第11'話 変わらないもの(3)
部屋の窓はあたしのために閉じられて、部屋は蝋燭の光だけで薄暗く、今どのくらいの時間なのかもう分からなかった。
父は勤務に戻り、部屋にはあたしとヴェガの二人きり。
あたしの左手にはペンがしっかりと握られていて、カリカリと細かい音を響かせている。
あたしは部屋の隅に置いてあった机に齧り付くようにして、自分の部屋から取り寄せてもらったイェッドの課題を取り組んでいた。
「あなた、妃になるつもりなら……遅れてる分取り戻さないと。シリウスがいくら頑張ったとしても、あなたが間に合わないんじゃ……あまりに気の毒だわ」
ヴェガにそう言われて、焦ったのだ。
確かに……あの量……間に合わないかも。
あたしは、身のこなし方などはとりあえずヴェガに教わることにして、それ以外の知識を貰った資料から学ぶことにしていた。
「あなた、騎士になろうって訓練してた分、助かったわ……私じゃ護身術までは教えられないから」
資料をめくるあたしの背中にヴェガの声が投げかけられる。
聞くと、やはり宮にいる女性は一通り護身術を身につけることになっているらしい。シュルマのあの見かけ以上の腕はそういうことかと納得する。
あたしは右手が駄目だから、このところ左手をとにかく鍛えることに専念していた。だって、シリウスに何かあったとき、やっぱり守ってあげたかったから。
父やヴェガがなんと言おうと……やっぱりあたしはシリウスを守りたかった。
今回はあたしがそうしようとすれば、邪魔になる。だからあきらめるしかないけど、これから彼の一番近くで過ごすのなら……万が一のときは身を投げ出してでも彼を守らないといけない。きっと怒られるから、誰にも言わないけれど、その覚悟は胸にあった。
分厚い資料には、妃としての仕事について細かく書いてある。妃、特に正妃となると、宮で働く人材を取り仕切るのもその仕事の一つとなる。すべての役職の長となるのだ。今は正妃が実質不在だから、そのしわ寄せで人事に関わる役職につく人物が徐々に力をつけているという話もあった。
例えば、外宮の管理官なども、その一人だった。つまりは……シリウスがどの妃を伽に呼ぶかを均等に割り当てるらしいけれど……。
そんな仕事があるっていうことが、どうしても落ち着かない。その管理官は正妃に最終的にお伺いを立てるらしいのだ。……それに頷けるはずがない。
シリウスのお母さんは、それをどんな気持ちで処理してたんだろう。
あたしはため息をつきつつ現在その役職につく人物の名前をなぞる。
――アレクシア。
何気なくその名の下を見る。小さく添えられた名前。それは家族の名前のはずだった。
「え? ……シェリアって」
あのシェリア?
銀色の髪、灰色の優しげな瞳が頭をよぎる。
その思いも寄らない繋がりにあたしの胸が急に騒ぎだす。
あの夜。
エリダヌスは、シリウスの部屋を訪ねている。
あの光景は思い出したくもない。
でも……彼女が部屋を訪ねたということは、そういう手続きがあったはずだ。
アレクシアは……自分の娘より先にエリダヌスを部屋に送ったことになる。
それって変じゃないかしら?
だって、シリウスに気に入ってもらえないといけないのに、わざわざ後回しにするかしら。
しかも、あれだけ色っぽい女性。悔しいけど、比べられたらどうしても負けてしまう……。
シェリアも華奢だし、比べられるのはきっと嫌だと思うんだけど。
ふと、シリウスがきっと比べただろうって考えて、嫌な気持ちになる。彼はぼうっとしてるけど、結構見てるところは見てるし……同性でもぎょっとするくらいなんだもの。男の子ならなおさらだ。
あのときも……きっとすぐに違うって分かったはずだわ……。……なんだか、悔しい。
それ以上考えると頭が茹だってきそうだったので、あたしは頭を振ってその想像を追い払うと、アレクシアの行動に思いを馳せる。
なんでだろう。
何か……別の意図があるとしか思えない。
いったい……それは、なんだろう。
「ヴェガ様……アレクシアって知ってらっしゃいます?」
あたしは資料に目を通すのを中断してヴェガに尋ねる。
彼女は椅子に優雅に腰掛け、本を読んでいた。パタンと本を閉じると、彼女はあたしのいる机まで近づいて来る。
「名前は知ってはいるけれど。彼女がどうかした?」
あたしは今思いついたことをヴェガに訴えた。
「それは……確かに妙ね。何が何でも妃にと考えているのだったら、その役職を利用しない手はないはずなのに。順番に大して意味はないと考えたのかしら」
「意味はあると思うんですけど……」
あたしは不愉快になりながらエリダヌスの容貌をヴェガに伝えた。
「……だから、その順番は変だと思うんです」
「……あの子、胸のサイズ気にしてたの? それとも、あなたが気にしてるだけ?」
不可解そうにヴェガは本題と関係ないことを尋ねる。
「シリウスは分からないですけど、あたしは……気にします。……でもそれはいいんです」
シリウスだって気にするに決まっている。
むっつりと言うと、ヴェガはくすくすと笑う。
「あの子、たとえあなたが少年だとしても好きだって言うと思うけど」
「……」
――いくら何でもそんな例えはやめてほしい。それに……そこまで貧弱ではない……はず。
あたしは少しげっそりして話を続ける。
「何も出来ないけど、それくらい調べても良いでしょう? 宮の中なら安全ですし」
「うーん……まぁね。彼女あなたの顔よく知らないでしょうし。……それに……どうせならもう一つ調べたいことがあるのよね」
「何でしょう?」
「あなたに関する噂話の出所よ」
「え?」
頭が切り替わらずにきょとんとすると、ヴェガは少し哀れみを込めた目であたしを見つめる。
「嫌なこと思い出させて悪いけれど、あなたも聞いたでしょう。このごろになって急に広がりだしたらしいの」
「噂って……あたしとルティがどうこうっていう……」
「侍女に聞いた分はそこにまとめてあるわ。……見ない方が良いと思うけれど」
ヴェガはそう言うと目で机の端においてある紙の束をさす。
あたしは一瞬ためらったけれど、その薄い束を手に取って何も書かれていない真っ白な表紙を開いた。
そこに書かれているあたしは、シリウスを誑かす凄まじい悪女だった。
シリウスを始め、ルティはもちろん、イェッド、その他近衛兵に至るまで、様々な男に色目を使って落としては、その後ゴミのように捨てる。過去の男性遍歴までねつ造されいて、しかも、どこから拾って来たのか、捨てられた男の証言まで書いてある。
あまりのひどさに傷つくのを通り越して笑いが出て来た。
これ……いったい誰のこと。
とても自分のこととは思えなかった。
「……これ……シリウスも聞いてるんですか」
「ええ。だいたいは」
これじゃ……彼が不安定になっても仕方がないかもしれない。
大げさに言われていると考えたとしても、所々、疑っても仕方がないような、イェッドとの様子などが織り込んであった。
父の古い友人だからといって気を許していたのは確かだし、そのことはシリウスは知らないのだ。親しげに見えて不安になっていたかもしれない。そこにこんな噂が耳に入れば……。
あたしはため息をつきながら、呟く。
「いったい誰が」
「……噂が広がりだしたのが、どうやらあなたたちが宮に戻って来てからなの」
そう言うとヴェガは机の引き出しを開けて二つの書類の束を取り出した。
「これは、それ以前に広がっていた噂をまとめたものと、イェッドに持って来てもらった近衛隊の中で広がってる噂」
あたしはそれに目を通す。
「これ……」
「そう。二つは一致するの」
それは、シリウスがあたしをルティから無理矢理奪って妃にしたというもの。
あの剣術大会の件を知っていれば、想像はできるような類いのうわさ話だ。
「ただ、おかしいのは……この部分。『成人の議の翌日二人で逃げた』なのよね。これ……知ってる人間は限られているわ。万が一流したのがミネラウバなら、真相を知っているのだから、こんな中途半端な情報は流れないでしょうし」
「……」
誰か他に、そのことを知っている人間が紛れ込んでいるって言うこと? だとしたら、それは――
いくつも考えなければいけないことがあって、混乱し始めていた。
あたしが押し黙ると、ヴェガはため息をつく。
「とにかく、はっきりしているのは、侍女の中にだけ新しい噂が急激に広まっているってことなの」
「侍女の中だけ……」
「そう。つまりね、あなたたちが宮に戻って来てから……増えた侍女のことを考えればいいのよ」
それは。――増えた侍女が噂を広めたとすると。
「噂の大元は……妃候補……ってことですか」