転げる姿に、蔡温は憮然と立ちすくむ。そして目の前の朝薫はといえば、体をよじり、拳で床を叩き……まるで全身が笑いになってしまったように転がり続けていた。

「……何がおかしい」

 苦しそうに息をする男は、涙を拭いながら蔡温を見る。その顔が今まで知っていたよりも数段子供っぽくなっていることに、蔡温の心はなぜかさざめいた。

「私たちは同じだ! 私も! “お前が! 嫌い! なのだ!”」

 ──笑いは伝染するというのは本当だ。と蔡温は思う。

 ただただ無心に、無邪気に笑い続けるこの男。三十を越えているくせに子供のように純粋な目をして、この瞬間が楽しくて楽しくて仕方がない──そんな風に全身で語る男に釣られるように、蔡温もまた、小さな笑い声をもらしていた。

「……同じ、か」

 笑いを含んだ蔡温の声に、朝薫は何度も「そうだ」と頷いた。

「私も、嫌い、なのだ! 親の七光り! いけ好かない外国(シン)帰りのサイオンが! ……あ は は は は は!」

 笑い続ける朝薫に合わせて、ついに蔡温も笑いだす。やがて二つの笑い声が合わさり、陽気に空気を揺らし、宮殿の薄闇を光で満たした。

 何年かぶりに、蔡温は自分の眉間の皺がいくらか薄くなった気がした。

 それが初めて、蔡温がこの男を少しだけ近くに感じた瞬間だった。



 ──結局。めそめそし続ける尚敬王に根負けして、蔡温はサンシンの回収という名目で、朝薫をもう一度だけ会わせてやることにした。

 そのことを告げたとき、朝薫はまず面倒くさそうな顔をして、それからほんの少しの間、蔡温をじっと見つめた。

 その目が何かを言いたそうに見えたのは気のせいか。だが、蔡温が意を決して問い返そうとした時には、朝薫は背を向けていた。

 今宵はもう鍵を渡してしまったので、蔡温は狭苦しい部屋で冷めた茶を啜っている。小姓の少年も家に帰してしまったので、あとは長い夜を一人、悶々とつぶすのみであった。

 ぼんやりと、蔡温はあの日のことを反芻する。あの薄暗い板の間で、子供のようにただ笑い転げただけの、あの瞬間──。

 ──いい年の男二人が、馬鹿のようだ。と蔡温はしみじみ思う。

「そなた、なぜさっきから同じ言葉を繰り返すのだ」

 そう問いかけたときの、吃驚したような顔が脳裏に蘇る。 

「強調するときは、繰り返す!」

 怪訝な顔をした蔡温に返してきた、勝ち誇ったような瞳。

「何かを強く伝えたいとき、シンの人間は同じ言葉を繰り返す!」

 ──まあ、そういう場合もあるのだが……。どこから訂正しようか、と逡巡する前で、朝薫はこれ以上無いほどに得意そうな顔をしていた。その曇りのない瞳が例えようもなく眩しくて、蔡温はそっ、と反論を胸に収めたのだった。

 今思えば、大陸の血を引く蔡温に気を使って、あの男なりに意思疎通の工夫をしていたのかもしれない、とも思う。

 あの笑顔の残像が、やけに長いこと脳裏にちらついていた。

 早く夜が明けてしまえばいいのに、と思いながら、いつもの愛用の茶碗の淵を親指で撫ぜてみる。茶の雫で潤んだ青磁から、しん、と冷気が伝わってきた。指に触れた湿り気が、いやに気に触った。

 少し横になるか……と部屋の隅の寝台に目をやる。所在なさげに立ち上がろうとした時、かしゃん、と甲高い音がした。

 特殊な構造上、あの部屋の音はよほどのことがなければ漏れることはない。ということは、考えられるのは隠し部屋の扉が開いてしまっていることである。そう、全ての秘密を閉じ込めるための扉が──。

 耳元で囁く不安の声に急き立てられて、蔡温は暗い廊下に小走りに向かっていた。良くないことが起きている──そんな確信めいた予感が胸を満たしていた。

 幸い、深夜であることも手伝って他の者には気取られていないらしい。はやる気持ちを押さえながら向かった廊下の先からは、細い明かりが漏れてきていた。そう、うだる熱帯夜をあざ笑うような、刺すような光──。

「御主……?」

 控えめに声を掛けながら、扉をそっと開く。

 だが次の瞬間、蔡温は反射的に身を屈めていた。かしゃん、と頭のすぐ上で甲高い音が弾ける。見下した先の床の上で、高価な磁器が粉々に砕けていた。

「出ていけ!」

 悲壮な声を発しているのは、部屋の奥の寝台に身を起こした尚敬だった。

「御主、一体──」

 みなまで言わせず、王は身をよじると、傍らの小机からもう一つ杯を取り上げる。そのまま力任せに投げつけようとしてくるのを、蔡温は飛びかかって止めていた。

「御主! この杯も、この寝台も、全て民の税で贖われているのですぞ!」

 雷鳴のような声と共に両手首を捕まえられた王が、布団の渦の中で真っ赤な顔をくしゃ、と歪める。子供のような表情に虚を突かれているうちに、その瞳からぼろ、と大粒の涙が落ちた。

「うるさい! 出ていけ……!」

 泣き喚く尚敬は握りしめた拳で思い切り蔡温の胸を殴りつけた。

「どうせ、私を馬鹿にしているのだろう! いつまでも、私が……こんなだから……!」

 白い胸を覆う夜着がはだけている。眉を吊り上げた蔡温は、問答無用で着物をぐい、と引き合わせた。

「大きな駄々っ子ですか、あなたは……」

 その言葉に尚敬は口を固く引き結び、拳を握りしめ……そして、耐えかねたように蔡温の腰のあたりを蹴りつけた。

「出ていけ!」

 寝台の足元に蹴り転がされた蔡温は、あまりのことに絶句する。やがて状況を理解し、ふつふつと募る怒りと共に立ち上がったところで、強く袖を引く者がいた。

「……朝薫」

 振り返った先に、静かな目をした朝薫がいた。やはり着物が乱れているのを認めて密かに動揺した蔡温であったが、その手の甲から血が滴っているのを見てさらに動揺は深まった。

「出よう」

 ぐい、と腕を掴んだ手が、蔡温を出口へ引きずってゆく。小さな部屋の扉が閉まるとき、わずかなすすり泣きが漏れたのを、蔡温は確かに聞いた。


 

 無言の二人は小さな控え部屋に戻っていた。

 血の零れる白い手に布を巻いてやる間、朝薫はじっとしていた。まるで、人形のようにおとなしく、されるがままになっていた。寝台に腰かけ、わずかに俯いた顔からは一切の表情が消えている。その様子がまるで糸の切れた操り人形がうち捨てられているのを見るようで、蔡温はうっすらと恐怖を覚えていた。

「朝薫……?」

 白い布にゆっくりと血がにじんでくるのを目の端に捕らえながら、ためらいがちに声を掛けてみる。それでも微動だにしない様子に、蔡温は急き立てるように肩を捕まえて揺すぶった。

「朝薫……どうした」

 ぱち、ぱち、と瞼が開閉し、ようやく緩慢に瞳が動いた。玉をはめ込んだような、作り物のような瞳だった。

「……ああ……」

 かすれた声が漏れる。まるで長い悪夢からゆり起こされたような、ひどくおぼろな目をした朝薫がそこにいた。

「……うっかりした」

「何?」

 怪訝な問いにも関わらず、朝薫は長いこと俯いたまま黙り込み、やがて持て余したように自らの手に巻き付けられた白布を引っ張り始めた。

 何度も爪先で摘ままれた布がほつれて、細い繊維になって宙に舞う。それでも、朝薫はその動作を止めなかった。まるで、病んだ鳥が嘴で自らの羽をむしるのを見ているようだった。

「……朝薫」

 見かねた蔡温はその手に自らの片手をそっと重ねる。ほんの少し圧を掛けた掌の下で、病んだ嘴はようやく動きを止めた。

「何があった?」

 身を屈めて覗き込んだ先で、あの玉のような瞳が煌めいていた。何かを試すような、不思議な瞳だった。

「慣れてる」

 ぽつ、と呟く声が深夜の静寂の水面に落ちた。

「なに?」

 言葉を探すうちに、朝薫の声が続いていた。

「サツマ。エド。それから、王族。慣れてる。尚貞王もそうだった」

 困惑した視線を避けるように、朝薫は寝台の上の簡素な枕の上に目を落とす。

「私はいつも誰かの身代わりだ。演じるのが仕事だから。あんたも見ただろ? 天女にだってなれる」

「──……」

「布団の中で、生き人形のフリさえしてればいい。金がいる。権力がいる。だから、なんてことない」

「……」

 黙り込む蔡温を、玉の瞳がまっすぐに見つめ返してきた。

「ほんとに気づいてなかったのか?」

「何……?」

 夜光貝の男の歌うような声が、夜風に乗ってたゆたった。

「ブンジャク」

 いぶかし気に眉をひそめるうちに、言葉が続く。

「蔡温のもうひとつの名前は、文若(ぶんじゃく)

「……いかにも」

 それは蔡温のヤマト名だった。異国帰りの印象が強すぎて、いつしか大陸の名前の方が定着してしまったこの男が記憶の片隅に置いてきた名前……。そう、いつかの昔、尚敬王がまだ無邪気な少年だったころ、昔語りの中から拾い出し、面白がって何度も呼んだ名前だった。

 真意を測りかねて沈黙する蔡温に、朝薫は不思議な音色で呟いていた。

「余計なことした」

「どういう意味だ?」

 空の雲が動いて月光が差し、朝薫の頬におぼろな笑みが落ちるのが見えた。

「最後だから、忠告のつもりだった。ちゃんと本人に言えって」

「だから、何のことだ?」

「毎回呼んでた。あんたの名前」

 は……と、息だけが漏れた。全ての思考が停止したのが分かった。

「王様が夢の中で呼んでた名前は、文若」

 もちろん、考えなくても意味は分かった。だが、それを認めることを全身が拒否していた。

 凍り付いたままの蔡温に向かって、やけに優しい歌が続いていた。

「あれだけ女も呼んでたのに、なんで子供ができないと思ってた?」

 月明りの下で、直截的な歌詞が続く。

「あんた言ったんだろ? 世継ぎを作れ、子供を作れって、何度も何度も」

 澄み切った瞳が心臓をえぐるように見つめていた。

「カワイソウな王様だ。あんな絵まで持ってこさせて。何とかあんたの期待に応えようと」

「……黙れ……! この……っ」

「『この汚らわしいお稚児野郎』? あんた、一体何を想像してたんだ?」

 まっすぐな瞳が心を貫く。

「寝所でだれが何をしてるかなんて、結局あんたたちが頭の中でこねくり回す夢の産物さ。夢と現実の区別なんて、結局だれもついてない」

 絶句するうちにも、淀みの無い声が畳みかける。

「だから私は王様に教えてやったんだ。夢を見ればいいんだって。腕の中にいるのは、そいつ(、、、)なんだっていう夢を」

「──黙れ……っ!!」

 止めようもなく、蔡温は相手の胸ぐらを絞め上げていた。それでも、見つめ返す瞳はひたすらに澄んでいた。曇りの無い玉のように、透き通った月の光のように……嘲笑も、怯えも無く、静かな瞳だけが見つめ返していた。

 蔡温の鼓動が張り裂けそうなほどに早まり、やがて鎮まり──そして、長い沈黙の後に、朝薫は短く言った。

「あんたは、残酷だ」



 ──夢を見ていたいのだと。そう、王は言っていた。いや、それを言っていたのは王などではなく、玉と錦に絡めとられただけの、一人の少年だったのか──。

 蔡温はただ、首を振る。一人残された部屋を、冷えた夜風が吹き抜けていった。

 ──夢を見ていたかったのは、自分なのだ。罪の無い、単純で無垢な世界を信じていたかったのは、自分自身なのだと──。

 力なく伸ばした手は、愛用の茶碗を掴み損ねた。茶碗は、机から落ちて割れてしまった。 



 それから──しばらくの時が過ぎた。

 ピイヨー……、と落ちてくる鳥の声だけが、いつもと変わらずに響き渡っていた。季節は移り行き、風が変わり──……、

「では、行って参ります」

 静かな深い声に、その姿はゆっくりと振り返る。

「……そうか」

 ほんの少しだけ大人びた声を発したのは、少年から青年に変わりつつある尚敬王。

 そして、王の私室で恭しく頭を垂れるのは、旅装に身を包んだ蔡温であった。

「シンの国は遠いから──……」

 言葉を詰まらせた尚敬王は、遠い彼方へと視線を投げる。その瞳に映っているのは、決して自らは行くことの出来ない異国の風景か、それとも──。

「冊封願いのお役目、立派に果たして参ります」

 蔡温はついに、伸びに伸びていた尚敬の冊封を請いにシンの国に向かうのである。遥かな異国の地への、命を賭けた長旅に加わることを強く志願した蔡温であった。

「……気をつけて」

 尚敬王もまた、短く言うだけであった。だが、その言葉が長い長い逡巡の末に、勇気を持ってふり絞られた一言であることを、蔡温はよく分かっていた。ずっと側でこの若者を──父として見守っていたからこそ、その心の震えが手に取るように分かった。

「では──」

 蔡温は深く礼をする。

 そして、もう振り返らなかった。そうするしか、なかった。



「蔡温様!」

 港の人ごみをかき分けて、泣きそうな顔で駆け寄ってくるのはあの小姓の少年だ。少し背が伸びたその姿に、蔡温は懐かしく思い出す。王に初めて出会ったのは、丁度これくらいの頃だったな、と。少年の手の中にあるのは身の回りの物をまとめた小さな包みだ。

「お茶碗、くっつけておきました。あと、蔡温様が好きなお茶の葉も包んでおきましたから……」

 やがてべそをかき始めた少年の肩を、蔡温はやさしく叩いてやる。

「留守を頼むぞ」

 くしゃ、と顔を歪めた少年が抑えようもなくすすり泣く。目を上げれば、見送りの人々の中にも目や鼻を真っ赤にしたものが何人もいた。

 シンの国は遠い国。遥かな荒波乗り越えて──。

 ──生きて帰ろう、と蔡温は思う。

 多分、まだやらなくてはいけないことが沢山ある。それに、まだ言わなくてはいけないことが、伝えなくてはいけないことが山ほどあるのだ。

 視線を投げれば、ナハの港を遠くから見下すシュリの王城が見えた。きっと見晴らしのよい場所から、尚敬王がこちらを見つめているはずだ。

 それに──……。

 背を向けて、低い船梯子を上る。僅かに揺れる甲板から見渡せば、数え切れない見送りの人々が港に集まっていた。

 無意識に視線を彷徨わせていることに気がついて、蔡温は苦笑する。

 ──女々しいぞ。蔡温ひとり、いざ行かん──。詩などひねってみたところで、決まりもしない。

 甲板が揺れ、船はついに陸地を離れた。リウクーの地に別れを告げて、遠いとおい、シンの国へと──。

 その時。

 陽光の中に弾けた声に、蔡温は顔を上げた。

 それは太陽の光を反射して、七色に輝き渡る貝の内側のような声だった。

「サイオンサイオンサイオン! 見てくれ見てくれ見てくれ! 脚本を書いた! 歌だけじゃない踊りだけじゃない芝居だけじゃない! シンの冊封使がびっくりする出し物を、私が上演する! 冊封使だけじゃないぞ! あんたと王様と私とで観るんだ! だから……」

 驚いた眼で見やれば、船を押し出す港からあの男が大声で叫んでいる。そしてその片手が捕まえていたのは、もう一つの手。その姿に、蔡温はあっ、と息を飲む。

 騒めく人ごみの視線を一身に受けながら肩を上下させているのは、王だ。冠など被らずに、長い衣を邪魔そうにたくし上げて、ほどけた結い髪をくしゃくしゃにして。

 朝薫と手を繋いだ尚敬王が、息を切らして真っ赤な顔をして、こちらを見据えていた。その姿がほんの少したじろぎ、そして──意を決したかのように叫んだ。

「ブンジャク――! 無事に……帰ってこい!」

 その傍らで朝薫も叫ぶ。上げた片手に握りしめた紙束を、懸命に振りながら。

「必ず帰ってこい帰ってこい帰ってこい! 無事に、無事に、無事に!」

 ──二人とも、なんて大声だ! 

 蔡温は苦笑して、それからそっと目の端を拭う。

 ──だが、これならよく通るだろう。広い広いシュリの宮殿で演じても、満座に座るシンの冊封使の端の端にまでも響き渡るだろう。

 天女に化ける夜光貝。不思議な光の夜光貝。その光が照らすのは、若き王の輝かしい治世。

 ──きっと、素晴らしい出し物になるはずだ。それを観る時は、また王の傍らにいよう。いつかのように、穏やかな気持ちで共に在ろう。

 すべては遠いシンの国。シンの国に行って、帰って──。

 すべてはそこから、始めよう。すべてはそこから、もう一度。

 すべてはそこから、三人で。





                  三人組踊 -王師の螺鈿- <了>




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