第12’章 最後の日(1)
ふと気がつくと、もう窓の狭い隙間から見える色が白く変わっていた。
どうやら机で作業をしている途中に眠ってしまったらしい。
――力を使いすぎたかしら……。
軽く頭痛がした。
あたしはこめかみを軽く揉むと背中を反らし、軽く伸びをした。軽い音がして毛布が体から滑り落ちる。どうやらヴェガが掛けてくれたらしい。
結局ゴミ箱から分かったことは、皮肉なもので、シェリアが噂を流した張本人だ、ということだけだった。しかもゴミ箱からではなく、回収したゴミから。そのゴミは、彼女が流した噂話の下書きが延々と書き綴られていたのだ。あたしが捕まったことで必要なくなったために、捨てたらしい。せめて破ってから捨てれば良いのに。
これ……いくらなんでも、さすがに見過ごせないわよね。
あたしはその丸められた紙の皺を丁寧に伸ばすと大きくため息をつく。
偶然とはいえ、手に入ったものだ。あたしは、しっかりと利用させてもらうことした。
だって……やられっぱなしは嫌だったし、シリウスを渡すのはもっと嫌だったのだ。
それにしても。……じゃあ、アレクシアはいったい何を企んでいるのかしら。
あたしは見えたものを思い出す。
ゴミ箱は机の下においてあったため、人物の足しか見えず、顔を見ることは出来なかった。
聞こえてくる声は二つ。どちらも女性だ。
一つは聞き覚えのあるしわがれた声。――セフォネだった。
――こういったものは受け取れません。
――そう言わずに。
――皇子は、おそらく見向きもしませんよ? 彼女に夢中なのですから。
――やってみなければ分からないでしょう。魔が差す、ということもあります。
――……とにかく、これは受け取れません。だいたい、どこからこんな大金を……。それに……なぜ『エリダヌス様』なのです?
――詮索は無用です。それでは言い方を変えましょう。黙って命令に従いなさい。閨に関しては、今は私が全権限を持っていることをお忘れなく。
――……。分かりました。従いましょう。しかし……どうなっても知りませんからね?
……大金って。つまり賄賂よね? それって、犯罪じゃ……
ふと、妙なことに気がつく。
『あなたも北部出身なのでしょう?』確かシェリアはそう言った。
シェリアがそうと言うことは、つまりその母であるアレクシアも――北部出身?
となると、おかしい。
北部の貴族は名ばかりで……貧しいのだ。アルフォンススがそうであるように。あたしは広いが古いあの家を思い出す。
余裕なんか無いはずなのに……どこからそんな大金を?
思い返すと、シェリアも妙にお金のかかった格好をしていた気がする。
――誰かが、何かをしようとしている。その正体が見えず、気味が悪かった。
「……あら? 起きたのね。少しは眠れたみたいで良かったわ」
その声に顔を上げると、ヴェガが食事を持って扉から入ってくるところだった。
銀色のトレイの上から湯気が見える。
「朝食よ。昨日の夜はろくに食べてないんでしょう」
その言葉で牢で食べた食事を思い出す。あれは……ひどかった。
あたしが顔をしかめると、ヴェガはあたしの気持ちがわかったのだろう、
「知ってるわ。ひどいでしょう?」
苦笑いをしてそう言う。
……なんで知ってるのかしら。
あたしは怪訝に思う。それを察して、ヴェガは言った。
「昔ね、レグルスがちょっとね」
……父さんが?
「何か悪いことして捕まったりしたんですか?」
「……うーん……内緒にしておこうかしら。あれは……さすがに本人に断らないと言えないから。
さあ、それは良いから早く食べてしまいましょう。冷めてしまうわ」
少し困った顔をすると、ヴェガはごまかすようにあたしに食事を勧めた。
食事をしながらあたしは昨晩力を使って見たことをヴェガに話す。
「……収賄……ね。この頃はよくあるらしいけれど、なかなか尻尾がつかめないらしいのよ。でも……セフォネに持ちかけるって言うのは迂闊だったわね、彼女は陛下直属だと言うのに。それでも動きがないってことは……陛下が様子を見させているのかしら」
あたしは手紙の内容を思い浮かべた。
――陛下は、すべてシリウスに見せるつもりなのかしら。彼にそれを告発させようとしている?
でも……
「陛下のお考えは分かるんですけど……なんだかすごく嫌な予感がするんです……」
「実は私も。何かすごく引っかかるのよ。何か……アレクシアの背後で動いてるような」
そう言うとヴェガは黙ってしまった。
あたしもただ不安だけが一杯になってしまい、せっかくの食事ものどを通らない。
「それにしても……ひどい有様ね」
ヴェガがあたしが作業をしていた机を見てフフと笑う。
……あ。
「すみません、すぐ片付けますから」
「ゴミに埋もれて眠ってるんだもの。……これが未来のお妃だと思うと……おかしくって」
そう言うとヴェガはふと懐かしそうに目を細める。
「……そう言うところ、姉さんもそうだったわ……全然お妃らしく無くってね」
なんだか……意外だった。
それ以上は語るつもりも無いらしい。ヴェガはティーカップに紅茶を注ぐと、ゆったりとそれを飲みだした。
シリウスのお母さんか。記憶を探っても優し気な笑みしか思い出せなかった。
……彼女は、いったいどんなお妃様だったんだろう。
いつか、その話を聞いてみたい気がした。
あたしは、いそいそと机に向かうと、丸められた紙や、千切れた書類、食べ物の包み紙など……大量のゴミを集めてゴミ箱へと戻して行く。ゴミ箱が目的だったので、大半が床にひっくり返しただけで放置したままだった。
……これは大変だわ……。
ゴミ箱を抱えると一つ一つそれらを放り込んで行く。
ふと、頭にかすったものがあり、手を止める。
あれ? ……今の……って
あたしは手に握った、その丸められた書簡に意識を集中させた。……まさか。
目に映るのは……赤い髪。深い皺の刻まれたその顔。筋張った指。
――首尾はどうじゃ?
そして、『彼女』が向かい合うのは、赤い髪に鋭い光をたたえた茶色の瞳。シリウスと似た、でも全く温度の異なる冷酷な声が聞こえた。
――ジョイア近衛隊の……。あいつに任せることにしてみた。たとえ駄目でも、こちらに失うものは無いからな。
震える手でその紙を開く。
それは書簡の切れ端。でも……その杯を象った紋章。あたしはそれをしっかりと覚えていた。母の部屋。その天井の模様。忘れたくても忘れられなかった。
それは――
「――シトゥラ」