第8’章 それぞれの想い(5)
結局あたしは一口も食事をとることが出来なかった。
グラフィアスは結局それ以上の事をあたしに聞く事はなく、そのまま部屋を出て行った。
入れ替わりにシュルマが部屋に戻ってくる。
「大丈夫? 顔が真っ青だけど」
あたしは、なんと言えばいいか分からず、黙り込む。
グラフィアスが言っていた『彼』というのは……ルティの事なのかしら。さっきのシュルマの話と照らし合わせると、おそらく、そうだろうと思う。
あたしはそう考えて、少々深刻になる。もしそうだとすると、それは黙って見過ごすことが出来ない。あたしは……シリウスから逃げたとしても、ルティのところに行こうなんて考えてはいないのだから。万が一、また捕まったりしたら。
そう考えてぞっとする。
――それだけは絶対に嫌だった。
あたしは食事をとる気分にもなれず、立ち上がって窓辺へと移動した。窓の隙間からは冷たい空気が流水のように静かに流れ込んでいる。油を塗った厚紙を木の枠に張り合わせたその窓は、この時期独特の冷気をじわりと部屋に連れ込んでいた。
ふと外でカサリと草をかき分けるような音がする。
次に聞こえて来た声に、あたしの心は外の冷気と同じくらいに冷えた。
「スピカ」
耳を塞ぎたくなる。その低い声。つい最近まであたしの心を温め続けたその声。
体が硬直するのが分かる。一瞬で凍り付いたかのようだった。
「スピカ!」
……どうしろというの。あたしに!
二度目に響き渡った声に、凍りついた体が一気に溶ける。
これ以上……あたしを惨めにさせないで!
それは怒りに近かった。
あたしは燭台に近づくとその火を吹き消す。暗闇が部屋を覆い、視界からは一切のものが消え去った。光と一緒に彼も去ってくれればいいと思った。
――早く、ここから立ち去って!
あたしは燭台の横にかがみ込んで耳を押さえる。それでも静まり返った部屋には否応なく、その力強い声が染み込んでくる。
「僕は諦めない。絶対にだ」
これ以上聞きたくない。……どうせ謝ればすむと、そう思ってるんだから。いつだってそうだったんだから。
そう思う、あたしの耳に響いたのは……まったく予想もしなかった言葉だった。
「……君を愛してる」
*
彼の気持ちは知っていたはずだった。
でも、今まで、どんなときにでも、たとえ体を重ねている最中にでも、聞いた事が無かったその言葉。
「好きだ」と言われた事も一度きり。
視界がぐらりと揺れた。
――ずるい。どうして今になって、そんなこと言うの!!
どうして……!
勝手だと思った。でも……どうしようもなく心が揺さぶられるのを感じた。だって……その言葉は……あたしが心の底から待ち望んでたものだったから。
知っていても、聞きたい言葉だったから。
ガタガタ震える体を必死で抱きしめた。火を消していて良かった。こんな顔……シュルマに見られたくない。
きっと……びっくりするくらい赤くなってるに決まっている。怒りと、同じくらいの強さで突き上げてくる喜び。混乱で頭が煮えたぎるようだった。
ふと響いた軽い足音で我に返る。
聞こえて来たのはグラフィアスの声。さっきまで部屋の前に居たというのに……どこから中庭に出たのだろう。信じられないくらい、すばやかった。
「皇子、困ります。……容疑者との接触は禁止されていますので。失礼」
窓を少しだけ開けて外を見ると、シリウスがグラフィアスに押さえつけられて近衛隊の詰め所へと連れて行かれるところが見えた。
思わず体が引き寄せられそうだった。……あの言葉をもう一度言って欲しかった。何度でも、あたしがそれを信じられるまで囁いてほしかった。
……だめ。
なんて簡単なんだろう、あたしって。
自分でもびっくりした。あの一言で、こんなにも気分が変わるなんて。話を聞いてもいいと思えるなんて。
シュルマの忍び笑いが後ろから聞こえ、あたしは恐る恐る振り返る。
「さーてーは。心が揺れたわね」
「そ、そんなこと!!」
慌てて否定する。
「目が潤んでるわよぉ」
ニヤニヤと笑うシュルマが見える。お見通しのようだった。
そうか、窓開けちゃったから……。満月に近いその月明かりが部屋に差し込み、部屋はその色に薄く照らされ、さっきと比べ物にならないくらいに明るかった。
さすがに顔の色までは分からないかもしれないけれど、……気をつけないと頬が自然と緩んでしまうのは押さえられなかったのだ。
「じゃあ、これ」
シュルマはあたしに近づくと、一通の手紙を手渡す。
「さっきセフォネが持って来たの。……陛下からだそうよ」