8.たとえばそんな暗号文
この文章が読まれているということは、私はきっと、失敗したのだろう。
今は誰もおらず、侵食の危険はないと思われるこの地にすら、偉大なる人間はその手を伸ばしたらしい。
いや、理解がなくなったというのが正しいか。人はここにいたが、これの危険性を理解してくれたのだから。
死の際にこれを書こうと思ったのは、懺悔の気持ちからである。
私は時の流れに負けた、流れの先で罪を犯した。贖罪はできない。
今これを読んでいる者たちよ、どうか、私の過ちを正してほしい。
できれば、その先になにも遺恨を残さず、この地上からすべてを消し去って。
我が思い、永遠と成る。
「以上になります」
どういう天の采配か、八坂はラテン語に造詣が深く、辞書を使いながらではあったが碑文を訳した。
「すげーな八坂さん、ラテン語できる人間なんて初めて見たぜ俺は」
桐谷は見たこともない、そして死語である言語を事も無げに操る同僚に尊敬の眼差しを向ける。
「今ヨーロッパで使われている言語のほとんどはラテン語を基にしています。ドイツ語やフランス語を習得する前に学べば効率が上がるのですよ」
澄まし顔で携帯に訳文を打ち込みながら八坂は言葉を返す。
「それに日常で使えるほど習熟させたわけではありませんので」
「謙遜してもその語学力が役に立ったのは事実よ、ありがとう」
色々な国からの書類―日本語や英語以外でも届けられる―を処理しなければいけない武家は一度ならずサポートされていることを思い出しながら礼を述べる。
「もったいなきお言葉。この程度のお力添えならば幾らでもさせていただきます」
「この文章は一体誰が書いたものなんでしょう」
最初に石碑を見つけた陵前は裏側にはなにか書いてないかと回り込みながら呟く。
「サインは無かったのよね?」
回り込んだ後、何もないらしかった反応を返された武家は確認しつつ八坂に聞く。
「はい、ありませんでした。私が特に苦労もなく文章を読めたことから、そう昔のものではないと思われます」
八坂は少なくとも千年は遡らない、と付け加える。
「999年は遡るかもしれないってこよね、それじゃあ洗うのは無理そうねえ」
「文章の内容から本州からまだ人が来ていない年代…400年以上前ではあると思われます」
江戸時代以前の先住民は無事のままだったと石碑は記す。では、それとは民族がそも違う人らはどうなった…いや、どうなっているのか。考えるべくもない。
「なら史料が残っている可能性もほぼないじゃない」
武家はその既に迷宮入りをとっくに果たしたように見える事件の手がかりをしかし興味深そうに見つめる。
「尋常じゃ……ないですよね」
常識が通じない世界がそこには存在しそうで、更にその世界に一歩入りかけている陵前は身震いを禁じ得ない。
ここの誰よりも深いところにいるらしい者から発せられる言葉にしては鼻白む物言いに武家は目線を遣っただけであとは鼻を鳴らし口は開かない。
「そうだな、元々が人間離れした事件性だったんだ。なにか普通じゃないものが潜んでいても不思議じゃない」
主人に変わって桐谷が言葉を返す。
「いかにこの事件不可解で不明瞭と、実際に何が起こっているか分からないといえども、私たちは手がかりを持っているのよ。怖じ気づかずここまで来たらとことんやりましょう」
「……私は、逃げられる立場にはありません。一般の方々に協力を仰いでおいで、その途中で怖いからと手を引くわけにはいかないのもそうですし、何より私自身が手がかりでありますから」
たしなめるような言の武家に少しうつむきながら陵前は申し訳なさ気に腰を引いていたことを弁明する。
「ならよし、私たちはあなたに最大限解決するための援助は惜しまない、あなたはあなたで解決するために最大限努力しなさい」
忠告も程ほどに、と武家は咳払いをひとつして改めて陵前に向く。
「この際だからはっきりと言うわ、あなたね、あの石碑を見ているときにね、消えかけていたのよ」
言っておかねばならないこと、武家らが引き留めていなければたぶんあのまま姿を虚空へ消し去っていたであろう。
「と、言われてもピンとは来ませんが。…何にせよ私の身に危険が迫っていたのは確かなのですね?」
肩を掴まれたときの3人の鬼気迫る表情を思い出す。冗談では済まない事態だったに違いない。
「ああ、あれこそ普通じゃなかった。灯台もと暗しかお前自身はいまいち理解できていないようだが。しかし見ているこっちからすれば得もいわれぬ恐怖だったよ」
その先を想像していた桐谷はその筆舌尽くしがたい感覚を思いだし、またしても胃の辺りがむかついてしまう。
「そこまで言っているんだ、十分気に留めておきますよ。なるべく呆けないようにもします」
陵前としては正直自覚がない。少し意識を飛ばして上の空でいたらあの石碑が気になった、有無を言わさぬ引力を感じたのだ。
これからも同じようなことがあるとして、自分を強く保つ自信はあまりない。
「私としても陵前さんがふらふらとどこかへ行ってしまわないよう気を配っておくわ」
「そうしてもらえると助かります」
陵前と武家の二人は改めて相互協力の言葉を交わした。
「そうと決まれば輿水の小屋に急ぎましょうか」
(ブレてる、ごめんね)
借りた鍵を使い、小屋の中に入る。
輿水はある程度の用意をしてからいなくなったとの話通り、部屋は殺風景なものだった。
「これじゃあほんとに夜逃げの体ねぇ。…部屋もひとつとロフトがあるくらいじゃない」
キャンプ場にある低級なコテージを想像してもらえばいいだろうか。
不動産屋風に言うならばロフト付き1DKでトイレ付き風呂なし、くらいだ。
「風呂は近場の温泉ですか。まあ確かに、一人で何かをするためにこもるなら最適とも言えますね」
玄関を除けば唯一の扉を覗きこみ、そこがシステムバスではないただのトイレであるのを確認した桐谷はカーペットが敷かれ、上に長方形のテーブルが置いてある場所に座った。
「仕事場っていうよりはここで暮らしていたって感じよね」
ロフトも含め色々と部屋を物色しながら最後に使い込まれたらしいキッチンのコンロ回りを見て、桐谷と対面する形に座る。
それでも、テーブルや家電品、本棚に残されている本以外には部屋になにもない。武家が夜逃げと称すよりかは綺麗な部屋、そう感じられる。
「掃除もきちんとされているようですね、綺麗好きなんでしょうか」
陵前はテレビの上を指でなぞり、ほこりがつかないことに感心する。その綺麗さを殊更際立たせているのは塵ごみのない床、染みのないカーペット等々である。
「と、言うよりは几帳面な方なのではないでしょうか」
本棚を一式見てから八坂はそう判断する。本は分類別――レポートや図鑑、その他ハードカバーや文庫本など――に見目よく並べられている。
「ま、部屋の綺麗さにまで気が回るようなそれだと一緒には居づらいかもね。何ヵ月も放っておいてほこりも少ないなんて、余程よ」
八坂や陵前はそこから浮かぶ人物像に少なからず好感を持っている。だが武家は捉えようによっては人間味を欠くとも思える小綺麗さが鼻につくらしい。
「輿水が綺麗好きかどうかなんてどうでもいいさ、早くその本を読んでしまおうぜ」
桐谷は言葉通り関心を持たない。既に陽が傾きかけていることを思えばそんなことに気を払う時間はないといえばそうなのだが。
「そう思うなら本を下ろすの手伝ってください」
目ぼしいものをつまみ始めた八坂は座っている桐谷にじろりと目線を寄越す。
「おっと、すみません。……確かにこれだけ整理されてると目当てのものも探しやすそうで助かりますね」
さしあたって資料になりそう、あるいは輿水本人の動向が書かれていそうな本を抜いてくる。
ファイルにまとめられた調査書は見やすい。
「いろんなこと調べてるみたいだけど……」
地勢調査が主である。ホテルお抱えということもあり、それをどのような事業を起こせばどのくらいの利益、経済効果が生まれるかなども考察されている。
しかし何冊か読み進めた後にある箇所からテーマが変わっていることに桐谷が気づいた。
「……どうやら輿水は調査を進めている内に不自然に人が消えていることに気づいたようですね」
管内で聞き取りなどをしている時にそういう話をよく聞くようになった、とその束の一枚には書かれている。
「気づいた時は……去年の秋ごろか。ずいぶん早いわね」
桐谷は他3人に見えるようテーブルに置き、そのページを読みながら陵前をちらりと見る。
「うちの方でも問題に上がり始めたのはその辺からですよ。それまではたいした人数じゃないと黙殺していました」
今思えばこの人口が千にも満たない地域で定期的に行方不明者がでている時点でおかしかったのでしょうけど、とも付け足す。
「それからの調査はだんだんとそれ関係に偏っていっている、ことの重大さにも気づいたってことかしらね」
「ならどうして上司に連絡したり警察へ情報提供しなかったのでしょう」
桐谷がその先のレポートを確かめながら疑問を上げる。
「それの事件性に確証が持てなかった。それか何か隠蔽したいこと、隠蔽とまでは言わなくても他人に突っ込んでもらいたくなかったか」
片肘を支えにして考え込みながら武家は推察を続けている。何分当たり障りのない、露呈しても問題にはなりそうもないものしかない。
煮詰まっている3人をよそ目に、八坂はあるノートの最初らへんのページを斜め読みしながら確信した、これは事件に踏み込む鍵になると。
「このノートを読めば諸々わかると思います」
「それは、言っていた何語か分からないノート……」
3人はそのノートをしげしげと見つめる。表紙には題名らしいものが書いてあるがアルファベットの羅列にピンと来るものはない。
だが、察したらしい武家がはっとなる。
「まさかそれ、ラテン語で書かれているんじゃない?」
「そのまさかです。このノートの題名、というかこれ自身がメッセージみたいなものなんですが。これには」
読めるものだけが読め
「と、書かれてあります。少し拝見しましたが中々興味深い内容のようです」
珍しく一気にまくしたてた八坂は息を一つ吐く。
「読めるものだけが読め……、そりゃあラテン語なんぞで書かれていたら読める奴なんてほとんどいねえだろ」
桐谷はさらさらとページをめくるが、さっぱりだ、と読み解くのを投げる。
「多人数に知られて大事になり逆に信憑性が薄くなってしまうことへの心配や、あるいはラテン語を読めないとこの事件に関わる資格はない、とも書いてあります」
話が話で、現実味がないために戯れ言としか捉えられなくなってしまう、ということ。
資格、と聞いて4人が思い浮かべるのはやはり陵前が見つけた碑文だろう。八坂がいなければそれは欠片も手がかりにならなかったのだから。
「それを書いたのは……輿水なのよね?」
表紙には署名がない。だがノートは決して羊皮紙だったり和紙だったりはせず、現代の文房具屋ならどこでも置いてあるであろう大学ノートだ。
「恐らくは。中にも署名はありませんが文章のまとめかたが同じなので」
「なるほど、他にも内容はもちろん書いた理由とかも色々知りたいところだけど。八坂さん、あなたそれどれくらいの時間で読める?」
「読むだけなら半日で、訳すのならそこからさらに半日頂ければ」
ノートは一冊だけ、それも全部のページに書いてあるわけでも隈無く字で埋められているわけでもない。
「なら1日ね、八坂さんは旅館でもここでもいいからその作業をしてください」
かしこまりました、と八坂は早速辞書を立ち上げて訳に取りかかる。
「俺たちは何を?」
その間手持ち無沙汰になる3人はどうするのかと桐谷と陵前が目を向ける。
「そうね、今日はもうやれることないわ。風呂にでも入って英気を養いましょう。」
陵前は八坂を窺い見るが、こちらは気にせず、というような視線を寄越すだけだ。
「明日は多比さんを見舞いにいきましょう。私は特に用はないから大丈夫よ」
「意識は戻っていますかね」
多比、と聞いて陵前は心配げにため息を吐く。
「さあね。今のところそれしかやることないんだし行くしかないわ、暇は嫌いだもの」
八坂さんは英語中国語スペイン語フランス語ドイツ語とかもできる
当然医師免許も持ってる