9.それぞれの休息
支老湖温泉の泉質は弱アルカリ性塩類泉、である。
塩類泉、ということは口に含めばしょっぱい。アルカリ性、ということは皮膚の表面を解かし、ぬるぬるしているような錯覚を覚える。
とはいえ特徴といえばそれくらいしかなく、硫化水素の強烈な臭いがするわけではなく、色が黄土色に染まり透過性が著しく損なわれてるわけでもなく、水底に泥が溜まり肌に塗りたくれば美肌に……ということでもない。
まあ、クセのない至極一般的な温泉ということだ。
「しっかし、大分おかしい方向に向かってってるな」
桐谷は肩まで湯に浸かり、足を伸ばして天井を見つめている。
「そうだなぁ。俺が原因だと考えると若干鬱にならないでもないんだが」
陵前は10個程あるシャワーのひとつを使い、体を洗っている。
「ここまで来たら鬱だろうが躁だろうが引くわけにゃいかんなー」
息を吐き出しながら水音を立てる。
今日は平日で、宿泊客も日帰り客もまばらだ。ゆえに、大声で喋ろうとも足を伸ばし手を囲いに乗せようが構うものはいない。
さすがに全くいないと言うわけではないから泳ぐ等分別を逸したことをしていると誰かが来たときに気まずくなること請け合いだが。
武家奈代は、この温泉宿を気に入っていた。旅館ともホテルとも言えない――というか国営なのだが――微妙な規模と佇まいで宿泊料金も今夜泊まる旅館と比べればダブルスコアしてもまだ足りないくらいである。
しかし、気に入っているのは、宿ではなく、風呂だ。
武家はいわゆる大浴場があまり好きではなかった。人が多ければ息詰まるし少なければもて余す。ここの風呂はその点武家にとってちょうどいい大きさだったのだ。
試供品の特殊な石鹸やらジェルやらを使いながら体の垢を落とす。
気に入っているとはいえ、せっかち気味の性格が影響して烏の行水である。10分ほど湯に浸かった後、半ば義務的にサウナへ5分より少ない時間入り、タオルで多少水を拭き取って脱衣所に戻る。髪もある程度の長さはあるのだが、適当に水を抜いてからゴムで縛ってそれでよしとする。着替えも早々に済ませて入り口で靴を履いた。
大概は連れ人よりも早く出てしまうため、待たされる。それを見越して椅子や扇風機が置いてある休憩所を待ち合わせ場所にしておいた。缶ジュースを片手にそこへ向かう。
「ふぅー」
脱力しながら背もたれのついた椅子に座る。その部屋は10畳が精々で、武家が座る椅子も他は3個しかない。
(しかし、今日は色々なことがあったわね)
天井を見つめながらこれまでを振り返り、密度の濃さを確認する。
(明日以降も暇とは無縁そうね……)
そしてこれから起こることを想像するも、自分の頭では予想することも叶わない。しかし、その事実から、震えをも伴う喜びを見出だす。
(少し、休みましょうか)
英気を養う、というやつである。寝ると得た情報が整理されるとも言うし。
自然と目が閉じ、眠るのかと思うと間もなく、意識を手放した。
部屋が少し、暗い。
「んぅ……?」
武家は不自然な薄暗さに目を覚ます。寝る前はまだ十分に明るかったはずだ。それに夏至から程近い日付である。
レースのカーテンを引き、空を見るといつのまにか雲が張り出していた。
(随分と濃くて低いわね)
暗さは一様で、隙間は見受けられない。
(こういう雲だと逆に雨は降らないもんだけどね)
そう経験則から判断する。窓を開けてみるも、空気はさして湿っていない。腕時計を確認すると部屋に入ってから30分ほど経っているようだ。
視界に何か、異物を捉える。ほんの一瞬、扉の付いていない入り口を誰かが横切った。
(あれは…、誰だったか)
つい最近会った気がする。髪の色が印象に残っている…。
そう、菅藤と話をしたときにいた奴だ。桐谷が追いかけていって少し話をしたのだったか。
(振り回されているようで癪だけど、また追いかけてみましょうか)
男二人に自分が既に出たことを知らせるため飲みかけのジュースを椅子の上に置き小走りで休憩所から去る。
浴場のある二階から階段を下っているところをとらえ、3段飛ばしで追いかける。服が翻るが気にしない。
(にしても本当に暗いわね)
受付が後ろに下がっているらしいフロントを横目に見ながらそう思ってしまう。確かに厚い雲がかかる日などは夜とはまた違う雰囲気の暗さがあるものだが。照明まで心なしか色彩に乏しいように感じてしまう。
(森に入っていくのか)
外に出て視線を遣ると茂みの中へ入っていく。遊歩道であるから躊躇うことはない。こちらは小走りであるが、向こうもそれなりに速度を出しているらしい。髪が宙を舞っているのが見える。
5分ほど走っただろうか、その白い姿は突然に姿を消した。
……のではなく、道の併設された東屋に腰かけていた。
「あなた、私を誘ったの?」
軽く息を乱しながら木の柱に手をついてそこにいる人物へ自嘲気味に乾いた笑いを浮かべながら問いかける。軽口半分であるが真面目にそう聞きたい気持ちもあった。姿を見せたときこちらを気取らすようにしていたし、恐らくはこちらが見失わないように、あるいは追い付かれないように速度を調節していた。
結構な距離と曲がりの数だった、普通は見逃す。
「……私じゃない。私に似ていたかもしれないけど私じゃない」
座って前をじっと見据えていたが答えるときだけ顔を見て―なんとなく、目を見られている気はしなかった―喋り終えるとまた正面に向き直った。
声からして女性らしい。桐谷は男だと言っていた。……顔立ちや体格は喫茶店で話している間にちらっと見たものと差異はないように思うのだが。
「じゃああなたはずっとここにいたと?」
隣30cmほど離れたところに腰かける。
「ずっとじゃない。でも、この時間はここにいる」
律儀に話すときは顔を向けてくる。なんだか機械的だ。しかし声質は抑揚がおよそあり、ひどいギャップを生んでいるように感じられる。
定期的にこんな場所を来ていることへ色々と聞きたいが、それはこの際置いておく。
「そう。なら私をここまで連れてきてその後放置したあなたと同じその髪色の人、誰か知らない?」
違うというなら違うのだろう。ならこの人は探している人なのではないのだろう。容姿は似ているが。
「知ってる。けど説明するのに時間がかかる。私はもう時間がない。兄弟みたいなものだと思ってもらっていい」
随分と細切れな台詞だ、と思うが早いか立ち上がり森の深い方へ向かう。
その道をそのまま行くとキャンプ場の一つに着く……のだが道のりで5km以上ありさらに勾配も存在するので普通に温泉街まで戻り車でいった方が早い。
「あなた、そっちにはなにもないわよ」
座ったまま呼び掛けるが手を上げるだけでそのまま歩いていく。時間がないと言う通り、足早だ。すぐに森へ溶け込んでいく。
その姿に見とれてしまい、追いかけると思うよりも早く姿が見えなくなってしまった。
(兄弟のようなもの……あれが女だとすると兄妹か)
桐谷が出会った奴は兄の方だろう、となんとなく考えながら踵を返す。
話したときに何か得体の知れなさを感じたと桐谷は話していた。自分もそれを聞いて身震いを感じた。だが、不思議と妹の方はそうならなかった。
なぜだろう……。この森、この場所と一体になっている。脳裏にそんな感慨染みた言葉が閃く。
(疲れているのかしらね)
遊歩道を歩いていく姿は様になっていた。世界は彼女を全て受け入れている、逆もまた。
茂みを抜けると雲が晴れていた。
フロントにも人は戻ってきていた。軽く会釈をして休憩所に向かう。
「お嬢様、珍しく長風呂でしたか?」
入ると既に陵前と桐谷が部屋のなかにおり、談笑している。
「少しね。……一応席取りのつもりで缶ジュースをあなたが座っている席に置いておいたのだけど」
指を指された桐谷は一瞬呆けた顔をし、その後立って手のひらを振り違うというジェスチャーをする。
「置いてありませんでしたよ。それにそんなものがあったら私でも察します」
「そう……。まああれこれ言うつもりはないけれど」
言いつつ、従業員が片したかなと考える。しかし、中身はあったしあまり時間は経っていない、行儀は悪かったが見れば席取りだと分かるように置いた。
ゴミ箱を確認してみるがそれは無かった。
「……そんなにもったいなかったんですか?」
蓋を開け始めたら心配するような、半分呆れが入ったような声が聞こえる。
「なわけないでしょ。ちょっと気になっただけ」
「そうですか。なら八坂さんのところに戻りますか」
ええ、と返事をして休憩室からでる。
ここも宿泊施設である。土産物や宿泊中に必要な軽食や簡単な日用品が置いてある売店や、支老湖由来のもの―鱒料理や年中行事でのシンボルらしきものを象った創作料理だ―を売りにしたレストランがある。
武家は陵前が売店で物色しているところを見計らって桐谷に話しかける。
「桐谷さん、例の不審人物についてだけど」
「え? ……あの白い髪の、不気味な奴のことですか?」
桐谷は桐谷で種々のパンフレットに手を出していたところを出し抜けに聞かれた様子である。
「そいつって、男だったのよね?」
「はい、顔は中性的でしたが声は明らかに男でした。……それが?」
小脇にここと同じ系列で本州や四国九州地方の施設のパンフレットを何冊か抱え、いまだ名残惜しそうに紙束類をチラ見している。
武家はため息を一つと何らかの菓子を買っているらしい陵前を横目にため息を吐く。
「あなたたち、観光も程ほどにきちんと事件に向き合いなさいよ?」
「いえ、はは、すみません。それで……、そいつが男かどうかなんて何に関係あるんです」
頭を掻きつつ桐谷は微妙に目をそらす。そして気まずそうに話を再開させる。
「その男にそっくりな人と話をしたのよ。彼、じゃなくて彼女、だったけどね」
「ええと……。声だけ違う、ということですか?」
「ええ、最初見たときは完全にあなたが追っていった男だと思ったもの」
桐谷は呆気に取られた顔をして、その後何かを思い出すように目を遠くさせる。
「なるほど、その女と男の関係は?」
「見知り合いのようよ。兄妹のようなもの、とも言っていたわね」
「兄妹、のようなものですか……」
のようなもの、というからには本当に兄妹ではないのだろう。しかし、関係が深いのは明白だ。
「その男とは違って不気味とは感じなかったんだけど」
武家は少し茶化し気味に付け加える。果たしてそれがこれまでの疑念、異常、不可思議にどれだけの慰めになるのか。
「味方だといいですけどね」
桐谷はふっと鼻で笑う。
そこで陵前が二人の前に戻ってきた、手にはポリ袋を下げている。
「それって……、売店にあるハスカップアイスじゃない」
袋の中には赤紫色のカップアイスが三つ、上にはホイップクリームが乗っている。
ちなみにハスカップとは万歳と太平洋の間の地帯に広がる湿地帯で採れる1cm大の赤黒い果実だ。甘味より酸味が強く、実のままなら砂糖をかけて、そうでなければジャムなどに加工して食べる。
「ええ、風呂を出たあとなのでアイスなんか美味しいんじゃないかと思って」
言いながら陵前は二人にアイスとスプーンを渡す。
「気が利くじゃない。それにいいものを選ぶ。私のお気に入りよ、これ」
武家は感心して早速蓋を開けにかかる。
「八坂さんの分も買わないと後で酷いぞ」
「あっ……。すみません、買ってきます」
桐谷は立場上、止めて自分が買いにいくべきかと思うが行かないことにする。武家が随分と上機嫌な顔で待ち受けらしいソファーに腰を掛けて食べ始めているから。
それにならって桐谷も隣に座った。
「向こうに行ってから食わないでいいんです?」
「……私にものを奢る人なんて今までいたかしらね」
質問には返さず、固いアイスクリームをプラスチックのスプーンで無理矢理掬う。桐谷はこの人が基本欲望に忠実であったことを思い出す。
そして別の質問を問われ、記憶を頭の中で反芻し、そんなことはなかったと結論付ける。
「そりゃあ畏れ多くも大ホールディングスの会長に場末のアイスを奢るなんて、余程の傑物でしょう」
「ま、そんな大した人物ではないにしても。私は嬉しかったわ」
そうだとするなら公安の一兵卒では収まらなかっただろう、と武家は評価している。
単に無邪気なんだな、と桐谷は仕事上の関係である男が財布から小銭を出しているところを見る。
「この件が終わったら、召し抱えてもいいかもね?」
桐谷にとってはなんとも返答しづらいことだったが、機嫌を損ねることもないだろうとなにも言わない。
地位では間違いなく常人の域にいない者から目をかけられる。それならば、相応に傑物なのではないか、とも思うのだったが。
八坂さんに休息はないです




