第10’章 隠された瞳(3)
「で? どうするつもりだ。別にいいんだぞ、このまま逃げても」
「……え?」
――逃げる? 何を今更。
「陛下直々に、『逃げてもよい』って言われているんだ。もうこんなチャンスは無いぞ?」
父はまっすぐにあたしの顔を見つめていた。
「……」
あたしは父に覚悟を問われているのだと、気づく。
これが、最後のチャンス。
妃となってシリウスの隣に居続けるか、それとも、平凡な幸せを手に入れるか。
……母さん。
ふと母の顔が目に浮かぶ。幼い頃の事だから、はっきりとは覚えていないはずなのに、なぜかくっきりとそれは浮かび上がった。
あたしは、母の行けなかった道を行こうとしている。
きっと待ち受けるのは、今度の事なんて比べ物にならないくらいの厳しい茨の道だろう。
あたしは……その道がいくら辛くても選ばざるを得ない。血を流してでも行く事を止められそうにない。
――たとえ一瞬でもいい、
どうしようもなく幸せだと感じることが出来るなら。
このときのために生きてるんだって感じられるなら。
「もう、いくら泣き言を言っても、逃げられないぞ? 陛下はだからこそ、このチャンスを下さったんだからな」
だめ押しのように父は言う。その瞳は、言葉とは裏腹に懇願するかのように揺らめいていた。
父は、本当は、一緒に逃げて欲しいと……そう思ってるのかもしれない。母のように、平凡でも幸せな家庭を築けと、そう言ってるのかもしれない。父はあたしが泣くところなんてきっともう見たくないのだ。
……それでも、父はあたしの意志を尊重しようとしてくれている。いつだってそうだった。
だから、あたしは父の前ではもう泣けない。
「あたしは……もう逃げない」
あたしは父の目を見据えてはっきりとそう言った。
たとえ、この間みたいなことがあったとしても。
――今度こそちゃんとシリウスを信じる。彼から逃げたりしない。
父はその目を伏せると、大きなため息をついた。
「……分かった。……覚えておくぞ、今の言葉? いいな?
――お前は、あいつを選んだんだ」
*
午後の強い日差しが少しだけ開いた窓から注ぎ込んできていた。窓辺に居たせいで、あたしの背中はいつの間にかずいぶんと暖まっている。
あたしは黙々と昼食を食べると、空になった器を見つめ、そして父に尋ねた。
「これから、どうすればいいの?」
父はすでに食べ終わり、午後の仕事に備えて身支度を始めていた。
「ん? ああ。今夜にでもヴェガ様のところに行ってもらう。シュルマとしてな。さすがにしばらくは大人しく籠ってろ。皇子がお前のぬれぎぬを晴らしてくれるまでは、まだ『犯人』なんだからな」
――籠ってろ?
意外な台詞に目を剥く。
あたしは父の隣に置いてある濃紺の軍服が気になっていた。じっとそれを見つめる。
「じゃあ……それは、何のために用意してるの」
あたしはそれを指差す。てっきり、あたし用だと思っていたのだ。
あたしがうずうずしているのを分かってるのだろうか、父はニヤニヤと笑っていた。そして問いには答えず、壁に向かって呟く。
「皇子は、面会に行くらしいぞ、『お前』に」
「……」
あたしは無言でぐしゃりと手元の包み紙を握りしめた。
じわりと鶏肉の脂が紙から染み出して指に移り、べとりとした感触が手のひらに広がる。
「多分、謝りにいくんだろうな。さっき少し突ついて置いたし。
あと、昨日散々心配していたからな、おそらく寝ずの番でもする気なんじゃないか?」
「……」
父を見る目が険しくなるのが自分でも分かる。
―― 一体、何を言ったのよ!
長年のことで、想像がつくところが嫌だった。父は男には容赦しないし。
「シュルマ相手にいろいろ訴えるんだろう、あの様子じゃ。……いい見物だろうな。見れないのが残念だ」
がははと豪快に笑う父に、あたしは思わずぐしゃぐしゃに握りしめた包み紙を投げつけた。父は軽くそれを受け止めると、あたしを睨む。
「……ったく、素直じゃないな。さっさと下さいって言えよ。
……その格好じゃ、牢に近づくには目立つからな」
父はそう言うと、笑った表情のままで、軍服をあたしに向かって投げつけた。