第6’章 裏切り(2)
「スピカ」
シリウスは扉を閉めるなり、あたしを抱きしめる。
微かに覚えのある香りが漂い、嫌な予感が胸を刺し、息が詰まる。
シリウスはそんなあたしに気づかないまま、愛おしそうに頭を撫でつつ、髪を引き、あたしを少し上向かせると、一気に口づけて来た。
「ん」
待ちきれないように彼の舌が唇を割り、あたしの舌に絡まる。腰に巻き付いた手は早くもドレスの紐を解こうとしていた。
「ちょ、っと、……待って」
あたしは言葉を奪われながらも、必死でそう言う。
聞きたい事が山ほどあった。聞かずにこれ以上先に進むのは許せないと思っていた。
シリウスは顔を引きはがすように離すと、焦れたようにあたしを見つめる。
「何」
「話したいことが」
「あとで」
シリウスは、そう言い切ると、くちづけを続けようとする。
今までに無いくらい強引だった。
「待って」
俯いてそれを避けると、彼はあたしを抱きすくめ、寝台に押しつける。
そして両の手首を押さえ、あたしの自由を奪う。
「おねがい」
……話を聞かせて。
あなたは、本当に他の妃を迎えてしまうの。それとも、もう……迎えてしまったの?
「シリウス」
その身にまとっている香りは――?
聞きたい事は、シリウスの激情に流され、見えなくなっていく。
「おねがいだからっ」
「黙って」
シリウスは、苛ついた様子であたしの口をその口で塞ぐ。これ以上話なんかしていられない、そのくらい余裕が無いようだった。
香りがいっそう強まり、絶望感が襲う。
やっぱり――あのヒトの香り、だ。
意地悪そうな微笑み。
豊満な肢体。
辺りに匂うような、その色香。
――シリウスが、この香りを纏っているってことは。……しかもこんなにしっかりと。
彼女が部屋に入っていく後ろ姿が蘇る。
あたしは、我慢できずに、シリウスの記憶に忍び込む。
そして見てしまった。
彼の記憶の中の、そのくちづけ。
彼女の一糸まとわぬ姿。
抱きしめた感触。
触れ合った素肌の熱。
ショックで一気に力の抑制が利かなくなる。
そうして、見たくもないのに、彼の心の奥底にある気持ちまでが見えてしまう。それは堰を切ったかのようにあたしの頭の中に流れ込んでくる。
彼は、その指や唇、舌で、あたしの体を開いていく。
『――前は、こんな風な反応だった? あのときは……? その前は?』
彼は表面上その熱を持て余す一方、どこか冷めた様子で疑うようにあたしの反応を見張り、他の男に付けられた快楽の痕が無いか確かめていた。
体が熱を持つのとは裏腹に、頭だけがどんどん冷えて行くのが分かる。
――いや
必死で叫ぶ拒絶の言葉は、彼の唇に押し込められて、外へ漏れる事もない。
彼はあたしが嫌がるなんて事、考えもしないみたいだった。
セフォネの言葉が頭の隅を擦る。
あたしの役割を考えれば……それは当然なのかもしれなかった。
口づけしているシリウスはいつの間にかルティに入れ替わり、あたしはそれがあのときのことだとすぐに分かった。彼は思い出していた。
一気に流れ込む記憶が現実と混じり合い、あたしは一体自分が誰なのか、それさえ分からないような気がしていた。
彼の記憶の中のルティはシリウスの体を乗っ取ったかのように、あたしをその彫刻のような体で翻弄していく。
そして、体の上にいる男は目紛しく入れ替わる。
彼の頭の中で、あたしは、ルティやイェッド先生、他の様々な男の人に抱かれていた。しかも、それを抵抗もせず受け入れているのだった。
――つまり、シリウスはあたしがそうするのではないかと疑っているのだ。……あたしがシリウス以外の人を受け入れるんじゃないかって。
彼の腕の中で、彼以外の男に抱かれている――あたしは自分の身に起こっていることをとても受け入れられず、人ごとのようにその状況をどこか遠くから見つめていた。
嵐に翻弄される木の葉のように、いろいろな腕から腕を渡ってくるくると舞い、やがて地に落ち、粉々になる。
――こんなのって、ない。
あんまり、だ。
嵐が過ぎるのを待つように、あたしは、目を閉じ、心を閉ざしてその時間を過ごした。
涙だけがただ、枕にしみ込んでいく。
それと共に僅かに残っていた希望が流れ去り、後には絶望だけが広がった。
「……スピカ?」
シリウスが、ふいにあたしの体から顔を上げる。
「……泣いてる? ……どうして」
月明かりに照らされたシリウスの顔が一気に強張る。
そして彼は困ったような顔をしてあたしから体を離すと、その長い黒髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
彼はしばらく黙ってあたしの答えを待っていたが、やがて、おそるおそる聞いた。
「嫌、だった、の?」
何も言えずにいると、彼は明らかに気分を害したようで、あたしから顔を背ける。
苛立ちを隠そうともせず、彼は服を身に纏いだす。所々、ボタンが掛け違えているが、それを気にする事も無く彼は立ち上がる。
「…………泣くほど嫌なら、そう言えよっ……」
そう吐き捨てるように言うと、彼は、あたしを振り向きもせずに部屋から出て行った。
扉が閉まる音だけが、派手に部屋に響き渡った。