第7’章 届かぬ想い(3)
痛いほどにきつく抱きしめられ、あたしは意識がしだいにはっきりしてくるのを感じた。
何か強く握りしめていたものが手から離れ、固い音を立てる。その音で現実に一気に呼び寄せられる。それと同時に胸の痛みが刺すほどに強くなった。
――この感覚
あたしはそのなぜか切ない感覚に息が詰まった。
瞼を開き、ぼんやりと映るのは、シリウスのその漆黒の瞳。
――なんで、こんなに胸が痛いの
あたしは心配そうに、そしてひどく辛そうに覗き込むその瞳を見つめながらゆっくりと思い出していた。
あれは――夢?
全部悪い夢だったのかしら……。だって、あたしは彼の腕の中にいて……今まで通りに抱きしめられている。
なぜ、そんなに悲しそうな目をしているの。
あれは……夢なんでしょう?
あたしはふと周りに人垣が出来ているのに気がつく。
たくさんの人に囲まれているはずなのに、なぜか誰も言葉を発しなかった。深刻な顔をしてあたしをじっと見つめている。中には睨むような目つきの人もいた。
扉の方を見ると、人垣の後ろに父の顔が見える。
その顔は見た事が無いくらい悲しそうな、そして、何か……覚悟をしているような、張りつめた様子だった。
――なんでそんな顔……
さすがに怪訝に思い、あたしは視線をさらに移動させる。
そして、なぜかどうしても見たくなかった足元を見た。
――――!!
……魂が抜けた体というのは……どうしてこんなにも気味が悪いのだろう。
――眠っているようなその青白い顔。黒いダイヤのような瞳は瞼に隠され、輝く事は無い。栗色の髪は血で赤く染まって床に張り付いて固まっていた。腕や脚は凍ったゴムのような堅さで床に横たわる。昨夜は一瞬殺意さえ覚えたその女性、エリダヌスは、ただの抜け殻と成り果てていた。
あたしは一枚の絵を見るような気分でその光景をただ眺めていた。現実とはとても思えなかった。突然やってくる死というものは、いつも絵空事のようだ、そう思う。
それでも次第に足元からじわじわと恐怖が競り上がって来た。そしてふと悟る。
――ああ、そうか
昨日の事は夢ではない事を。
一気に流れ込む記憶。沸き上がる不快感。
気を失っている間に固められた記憶は、昨夜よりも鋭くあたしの胸を抉っていく。まだ新しい傷跡がさらに抉られ傷を大きくしていった。
肌が触れあっている部分が急激に冷えていく。鳥肌が立った。
少し視線を上げるとそこにはミネラウバが意味ありげにあたしを見下ろしていた。
――どうするの?
その唇が微かに動く。
『これで……皇子から逃れられるわ』
昨日囁かれたその言葉が耳に蘇る。
あたしはその言葉に押されるように、体に回されたシリウスの腕を押しのけた。
あっさりと緩んだその腕。何か言いたげに戸惑っているその瞳を避けるように立ち上がる。
目の前にはあたしを睨むように見つめる背の高い男が立っていた。
おそらく彼が仕切っているのだろう。周りの人間がそういう目で彼を見ている。
あたしは手首を男に差し出した。
今は……早くここから連れ出して欲しかった。
もうその視線を体に受けていたくなかった。
「まずは事情を聞かせて頂きます。逃げようとしなければ手荒なことはしません」
男の言葉に頷く。
逃げたいのは……シリウスからだった。
あたしはすぐにでもそこから逃げ出したかった。
「……スピカ!!」
悲壮な叫び声が部屋に響き渡る。
あたしはもう彼の姿を見ることは出来なかった。
「さようなら」
シリウスという名のあたしの好きだった男の子は、もういなかった。
「皇子」