5.裏と表は一体となる
この世界に来てから一体何日が経ったのか。携帯の電源はとうに切れ、ただ昼と夜を繰り返す空は一日たりとて陽を見せない。自動巻きの腕時計も既に合っているのかいないのか。
彼はこんな世界に来れた、いやこの世界のことを理解できた、それだけで満足だと思っている。ただの好奇心だ。いつぞや彼に突っかかってきたあの警官のように人々を助けたいと思ったわけでは決してない。
「やりきった感は、あるかなぁ……」
既に体は動かない、意識はもう今にも飛びそうだ。
「あぁ、こんな幻想小説か神話か、それでなきゃ何かの宗教の戒めにある地獄のような世界があった。それだけで俺は」
顔を起こして腕を見る、消えかかっている……? いやもう何もないか……。
「頼まれ事も……、片手間だったがやり終えた」
もう存在はないに等しい。直に消えていくのだろう……。
「……何かもう少しヒントを残しておいた方がよかっただろうか。もう遅い……な」
人は脆く、儚い。
世界は薄い二枚のベールに挟まれたかのような、ベールを破ればその先は混沌と闇と。
それを彼は、知った。この世はこんなにも不可思議で、人知を越えた先にある理解できないものを理解できた。
あぁ、深淵へと到達した。これ以上の何か達成感、他にあるのだろうか。後悔は、微塵も、ない。
やがて彼はまぶたを閉じ、意識を手放す。それと同時に割り箸を繋げて形作ったかのように頼りなかったその輪郭は、その造形を、存在を、宙へと消え去った。
「お疲れさまです。会議は終わりましたか?」
正午ごろ、武家たちが会議していたホテルから武家と八坂の二人がどこか晴れやかな顔をして外にでてきた。
その二人の後ろには以前の会議にも姿を見せていた武家グループ関連会社の観光担当がまんじりともせずうつむきがちな微妙な顔でついてきていた。
「おや、後ろの人は確か……」
「手がかりよ、3時間の収穫」
当の本人が何かしゃべる暇もなく間髪入れずに武家が無作法にそういう。
「会議中に行方不明者について聞いてみたら反応した人なのよ。事が事だから皆がいる場所では話せないってことで」
「適当な喫茶店にでも入って詳しく話を聞きましょうってなったんですよ」
目線を交わせつつ武家と八坂は言葉を継ぎ継ぎ、説明する。
「それはそれは、お手柄ですねえ。陵前もそれを聞いたら喜びますよ」
連れてこられた側にしてみればなんとも形容しがたい会話を繰り広げる二人。
「そういえば、その陵前さんが見当たらないみたいだけど?」
「色々あって別行動中です、その話はまたあとで」
そう、と後ろがついてきているかを確認するため後ろを一瞥して歩みを進める。
この温泉街は明治末にこの地の木材資源に根差した製紙会社、加えて昭和初期に周辺で次々と見つかった鉱山、それら木や石を運ぶための船を着ける場所として興った。
また周りにある火山に付随して湖付近からは温泉が湧き出る。よって集まった人々、疲れを癒す湯、当然のこととして旅館も建てられる。支老湖と太平洋を結ぶ鉄道も整備されていたが、戦後に道路整備が進むにつれ船は観光用としてだけ、鉄道はそもそも廃線となった。
しかしそれで人がいなくなったわけではない。
道路が1本2本と敷かれ、気づけば支笏湖は四方に延びる道の要衝となっていたのだ。
それから平成の今に至るまで風光明媚な景観、鉱山資源は涸れども未だ止めどなく湧き出る温泉、車で来やすいアクセスのよさを武器に観光地として操業しているわけである。
旅館が建てば同時に土産物屋とか喫茶店とかも軒を連ねることになる。
「さて、洗いざらい知っていることはすべて話してもらいましょうか」
そして武家はそんな喫茶店の一つで半分ゆすりのような形で机に片手を突き問い詰めている。その言葉にたじろいだのかどうなのか、少し考えるような手振りをした後、ため息をついて男は話始めた。
「いえ、別に私もそこまで黙秘をするというわけでもなくあなたたちが誰にも言わないで頂けるなら話しても構わないのですが」
あらそう? と少し残念そうに手を離し男と対面した側の椅子に座る。
「いざとなったら私がかかえている探偵の桐谷くんに説得してもおうと思っていたのだけど」
桐谷は苦笑し、店員を呼びつけてコーヒーを人数分注文する。
「……私としてもいずれ解決はしないといけない案件なので」
男は名刺を武家に渡し、自分はここにある旅館グループの広報担当だと名乗った。
「菅頭さん、ね。覚えておくわ」
名刺を一式見たあとに同じ机の椅子に座っている桐谷に挨拶するよう目線を配る。
「先程も紹介されたような気がしますが。桐谷です、探偵をやりつつ会長の警護などをやらせてもらっています」
「それで、ここの人間ならわたしらには知り得ないものも知ってておかしくないけど」
それでもあくまで攻める姿勢でいたいのかなじるような口調で武家は詰め寄る。
「いえ、特別な何かを知っているというわけではありません」
そこでウェイターがもってきたコーヒーを一口すすり。
「単純です。私の部下が行方不明になったんですよ。名前は輿水研史、彼には支老湖周辺を色々と調べさせていたのだが1月から3月の間に消息不明になってしまった」
菅頭は手さげの革鞄から何かの名簿らしきものを開き3人に見せる。
「なるほど、警察に届け出はしたのかしら?」
「もちろん。ここの駐在所に通報しましたよ。その時の警官の対応からもしやと思っていましたが、やはり他にも同じことになっている人がいるんですか」
「ええ、それも大量にね。あなたの部下さんみたいに通報が遅れるような人ばかりを狙った犯行よ」
武家は名簿中の1月から3月はフリーで活動させていた旨の記述を睨む。
「それはあいつのしている調査が少し込み入ってるからとその期間自由にさせてやったのだ。連絡も入れないでくれと言われていた。」
オーダーをした後は特になにも言わずに二人の話を聞いていた桐谷が口を開いた。
「連絡もですか。それじゃあどうやってその輿水さんがいなくなったってわかったんです?」
「定期報告を命じていたからだよ。その期日になっても何も言ってこないから使わせていた小屋に行っても誰もいない、家にも戻っていなかった」
「親類はいないのか?」
「ああ、親には先立たれ兄弟はいないそうだ。遠縁はいるにはいるらしいが連絡先など知らない」
それよりも気になることが、と菅頭は懐から鍵を取り出した。「これはさっき話に出た小屋のものだが、その小屋の中が少し不可解なんだよ――」
3人が話をしている間、八坂は参加せず周りに話を盗み聞く輩がいないかと気を配っていた。
まだ集団行方不明のことが公表されておらず、このようにあまり注目を浴びないものばかりがさらわれているため噂にもなっていない。
それならば武家の人間としては情報の流出を防ぎたかった。平日の昼間でもあり客入りはまばら、聞き耳をたてているものがいればすぐわかるしそもそもそんな人間がいそうな雰囲気ではなかった…のだが。
(あら、あの席に人が座っていたかしら)
年齢は恐らく30代前半だろう、だが地毛か染めているのかはわからないが髪の色がベージュのかかった白で、それがために一歩二歩老けているように感じさせる。
顔は中性的で服装も男性用とも女性用とも思えるから性別はうかがい知れない。
入店時にはいなかった、ように思える。しかしここに来てからの20分ほど、八坂はある程度神経を使って店内を見回していた。
最初からいたものはもちろん途中から入ってきた客も把握している、つもりだった。
自分の注意力不足、では片付けられない何かがあるような気がしてならない。
「すいません、ちょっと」
桐谷に小声で話しかけその者を指差す。
「はいはい……。っと、聞いてるんですかねあれは」
自分が見落としたというのもそうだがその視線がこちらに向けられているというのも、問題である。
しかし、二人が気づいたからかどうなのか相手は見つめるのをやめ立ち上がって店の外へ行こうとしてしまう。
「ちょっと席を外します」
桐谷はそのあとを追い、武家と菅頭が話し合っている間も八坂は、なぜその存在を認識できなかったかを考えていた。