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第12’章 最後の日(4)

 泥が跳ねる音がして隣を見ると、シリウスが馬から下りてあたしの隣に立っていた。

 疲れきったその顔。彼は戸惑って混乱した様子で、あたしを見つめていた。

「……説明してくれる?」

 その黒い長い髪を大粒の雫が伝う。既に彼は全身に雨の衣をまとっていた。何の準備もなくいつも通りの姿で城を出て来たのだろう。

 その顔色の青さに、あたしは彼が風邪を引いていることを思い出す。そして、明日が立太子の儀だということも。

 慌てて被っていた帽子を脱ぐと、髪留めが一緒に外れ、あたしの頬に流れ落ちた。


「とりあえず、宮へ戻りましょう」

 あたしは、まだ呆然としているシリウスに帽子をかぶせるとそう言った。

 一気に大粒の雨が髪の間にしみ込んで来る。

 彼は黙ったままで馬に乗ると、あたしに手を伸ばした。手を差し出すと、それを掴んで馬上へと強く引っ張り上げられる。

 頭に帽子がかぶせられて、視界に映る鼠色の空が半分に切り裂かれた。いつの間にか雷鳴は遠のき、少しだけ雲の色も薄くなっていた。

 触れているのは僅かな部分だけなのに、そこから体全体に熱が広がる。背中全体にシリウスを感じていた。いっそのこと抱きしめてくれたら良いのにって、そう思った。



 馬は走り出し、草原を街へ向けて駆け抜ける。少しだけ明るい色に変わった草を見て、ふとさっき胸のポケットに入れたものについて思い出す。

 触れたとたん、シリウスの声が聞こえる。絞り出すような声。無理しているのがありありと分かった。

『僕は待ってるから。ずっと隣を空けて待ってるから』

 ……待つことなんて、出来ないくせに。あたしは可笑しくなる。

 シリウスは、普段は穏やかで気が長いけれど、時々びっくりするくらい短気だもの。

 この間だって、少しの時間も待てなかった。

 でも、短気な彼が、どれだけ長い間でも、一生でも待つと言ってるのだ。それが……嬉しかった。



 ふと見ると、城の門が見えて来ていた。馬を走らせている間、シリウスは一言も発しなかった。

 背中に当たる彼の胸が熱い気がした。熱が出てるのかもしれない。急いで着替えた方が良い。

 そのまま城に駆け込むのかと思いきや、彼は手綱を引き、馬を止める。

 不審に思って顔を上げようとすると頭の上に低い声が降り掛かった。


「君が無事で良かった」

 ため息まじりの言葉がこぼれた。

 あたしはその苦しみ抜いた声を聞いて一気に後ろめたい気持ちになる。

 彼が苦しんでるのを救ってあげられず、見守るしか出来なかったのだ。

「ごめんなさい」

 振り向くことも出来ず、ただそう呟いた。

「……君が謝る事は何も無い。……全部僕が悪い」

 彼はその腕をあたしの体に回そうとしたけれど、途中でためらい、結局腕は途中で止まる。

「僕は君に謝らないといけないことがたくさんあって」

「……もう、聞いたわ」

 これ以上謝ってもらうのは心臓に悪い。事情を話せるだけ話してしまいたかった。

「何を? どうして?」

 戸惑う彼に、あたしは答える。

「……あなたが言った事は全部知ってるわ。だって……あの場所にいたんだもの」

「え?」

「ミアーの隣に居たでしょ?」

「ああ………あれ、スピカだったのか!?」

 本気で気がつかなかったようだった。それにしても……あれだけのことをしておいて、夢だと全く疑わない辺りが彼らしい。

「でも……最初の日しか居なかった」

 彼は納得いかないように呟く。

「そうね。だけど……。これ、ありがとう。……嬉しかった、すごく」

 胸のポケットから例の手袋を少しだけ出すとシリウスに見せる。するとようやく合点がいったようだった。

 細かい雨粒が一粒手袋に落ち、濃いシミを作る。慌ててポケットへと仕舞い込んだ。

 これは彼から貰った三つ目のもの。一つ目は名前、二つ目はあの手紙。全部宝物だった。

 気持ちは嬉しいけれど、使う気になれなかった。こんな綺麗な手袋をしていたら戦えない。あたしのこの手は、彼を守るためにあるもの。醜い傷があっても構わない。飾る必要なんか、無い。


「……宮に一緒に帰ってくれる?」

 どうやら、彼はあたしの気持ちを確認したいらしい。

 ためらうような様子でそう尋ねられる。返事を待つその表情から、どうやらずっとそれを聞きたかったようだった。

「今、帰ってるじゃない」

 あたしがわざとそう言うと、シリウスは慌てた。

「……そう言う意味じゃなくて!」

「じゃあ、どういう意味なの?」

 逃げずに腕の中にいるって言うのに……どうして伝わらないのかしら。

 でも……どうせなら、顔を見て言って欲しかった。今しか聞けない気がしてた。

 あたしは彼の顔を見上げて返事を待ったが、やがて彼が言った言葉は、あたしが期待したものとは全く違っていた。


「一緒に宮に戻って欲しい。……ずっと傍にいて欲しいんだ」

「…………」

 ……もう言ってくれないのかしら……。

 期待しただけにがっかりした。下を向いてそっとため息をつく。


 そしてふとミアーの言葉を思い出す。


『そういう時は……こちらが怒ってみればいいんですよ。皇子の様なタイプですと、それが一番効くのです。今度試してみては? ……

 ……相手からこちらの求める反応を引き出すためには、いろんな方法があるんですよ。いつも正攻法で行く必要もありません』


 シリウスは焦れたようにあたしを引き寄せる。そして、あたしの頬に手を当てると強引に顔を覗き込んだ。

 目を閉じてしまいたかったけれど、ぐっと我慢する。

 寄せられる頬を避けて、あたしは彼を睨んだ。

「もっと、ちゃんと言って」

 シリウスは驚いた様子だった。その黒い目が大きく見開かれる。我が儘を言うのは久しぶりで、自分でもなんだか変な気分だった。

「どうしたんだよ」

「あたし、もう少しだけ欲張りになろうと思ったの」

 そう言うと、彼は見た事が無いものを見た、というようにますます目を丸くする。

 シリウスのあまりに戸惑った顔にふと笑いが出そうになり、慌てて顔を背ける。

 幼い時、あたしと喧嘩した後の顔だった。

「どうすればいいんだ」

 彼は全然分かっていないようだった。どうしてそんなに鈍いのかしら……。

 一瞬出かけた笑いも、すぐに引っ込み、なんだか焦れてイライラして来た。怒ったふりだったのに、本当に腹が立ってくる。

「……あの時言ってくれたのはうそだったの?」

 あたしがそう言うと、彼は急に腑に落ちたらしく、慌てだす。そして、びっくりするような返答が返って来た。

「僕が言うにはまだ早い気がするんだ……。あの時は、その、勢いで」


 ……い き お い で す っ て?

 じゃあ、じゃあ、本当は違うっていうの? 早いって、じゃあ、いつになったら言ってくれるっていうの。

 あたしは、本気でがっかりしかけた。

 でも次の瞬間、彼は口を開いた。


「――あいしてる」


 振り向くと、その漆黒の瞳が熱を帯びてあたしを捉えていた。耳を真っ赤にして、見たことが無いくらい真剣な顔をしていた。

 ああ……あのときも、こんな顔して言ってたのかしら。

 気がつくとあたしは吸い寄せられるように彼の唇に唇を重ねていた。

 ひょっとしたら、彼は何か力を使ったのかもしれない。彼の力はあたしには効かないはずなのに、そのとき、あたしは見えない力に引き寄せられるようだった。

 唇が触れた直後、痛いくらいの力で抱きしめられる。

 全部自分に取り込もうってくらいに強く抱きしめられて、あたしは、彼の中に溶けてしまいたい、全身でそう感じた。




「…………いつまでそうしてるんですか!!」


 聞き覚えのある怒鳴り声が辺りに響き渡り、キスが中断される。視界が開け、その肩越しに青い空が見えた。その色は見たことも無いくらい綺麗な透明な青だった。灰色だった世界が雨に洗われ、一気に輝きだす。

 ふと見ると、舗装された道の上で近衛隊が馬の頭を揃えていて、一人を除きみな苦笑いしている。その中にはミアーもシュルマもループスも居た。

 放っておいてほしいのに、一瞬そう思ったけれど、どうやらあたし達は堂々と道を塞いでいたらしい。

 さすがに気まずかった。

 ちらりと先頭に居る父を見ると、今にも噴火しそうで、あたまから湯気が出ている。

 でも、でもね、もう怒られる理由なんか無いんだから! お説教なんか聞かないわ!

「……シリウス、面倒だから逃げましょう?」

 あたしがそう言うと、シリウスはすぐに同意した。

「……行き先は?」

 確認するように問われる。その黒い瞳が期待と不安の間で揺れていた。

 そういえば、答えていなかったわ。

 キスで答えになるかと思ったけれど……、ちゃんと言わないと伝わらない。シリウスは鈍いんだから。

 あたしはくすりと笑うと、彼の耳元に口を寄せる。


「――あなたの腕の中」

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