第10’章 隠された瞳(4)
あたしは結局日が暮れるまで父の部屋にいた。
手持ち無沙汰でぼんやりしているうちに、いつの間にか眠っていたのだ。
窓から冷たい空気が忍び込み、その冷たさで意識がふと現実へと戻される。
部屋は薄墨色に染まり、窓からの微かな光だけを頼りにあたしは例の軍服に着替える。髪の毛は纏めて帽子の中に突っ込んだ。
『俺が戻るまでは部屋から絶対出るな』
父にはそう言われていた。
父がそう言う意図はよく分からなかったが、どちらにせよ、昼間は動きが取れないのは確かだった。
以前とは違って顔が割れている。その上、最初に騎士見習いをしたときと比べて、……体つきが丸みを帯びてしまっていた。じろじろ見られたらもう少年兵として通用しないかもしれない。
近衛隊には女性兵は少ないが、まったく居ないわけではなかった。
父も少年兵というよりは女性兵として扱った方が良いと考えたのか、それとも忘れていただけなのか、体に巻く布などは用意していなかった。
……ああ、でもなんだか、……落ち着くわ。この格好。
あたしはそんな風に思いながら床に座り込む。
綿で出来た目の粗いごわごわの服。でもドレスよりも侍女の制服よりも肌に妙に馴染んで、あたしは少しだけ寂しく思う。
これが生まれの差なのかしら。
シリウスだったら、やっぱりこんな服より、いつも着てるような絹の上品な服の方が似合う。だって彼の肌はそれ自体が絹のようにきめ細かくて、繊細で――
ふと、思い出しかけて一人顔を赤くした。
あたしの馬鹿……! 何考えてるの!
……しかもこんなの、男の子に対する褒め言葉じゃないし!!
慌てて頭を振って瞼の裏のその映像を振り払う。
振り払ったつもりなのに、今度はじわりとその感触が自分の肌に再現されるようで、あたしは焦った。頭に血が上って体温が一気に上がるのを感じる。
そんな場合じゃないって言うのに!
「おまえ……何、ニヤニヤしてるんだ」
ふと響いたその声にあたしは飛び上がった。
そして目線を上げると、……父が気味悪そうにあたしを見つめていた。
悲鳴を飲み込み、小声で叫ぶ。
「……ノックくらいしなさいよね!!!」
父は夜目に分かるほどに、はっきりと呆れていた。
「……俺の部屋だぞ、ここは」
あたしは、何回か深呼吸をしてようやく落ち着きを取り戻す。部屋が暗くて良かったと本気で思う。
そして父の後ろに一人の兵士がいるのに気がついた。
「どなた?」
「お初にお目にかかります。……ミアーと申します」
その人物は、柔らかい声をしていた。暗がりで分からなかったが……女性だ。
丁寧に膝を折ると、あたしの前で頭を下げる。
「ちょ、ちょっと、やめて!」
あたしは焦る。こういうのにはやはり慣れてないのだ。それに、まだ儀式も済んでない。あたしの身分はただの平民の娘だった。
ミアーと名乗ったその女性は、きょとんとした表情を浮かべる。
「あと3日のことでしょう。無礼は働きたくありませんし」
彼女はさらりとそう言った。
父は彼女の様子には特に気を払わず、彼女の紹介を始める。
「……ミアーはこっちに来てから直属になったんだが、昔、世話になってな。……彼女は信用できる。安心しろ。
……それより、皇子が面会に行くそうだ。牢に行くのなら、彼女に案内してもらえ」
父はあたしが出かける事をまったく疑っていないようで、あたしの背を扉の方へと押し出すと、念を押すように言う。
「皇子にバレないようにな? ……じゃあ、ミアー、くれぐれもこいつが無茶しないように……頼んだぞ」
*
ミアーはとにかく寡黙だった。
あたしはなんだか落ち着かなくて、牢に行く道の途中、彼女に話しかける。
「父が世話になったって言ってたけど……」
「はい。……かなり昔の事ですが……」
それっきりミアーはまた口を閉じる。
「どういう知り合いなの?」
「それは……隊長がお話しにならないのであれば、私からお話しするわけにはいきません」
すげなくそう言われ、あたしは肩をすくめる。
律儀だわ……この人。
女の人ってうわさ話とか好きなのに。
……父さんの過去か。
気になるけれど、確かに本人が話さないのであれば、仕方が無い。こっそり聞くのも気が引けた。
よく考えたら、あたしは、父と母のなれそめさえもよくは知らないのだ。それも変な話なんだけれど。
昔から父は過去の話になると口を閉ざしてしまっていた。あんな風にルティが現れなければ、あたしは自分の出生について知る事などきっとなかったと思う。
父がどこの生まれでどんな親に育てられたのか。そんな当たり前に知っているはずの事も何も知らない。
でも、聞いても教えてくれないだろうな。そんな気がした。
そんなことを考えているうちに、目の前に小道が現れた。いつもはまったく気にしない、その暗い、陰湿な雰囲気のするその道。
ミアーがあたしを振り返って微かに頷く。
……ここをいけば、牢、か。
この牢に限っては、宮の内部での犯罪人しか扱わない。政治犯や、今回みたいな重犯罪人を収容しているはず。
本来なら、シャヒーニ前后妃もここに入るはずだったが、意識が回復する事が無い彼女は未だ宮の内部にて眠ったままだった。
牢の入り口は篝火に照らされていたが、それは入り口だけの事で、長いその建物の大部分は闇に閉ざされていた。
その姿を見ているだけで気分が鬱々としてきて、あたしはシュルマのことが急に心配になる。
……こんなところで、大丈夫なのかしら、本当に。
あたしは深く帽子を被り直し、入り口をミアーの陰でやり過ごすと、奥の部屋へと向かう。
今のところ、独房には『あたし』しか入所していないらしく、係の人間も暇を持て余しているようだった。
廊下をカツカツと足音だけが響き渡り、あまりのその雰囲気の重苦しさに押しつぶされそうになる。
ようやくたどり着いたその部屋の前で、あたしはそっと呼びかける。
「シュルマ」
部屋の中でがさりと音がして、闇の中ぼうっと黄色い影が浮かび上がる。
「スピカ? 何してるのよ、こんなとこまでやって来て。入れ替わった意味が無いじゃない」
困ったような声でそう言いながら、シュルマが扉の側まで駆け寄ってくる。
「だって……いろいろ心配で」
ミアーがそこで口を挟んだ。
「――皇子が今からいらっしゃるそうです」
あたしは思わず目を剥く。
――な、なんでこのタイミングでそういうこと言っちゃうの!
それを聞いたシュルマの顔が闇の中で一瞬固まり、直後にやりと歪む。
「……ははあ。なるほどね。心配とか言っておいて……皇子の様子が気になっただけなのね? ……まあいいけど」
「……」
図星を指され、あたしは黙り込んだ。そして、恨めしい気分でミアーを睨む。
ミアーは涼しい顔をしてさらりとそれを流した。そうして真面目な顔であたしを見つめると、言う。
「隊長からいろいろ聞いていますよ、あなたのことは。
――くれぐれも……大人しくしておいて下さいね?」