7.その世界へ片足を
彼がこの湖で起きていることに気づき、調べて始めてから既に2ヶ月が過ぎようとしていた。調べれば調べるほど一連の事件の不可解さは深まっていくばかりである。
「こんなことして誰か読む奴いるか……?」
自分の頭の中での整理を兼ねてまとめのレポートを書こうと思ったのだが、恐らく内容は相当あれなものが出来上がる。
自分の上司が、容赦なく処分する姿を簡単に思い浮かべることができるくらいには。
「思い付いておいてなんだが、ラテン語っていうのは……」
それを防ぐために、一部の人間しかわからない言語を使って書けばいいだろうと思い立った。なぜラテン語かと聞かれれば、読める人間が限りなく少ない上に死語という特性上それを学ぶ人間は相当な物好きだと予想されるからだ。この事件に関わるのはそんくらいの人間の方がいい。
と、考えたときには妙案だと思ったものだがいざ書いてみるとそんな人がここに来てこれを読む確率なんてものすごく低いんじゃないだろうかと思い直している次第である。
「やり始めたからには最後までやるけども」
独り言が激しいのは疲れているからだろう、ラテン語なんて慣れないを通り越している。時間がかかりすぎるのだ。
愚痴をこぼしこぼし彼は辞書を使いながら文章を書き込んでいく。
人間ではない誰か……精神病患者……別の世界……。
「それで、なんとかっていう人の小屋ってどこにあるんです?」
駐在所を後にした一行は湖岸沿いの道――アスファルトで舗装されている――を歩いている。
場所を菅頭から聞いた武家と八坂の案内で進む。元々住宅街と呼べる場所もないところであるが二人の先には更に人の気配がしない。
「あそこに橋があるでしょう。あれを渡った先に坂があって、それを登ったとこにあるそうよ」
桐谷が武家の指差す方向を見ると鉄橋らしきものがある。その先には…更に奥に続くらしい道と深い緑を湛えた森が見える。カルデラという地形上、おそらく森には傾斜がついているのだろう。
「坂って言っても舗装はされてるし急なところには階段もついてるから普通に登れるんだけどね」
「行ったことがおありで?」
付け足される実際的で詳しい説明に桐谷はそう類推する。
「ええ、それも何度かね。この前来たときは行かなかったんだけど。でも正直小屋なんかあったかしらという感じなのよ」
武家と八坂は昨冬にここを今と同じ理由で訪れている。もちろん、ここが失踪者のメッカであることは知らなかったわけだが。
私はそこにある温泉を目当てにいってただけだからね、という言葉を横で聞きながら橋の手前まで来た。
「川線鉄橋…ですか」
観光客向けとおぼしき背の低い立て看板がある。そこにはその昔ここに走っていた鉄道のことについて書かれている。
「今は車に任を譲っているからね。これはその名残よ。北海道最古の、19世紀よりで由緒正しいんだから」
たしかに1899年英国で製造、らしい。川線というのは別名で、海沿いを走っている鉄道を海線と呼んだのに対し、この鉄道は川沿いを走るからそうあだ名付けられたそうだ。
「何度か来ていますがこうやって散策することは初めてなので…勉強になります」
「どういたしまして。陵前さんは……ってあら?」
気づくと陵前の姿が見えない。どこにいったかと辺りを見回すと。
「もう橋を渡ったようです、あちらに」
八坂が手を向けた方向に立っていた。そこになにがあるのかと目を凝らすも、そこにはなにもないように見える。
その陵前は不可思議な石碑を見つめ、観察していた。
見つけた瞬間、それに吸い寄せられるのを感じたのだ。周りが別のところで立ち止まっていてもその引力には抗えなかった。
自分はこれを知っている、感じたことがある、覗いたことがある。
(この言語はなんだ…?)
日本語ではない、アルファベットを使っている。英語でもなければスペイン語やドイツ語ですらないように思える。見たことのない言語だ。
(でもこの文脈はたしか……)
――…ラテン……を読…いと…しにならんからな…――
(ラテン語……のものだったように思える)
頭の中の精神意識の外がそう告げている、妙な確信があった。
(少女に触れたときの景色…石碑…ラテン語……)
それらを線で結ぶとある一点に向かっていく気がする。
(輿水、研治……)
空には雲が張りだし、湖には何筋かの光が差している。
考え込んでいる陵前は気がつかない。
自身の存在が希薄に……、いや、限りなく似ているけども根本的な何かが違うどこかへと移りかけている。
「陵前さん!?」
武家が余裕の表情を消し、焦燥するような、恐怖するような表情で陵前に向かって走っていく。
八坂はそれに追随し、桐谷は驚愕の体で口を開け動けずにいる。
(あれは確かに……いや、そんな……)
桐谷の頭にあるのは、喫茶店で菅頭と話していた時にいた不審者。それとの別れ際のセリフを聞いたときに感じた色彩の薄さ。
(あれは見間違いじゃなかったのか……? だとしたらどうなって)
そこまで思考を巡らせ、そのまま色がなくなったとしたらどうなるか、そこまで考えが及ぶ。
(消えかけていた……!? なぜ…? いや、どこへ……?)
桐谷にはもし消えた場合にそれが消滅だとはなぜか思えなかった。行方不明者を探しているという状況上、心のどこかでそれは今だ存在していると思わずにいられないからだろうか。
何にせよ桐谷は、消えていった先の世界を想像した。いや、してしまった。
(あいつはどうなろうと…? 今探してるやつらは、もしかして……?)
その考えに至ると同時、胃が異常にむかつきを覚える。喫茶店で飲んだコーヒーが原因かと思うも。
(ほとんど残してたな、はは)
恐怖、畏怖を認め、胃の中のものを戻すまいと自嘲気味に思考を断ちきり二人を追いかける。
「あの、えっと……?」
橋を渡った武家は陵前の透けそうな腕をつかみ、近くのベンチに座らせた。その後、彼が本当にそこにいるのかを確かめるように顔を触っている。
「あなた、大丈夫?」
武家は頬を撫でながら神妙な顔つきで尋ねる。
「僕、何かしました?」
なぜ3人に心配するような――同時に警戒する色も隠しきれない――眼差しで見つめられているのか、陵前はわからない。
「あなた…。いえ、大丈夫ならそれで構わないわ」
武家は手を離し、立ち上がる。奇妙で異常だった先の現象は口からでない。
「たぶん私の見間違いよ、気にしないで」
「そう……ですか」
陵前は武家の後ろにいる二人も明らかに何があったかを知っている風であることに疑問を抱くが、その顔から抑えがたい拒絶が顔だしているのを察して、それ以上なにも言わない。
――一行を見つめる目がある。その姿は確かに人のもので、それを見たことがあるものもいる。白髪で、中性的だ。
姿形は鏡合わせですらない、完全に一緒だ。だがそいつは『何か』が違う。
何が違うか?それは最早、雰囲気、オーラ、としか言い表せないだろう。
「奴らは、私をどうするつもりなのだろう」
その瞳に覗くのは、この世界では決して目にかかれない色。
「……どうでもいい」
挙動、言動、行動、全ては一方に拒絶され、全ては一方に許容される。
「あそこにある石碑なんですが、読める人いません?」
息の詰まりそうな雰囲気を払おうと、陵前は声を出す。
「石碑……? そんなもんあったか?」
桐谷がはてなと思いながら指し示された方を見ると、確かに、ある。
武家もその存在を確認する、があまりにも突飛すぎる、知らぬ間に出現したかのように感じてしまい思考を巡らせる。
(今までここには何度か来てる、でも)
「お嬢様」
それを見つめて目を見開く武家に八坂が正気付くよう声をかける。
「……八坂さん、あれって前からあった?」
武家は八坂を見ず、石碑を一点凝視しながら確認を求める。
「…いえ、存在していなかったように思います。更にいうと橋を渡る前にもありませんでした」
八坂は石碑に近づく陵前と桐谷を横目に、そう返す。
(どういうこと……? ならいつ、どうやって現れた……?)
武家は消えかけていた陵前を思い出す。確かあれは、何もないところを見つめていたようだったとも。
「お嬢様。この事件は、いささか難解、そして得体の知れない何かが潜んでいるように思います」
今までを総合すべくもない、ここ5分の出来事だけでそう判断するのはたやすい。
武家は少し考える、このままこの事件と関わり続けるべきだろうかと。
元々事件の特異性に興味が沸いて首を突っ込んだのである、離脱はいつでも可能だ。
「ふん…、今さらね。ここで怖じ気づいてたら武家の名折れ」
強がりである、…怖じ気づいている、認めよう。体が覚えている震えは、勇んでいるのではない。しかしながら、逃げの選択肢はない。
「やるなら、最期までよ」