第2章 揺らぐ覚悟(3)
僕が自室に戻ると、予想に反して、そこには誰もいなかった。
石造りの広い部屋が、僕が出て行った時と同じ状態でそこにあった。暖炉に火が灯っているのに、人がいないだけで、寒く感じるのはなぜだろう。
側にいた年老いた侍女に尋ねる。
「スピカは? セフォネ」
「スピカ様には、別室がご用意されています」
そういえば、スピカにも部屋が用意されるのは当然か。正式ではないにしろ、妃なのだから。
僕は身を翻して、部屋を出る。
「で、スピカの部屋はどこ?」
僕が、尋ねると、セフォネは慌てたように僕の前に立って頭を足れる。
「申し訳ありませんが、もう今までのように軽々しくお会いにはなれません。伽が必要であれば、申し付け下さいませ。準備がございます」
——なんだって?
僕は思わずセフォネを睨む。彼女は僕の視線にもたじろぐこと無く、堂々と僕の目を見ていた。
「会えないって、そんなわけないだろう」
「ですから、お会いになれないわけではございません。ただ皇子にはこれから予定もございますし、それに合わせて動いて頂かないと……。式までもう幾許もございませんし、やらなければならないことがたくさん残っております。ご不在の時の分がありますので、今からでも間に合うかどうか。——スピカ様についても同様です。もっとも……彼女の場合は、お作法から何から、最初からですのでもっと大変ですが」
最後の方、馬鹿にしたような響きが混じったような気がした。
侍女と言っても、ほとんどが貴族出身。このセフォネもそうだ。平民出のスピカのことを良くは思っていないのかもしれない。
父の話を思い出す。
――宮は、女にとって戦場となんら変わりがないのだ――
僕は急にスピカのことが心配になる。
今、彼女はどうしてるんだろう。
――しかし、皇太子としての勤めについて含まれると、無理に部屋に押し掛けることは無謀だと思えた。それこそ、悪い噂を広める原因になりかねない。
「……分かった。……では、夜まで待つ。準備を頼む」
僕はそういうと、おとなしく自室に戻った。
*
……しかし、伽って言ったら……当然だけど、夜二人っきりになるのか……。
スピカが怪我をしてから今まで、ずっと一緒に居た割には、夜は別々だった。彼女は心も体もボロボロだったし、少し触れるだけで壊れそうだった。
傷が癒えたら、今度は僕がいろいろ考えてしまって……。いつの間にか触れるのが怖くなっていた。
結局、最後に彼女を抱いたのは、あの、記憶を取り戻した夜。もうひと月も前だ。
馬車の中での叔母との会話を思い出す。
——ルティ……か。
結局何もかも曖昧になったままだ。あいつのスピカへの気持ちさえ、さっぱり分からなかった。信頼していただけに……あの時の、あの目、あの言葉が僕を苦しめる。
――俺はずっとお前のそんな顔が見たかった――
僕への当てつけとしか思えない、奪うようなくちづけ。抵抗できないスピカ。
あの光景が、どうしても頭の中から離れない。
スピカがあんな目に遭ったのは僕のせいなのだから、忘れてはいけないと、そう自分に言い聞かせていた。
しかし……本当は忘れられないのだ。彼女の躰が僕の知らない反応を示したら……そんなことを考えると、気が狂いそうになる。
——だめだ。
こんな風に考えるくらいなら、叔母の言うように……忘れなくては。
そうだと分かっても丸ごと受け入れられるくらい、大きくなれたらいいのに……。
ふと、僕の頭に、レグルスのことが思い浮かんだ。
彼の妻、そしてスピカの母は、元間者だった。敵陣でその躰と情報を交換するような、そんな仕事をしていた。そうして、その仕事中に、レグルスと出逢っている。
彼は、その過去を許せたのか……。
話を聞いてみたかった。
「でも……それは無理だ……」
僕は呟く。
きっと僕がスピカのことを信用していないという風に思われる。彼にだけはそういう隙を見せるわけにいかなかった。
「殿下? ちゃんと聞いてらっしゃいますか?」
目の前の男がいらだったような声を上げる。
白いものが大分混じった茶色の髪の隙間から、同色の瞳が覗いている。
あぁ、そうだった……。授業中だった。
あの後、国の歴史やら、外国語やら、諸外国の王族の名前やら、その他諸々を僕は必死で頭に詰め込んでいた。
本当にセフォネが言ったように大量だ。
確かに……式までに間に合わないかもしれない。
しばらくは、ほとんど部屋から出られない軟禁状態になりそうだった。
しかし、あまりに頭が疲れて来て、ぼうっとしていたようだ。
ふと窓の方を見ると、外はもう真っ暗。ずいぶん長い間、拘束されている気がする。
「すまない、イェッド。ぼうっとしてた」
僕は素直に謝る。
「今日は戻って来られたばかりでお疲れのようですし……続きは明日にしましょう」
イェッドはそう言うと、少し微笑んで、席を立つ。
「あぁ、えっと、イェッド。——あなたがスピカの授業も受け持っていると聞いたのだけど」
これだけの知識をひとりで網羅している人間は他にいなかった。
一度に効率よく勉強を進められるということで、急遽彼が僕たちの教育係に抜擢されたのだ。
彼は僕とスピカを交代で教えていると言う。
髪はだいぶん白いけれど、こちらを見つめるその目はかなり鋭く、なんだか不釣り合いだ。僕は少し肝を冷やす。
「そうですが」
「……その、彼女の様子は……特に変わったことはなかった?」
「ご自分で今から確かめられるのでしょう?」
彼はその唇を少し歪めて冷たく笑う。
「……うん、まあ、そうなんだけど」
スピカのことだ。僕の前で弱音なんか吐かないに決まっている。
「何か気づいたことがあったら、教えてくれないか」
僕は一応、いろんな人にそれを頼むことにしていた。特に、彼女を観察できる立場にある人間には。——味方は多い方がいいに決まっている。
「分かりました」
彼は少々呆れた様子で少し息を吐くと、そう言った。