2.財閥会長と侍女
武家 奈代と八阪 姫侍は武家財閥関連会社の重役が集まる会議のために冬の支老湖へやってきていた。
その日の会議も終わり、温泉街から少し離れた散歩道へと足を向けていた。武家は姓からもわかる通り会議参加者、八坂は武家の体調を監視する専属医師――特に持病があるというわけではない――、それと身辺で起こる雑務係だ。
「やっぱりここはいつ来ても静かで風情があるわね」
深々と降り積もった雪、そしてこの寒さでも凍らない湖を見つめながら武家はそう呟く。
「風情はいいですが早く戻らないと風邪を引いてしまいます」
ここいらの住人らしくしっかりと着込んではいるがそれでも寒いのか両手で肘をおさえながら八坂は武家へうながす。
「あら、寒くて堪らないって顔してるわね。でもこの寒さもまた情緒をかきたてるいいアクセントになってるのよ」
色んな方向を見渡し感慨深そうに歩く武家と身震いをしながら歩調を合わせてついていく八坂。
その散歩は武家が十分に支老湖の雰囲気を味わうまで続いた……。
支老湖は周りの都市から少々離れたところにある。
陵前や桐谷がいる万才市からは車で30分、その他四つの都市と繋がる道があるがいずれも1時間以上の道のりを要する。公共交通機関はかろうじて一日往復3本のバスが万才市から出ているだけで他には何もない。
そんな立地であるが、いやそんな立地だからこそかもしれない。ここにある旅館は大半が高級であることは。温泉街と呼べる場所もあるがどれも一泊2万円はくだらない旅館ばかりだ。
そんな温泉街を取り仕切るのは武家財閥――起りは平安まで遡ると言われる。昔には川内屋とも呼称された武家家を長とする企業集団で、財閥解体後も生き残り現在まで財閥としての形態を残している――の会長、武家奈代である。
前職の父親が経営管理に専念するため会長職から辞任、23歳で就任することとなった。そんな彼女であるが会合のために借りたここ支老湖温泉街をえらく気に入り、経営改善も兼ねて一帯を買収。その後の経営も概ね順調で経営者としての手腕も内外へ示せたのである。
「……っていうことになってるんだけどねぇ。実際には普通に利益を見込める場所だったから以前より目を付けてたってだけなのよ。結局大体のことは父がやっちゃってる。ここを気に入ってるのは本当のことだけどさ。でもまあ、所詮は私なんてお飾りに過ぎないのよ」
札幌市の郊外にある武家家が所持している邸宅で様々な書類に印鑑を押しながら愚痴のように言葉を吐く。
実際問題彼女の言った通り実務は現在取締役に身を引いている父親がやっているし、支老湖周辺の事業主も年端もいかないものにやらせては何をやらかすかわからぬとその父親やその部下へほぼ全てを一任している。飾り、と自嘲してしまうのも仕方ないのかもしれない。
しかしそんな言葉が出てしまうのはそんな仕事でも何かと心労は溜まるということなのだろう。
「ごめん、これ何語かさっぱりわかんないわ。せめて英語にして送りなさいよね」
「ドイツ語でございますね、わたくしが訳しましょう」
八坂はいつの間にか淹れていたらしいコーヒーを主が降参の体で投げた資料の代わりに近くの机に置く。
「ありがとう。いやこうも書類仕事ばっかりだと気も滅入っちゃうわ」
いまだ底を見せない紙の山を前にため息一つ、そして付けられた砂糖を半分ほど入れコーヒーを啜る。
「次の会議っていつだっけ。おっさんどもの相手しないといけないのはめんどいけど外に出れるってのと小旅行気分で少しは楽しめるでしょう」
「来週の頭からですね。出席される方は――」
説明を加えようとしたところに八坂の懐から携帯のコール音が鳴る。
「すみません、ちょっと」
「はい、八坂」
「八阪さんか、こちら桐谷です。ちょっと来週の集まりについて相談がありまして」
八阪と桐谷は武家の直属の部下だ。直属というのは、八阪は専属医師兼身の回りの世話役、桐谷は何か有事があった時の諜報役と警護を主な仕事としている。ただ単に武家個人が雇っているという以上にもっと密な関係を持っているということである。
3人の関係もまた10年以上のもので、信頼関係も大きい。
「丁度こちらでもその話をしていたところです。で、どんな用件でしょう」
知り合いの警官と自身が数か月前に同様の理由で捜査をしていたこと。
自らは何も得られなかったがその警官が捜査途中に一部の記憶を失って病院へ運搬されたこと。
これからその事件について二人で調査を再開することになったこと。
それと誘拐の動機が全く見えず他にも色々とおかしい点が多いこと。等々、桐谷は二人が置かれている状況を説明した。
「もっときちんと説明してもらわないと難しそうな境遇にあるようだけど。でも理解はしたわ。その上で私たちが気にしないといけないことって何なのかしら」
「ああ、その調査が会合の日程と被っちまったんだ。言ってる陵前って奴もあまり暇は取れないみたいでな。支老湖まで同行させて俺は仕事の合間に陵前の手伝いをやりたいんだがどうだろうか」
八阪は少し考えてから、不承不承という感じで口を開いた。
「私としては不穏分子を増やしてほしくはないのだけれど。それにこちらの仕事が先に入っているんだから。でもいいでしょう、お嬢様に話してみます」
「助かるぜ、八坂さん」
少々お待ちを、と受話器を口から離した。
「はい、お電話変わりましたよ」
上機嫌な様子で受話器を取る武家。
八坂が桐谷からの話をそのまま伝え、それを聞いた彼女はその誘拐事件に興味が湧いたようで。
「桐谷さん、随分面白そうなことに巻き込まれてるじゃない。そういうことは私にも聞かせなさいよ」
「面白そう、ですか。まあそう思われると思って電話をかけたんですが」
少々食い気味に話を聞こうとするのであった。
「最近書類整理ばっかでつまんないしさ、向こう行ってもどうせやることなんておっさんじいさんの話聞くだけなんだから。刺激がありそうなことならなんでも歓迎よ」
そういう武家の気持ちをわかっていて桐谷はこの話を持ちかけたのである。
会合とはいっても武家自身が何か表立ってプレゼンテーションなどをする場面もなし、基本的には暇なのだから。
「ならこの話は了承してもらえるってことで」
「ええ、いいわ。でもその陵前警官とやらに伝えておいてちょうだい」
そこで一度言葉を切り、さらに一拍置いてから。
「私も調査に加わるわ、できる限り協力してあげるから期待してなさい。ってね」