1.警官と探偵
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「あ」
そのものは初めて言葉を発した。我々の世界において幸運だったのはこのものを制御できうる存在がその時にいたということである。
「声が出た。大分私もあいつらしくなった」
しかし時の流れは残酷だ。我々はいつか死ぬ。その後に起こることを正確には予想できない。
「……腹が減った、とでも言えばいいのか。とりあえず何か食べたい」
散った葉も枯れた草もすべてが雪に埋もれる厳冬の支老湖。その湖畔に二人の男がいた。二人は何やら言葉を交わしあっている。あれがどうだこれがどうだ、一人がまくし立てるがもう一人は意にも介しない。
やがて、その場には一人だけが残った。もう一人は、湖に導かれて、ここに似てはいるけれど明らかに異なる世界へと向かう。
2月下旬、陵前 博衛が万才市支老湖湖畔にある緩翼キャンプ場で倒れていた。備品の確認でキャンプ場に来ていた管理人が見つけ、すでにある程度の時間気を失っていたようで凍傷を負っていたため救急に搬送されることとなった。
低体温症から回復する頃には意識は戻ったが記憶が混濁している。支老湖に何をしに来たか――これは彼の上司に知らされたが――、誰と会っていたか、何をしていたかなどを全く思い出せない状況だったのだ。
「して、体調は戻ったかね」
その後、陵前は精神病院で何度かのカウンセリングを受け、記憶の喪失以外の精神外傷が見られないため1月ほどで日常の生活に戻ることができた。
そして復帰してから2月と幾らかほど経ったある日、勤務先の万才市警察署刑事課の課長に呼び出されていた。
「ええ、まあ、お陰さまで」
「体調は戻っても記憶は戻らんのだろう。人員不足でお前一人を危険に晒してしまった、すまんな」
「いえ、本捜査ではなかったのです……。それにこの記憶がなにか手がかりになるかもしれません、早く思い出すよう努力しますよ」
支老湖へ出向いていたのはある事件を調査するためであった。支老湖周辺には余り人が住んでいない。国立公園に指定されており住宅地の面積が少なく、開発も進まない。温泉が湧きでているため湯治客を迎え入れる旅館やそれに付する土産物屋や食事処はあるが、それっきりである。
当然人口も少ないわけだが陵前が病院に運ばれる半年前、年を逆に跨いで8月頃から、観光客の行方不明者が徐々に増え始めたのである。
元々「死蝋」湖と縁起の悪い単語に通ずる場所であるから自殺の名所などと噂される場所ではあるのだが(実際には水死体が死蝋になることはありえない)そんな噂に乗せられここで入水自殺に踏み込むものなどいなかった。
しかしそれが半年の間に1か月当たりに一人、二人と増え、2月に入ると二桁に届こうかという人数に達したのである。
「お前が休養を取っている間にいなくなっちまう奴が増えてな…、ここまで来るとさすがに公表しないとまずい状況かもしれん」
上司は表計算ソフトでまとめられたデータを戸棚から取り出し、手渡した。それには行方不明者の推移と詳細と銘打たれており、確かに人数は右肩上がりで増えているらしかった。
「なるほど……、これはまずいですね。しかしやはりですか、身寄りがなかったりあっても周囲のものと疎遠になっているものが行方をくらませているのは」
「ああ、大事にしたくないのだろう。これほどの人数の身辺をどうやって調べているのかも気になるところではあるんだが」
不明者は老若男女を問わず調査を始める前の行方不明者もソートされて載っている。だが共通しているのは支老湖に一人で来ているということ。
それと通報されるのにある程度時間のかかるもの…、実際かかったものということだった。
「公表もここまで範囲が広まってしまうとせねばならないのだがいかんせん情報が足りん。このままよく分かってませんがなんか人がいなくなってます、っていうのもな」
上司は何かを戸棚の適当な引き出しから探し出そうとしながらため息を吐く。
「そこで世間が納得できるくらいの情報を集めてくる目的で僕が出向いたんですが、何も得られなくて……」
「いや、事態の深刻さを見誤った私側のミスだ。とはいっても詳しいことが分からん以上応援人員を上が回してくれるわけでもない、うちもカツカツだ」
それは、また彼の地へ赴かなければならないことを示されているような言葉だった。
「僕にもう一回調査へ行け、と?」
「ああ、少々酷ではあると思うがその失われた記憶の中に何か隠されている可能性は高い。まあ何、また病院送りになってもらっても困るから対策は講じるつもりだ」
探し物を見つけたようで一枚の写真、それと何事かをメモした紙切れを机の上に置き陵前に見せた。
「お前が行っている同時期に同じく調査をしていたものがいるようだ。二人調査が基本…だしな。片方に何かがあっても対応できるだろう」
そこには一人の男。それと紙切れには探偵業、桐谷栖黒、などと走り書きで紹介が書いてある。
「こ、この人って……」
「このすぐ近くに居を構えている探偵らしい、一応こちら側で連絡は取ってある。その内こういう理由で警官を向かわせるかもしれんとな」
支老湖には緩翼キャンプ場の他に3つのキャンプ場がある。
それぞれに特色があり、砂浜があったり釣りのための桟橋があったりあるいはモーターボートに乗れたりなどする。その中の一つ、幌内キャンプ場の近辺で行方知らずになった友人を探してくれ、という依頼を万歳市在住の探偵である桐谷 栖黒は受けていた。
しかしその頃は冬であり支老湖は雪と風で何もかもが埋もれる。そんなところに足跡も目撃者も見つからず調査は全くの手の付けられないものであった。
「結局、何もわからず仕舞いか」
寒風吹きすさぶ湖畔、桐谷は立ち尽くしていた。
「依頼人になんて言い訳しようか…。めんどくせえなあ」
手元の依頼書らしき紙を見つめ頭を振る。そうしてから湖に顔を向けていたのだが。
「行くか。お嬢様のところにも出向かんといかん」
車に乗って彼は去ってしまった。湖の秘密の欠片すら解明することができずに。
陵前が配属されている万才市警察署から車で10分、また支老湖まで30分という場所に桐谷栖黒の住居はある。
桐谷は表向き探偵をしている。
その仕事は探偵らしく浮気調査や内密の不明者調査、探し物などなどでその中には警察にとって有益な情報もある。だから陵前もまた内密で桐谷に頼ることが一度ならず何度かあるのだが。
「にしても今回の案件、中々やばそうだな」
事前に話が通っており二人は知り合い同士であったため基本の情報交換はすぐ済んだ。
だが、陵前は手掛かりの記憶がなく桐谷は何の情報も得られず仕舞いなのであるからその後の対応に難儀するところである。
「俺の依頼人以外にもこんなに人数がいるとはね。しかもその調査をしたお前は病院送り。何か普通じゃないことが起こっててもおかしくないな」
「こんだけ被害者が出てる時点で普通ではないが。しかし本当にこっちでも犯人について一切情報を得られていないんだ。こんだけの規模でここまで痕跡を残さずなんて、そんなことあり得るかね」
「あり得んな。誘拐なぞ所詮は金かよろしくない目的のためにやるもんだ。前者なら脅迫、後者なら死体かそうじゃなけりゃ病院送りなんだ、ここまでその後の音沙汰の無い犯行などなんの目的でやるのか皆目見当もつかん」
事実、この件の不明者の連絡を受けるのは大体が泊まり先であろう旅館かそれかどこかのオフィスからである。
金を用意しろとかいう脅しを受けた金持ちや全身を殴打された死骸が発見された現場などは見つかっていない。半年前以上も前からこうだったのにもかかわらず。
「そうだな、向こうにも駐在所はあるがやはり何もわからないらしい。うちに入ってくる情報も不明者についてばかりで犯人については全くだ」
「そこで俺を頼った…、いや違うか。俺自身は何も情報を持っていない、持っているとしたらお前のその頭の中にあるぽっかり空いた穴、俺はそれの目付役といったところか。」
桐谷はあごに手を当て考え込みながらそう言う。
「理解が早くて助かる。自分で言うのもなんだが手掛かりが俺しかいないんだ。でもうちで出せる人員がいなくてどうにもでな」
「謝礼も出るわけだし構わんよ。きちんとした仕事なら大歓迎だ。……早速で悪いが日程や調査の詳細を教えてくれんか」
できればこの日時に行いたいのだがと前置きをし、その上で支老湖駐在所や陵前が倒れていた緩翼キャンプ場、それに周辺住民への聞き込みなどを行いたいと桐谷に伝えた。
「ふむ、調査はかまわんが日程がな。その前後一週間はあれがある」
スケジュールを見ながら桐谷は渋い顔をする。
「ならこっちで考えておこうか、1か月後とかになると思うが」
「いや一度確認してみよう。暇はある仕事だからもしかしたら合間にやれるかもしれん」
携帯を取り出して慣れた手つきで番号を探し当てる。
「用事というとあれか?お前が付き人をやっているとかいう金持ちのお嬢様の」
「それだよ。仕事内容喋っちゃってもいいよな。大丈夫、あの人自体が秘密持ちみたいなもんで口は堅い」
「ああ、構わない」
それを聞くと登録してある番号を入力し、電話を耳に当てた。