第10’章 隠された瞳(8)
ど……どうしよう!
あたしは身動きできなかった。
陛下の言葉があたしをその場から逃がそうとするけれど、それよりも強い力でその場に縫い止められてしまったのだ。
漆黒の瞳は、あたしを逃がしてはくれなかった。どこに逃げようとも追いかけて捕えられてしまいそうだった。
瞬きもせずにあたしを見つめるシリウスに、あたしは根負けして、近づく。
一旦足が動くと後は吸い寄せられるようだった。
「シリウス」
あたしは気がつくと彼の名を呼び、そして、彼のその左手を握っていた。
いつもと同じ、ひんやりと少し冷たい手。
彼はこれを現実とは思っていないようだった。その瞳は夢を見ているかのように甘く輝いていた。それを見ていると、まるで、時がこの宮に戻る前に戻ったかのように思えた。
そして現実との差異に胸が痛くなり、思わず謝る。彼を苦しめていることが辛かった。
「……ごめんね」
あたしは、彼が何か言いたげに口を動かすのを見て、意を決して彼の心に忍び込む。どうしても彼の言葉を聞きたかった。
『――何で君が謝るんだよ?』
あたしは答えてあげたかった。全部洗いざらい話してしまいたかった。
もう、こんなシリウスを見るのは嫌だった。辛過ぎたのだ。
でも――それをすれば、今迄のことが全部無駄になってしまう。
ふと背中に視線を感じる。
ミアーの問うような視線。どうやら起こしてしまったらしい。まだ、様子を伺っているだけのようだった。あの位置からは……シリウスが起きてしまった事はまだ分からないはず。
その視線が力を強めじりじりとあたしの背を焼いた。何をしてるんだ、そう問われているのがありありと分かった。
……分かってるから。我慢するから。
でも――このくらいは、許してね。きっと夢だと思ってるから。
あたしはぎゅっと彼の手を握りしめる。そして彼の耳元へと唇を寄せ、そっと囁く。
「あたしも、あなたのこと、愛してるの。きっとあなたよりもたくさん」
彼の目が一瞬大きく見開かれる。そして少し不満げにあたしを睨んだ。
『――僕の方がたくさんだ』
……変なところで負けず嫌いなんだから。
あたしは胸の痛みを堪えるため、少しだけ微笑む。そうしないと涙がこぼれそうだった。
その場を去ろうかと思ったけれど、……名残惜しくて足が動かない。
あと、ちょっとだけ。
あたしはすばやく彼の額の黒髪を払うと、その形の良い額に軽くキスをする。直後離れようとしたけれど……一瞬早く後頭部にシリウスの手が回っていた。
――あ
避ける暇もなく、唇が触れる。
そのあまりの甘さに、膝の力が一気に抜けた。
彼は眠ってるはずだった。その心を読んでも明らかだった。そのはずなのに、彼の体はまるで普通に意識があるかのように振る舞い、あたしはぎょっとする。
唇を重ねたままもう一方の腕で腰をしっかりと固定された。そして後頭部に回された手で帽子が脱がされたかと思うと、纏めていた髪をほどかれる。一気に落ちる髪が波のようにあたしとシリウスを包み込んだ。
それはいつもの手順だった。
あたしは、彼が寝ぼけながらもこの続きを求めてるのを感じて、さらに焦る。
夢だと思ってるせいか、迷いがなかった。腰に回された手があたしの肌を求めて服の隙間から滑り込む。
――さすがに駄目!
ど、どうしようっ!
変な体勢で固定されてるため、足に力が入らず、立ち上がる事さえ出来ない。
長椅子が二人分の重さに耐えきれず、ミシミシと悲鳴を上げ始めた。
――こ、壊れる!
火照った体が一気に冷めて凍り付いていくのを感じた。
ミ、ミアー!
背に腹は代えられない。
あたしは助けを求めて、ミアーの居る方向へと手を伸ばした。
*
「少しだけならと見逃そうと思っていたら……とんだ大サービスになるところでした」
淡々と言うミアーにあたしは俯いたまま顔を上げられなかった。
……恥ずかしすぎる。
「隊長の言う事も、何となく分かりました」
やれやれという感じでミアーは大きなため息をつく。
視界の端には毛布に包まって寝息を立てるシリウスの姿が映っている。
あの後、ミアーがあたしをシリウスの腕の中から強引に引っ張りだしてくれたのだ。
離すまいとするシリウスとミアーの力比べは、お茶のせいもあり、ミアーの勝利に終わった。よくよく聞くと、あのお茶は慣れないと幻覚を見る事もあるらしい。それが今回は功を奏したみたいだけど。
シリウスは何が起こったかよく分からなかったらしく、しばらくぼんやりとその瞳を空に漂わせていたが、結局そのままクタリと眠りに落ちていった。その顔は少しだけ明るさを取り戻していて……あたしはちょっとだけ安心できた。
「あなたはいつもそうなんですか? ……出来る範囲の中で最大限のことをしようという心意気はいいのですけれど……。そのギリギリのラインだけは見極めて頂かないと。あなたは、陛下とのお約束を危うく破られるところだったんですからね?」
ミアーの忠告にあたしは黙って頷くだけだった。
「皇子の事はごまかしておきますから。もう近づかないで下さいね」
あたしが落ち着くのを待って、ミアーは冷たくそう言った。
あたしはさすがに反省していたため、殊勝に頷く。
「ごまかすって」
「……幻覚を見たとでも。知らぬ存ぜぬで通します」
「……疑わないかしら」
さすがに……夢にしては現実味がありすぎるんじゃないかと思った。思い出すと体がなんだか熱くなるのを感じ、誤摩化すように俯いた。
「そういう時は……こちらが怒ってみればいいんですよ。皇子の様なタイプですと、それが一番効くのです。今度試してみては?」
……怒る?
怪訝に思い、首を傾げる。
「相手からこちらの求める反応を引き出すためには、いろんな方法があるんですよ。あなたは真っすぐ過ぎます。それでは疲れるでしょう?
いつも正攻法で行く必要もないと思いますが」
そう言うと、ミアーはその顔に幼い笑顔を浮かべた。