第6’章 裏切り(1)
「何かいい事でもありましたか? そういえばさっきレグルスがここから出てきましたが」
イェッドが尋ねた。
知らなかったが、この教師イェッドは、父の古い友人だそう。その割に父は彼がとても苦手らしく、あたしの前ではほとんど口をきかない。
何かあったのか尋ねたけれど、答えが返って来る事は無かった。
あたしは本から顔を上げると、イェッドに向かって微笑む。
「何でもないんです」
今日は何が何でも宿題を持って帰るわけにはいかないんだもの。必死にならざるを得ない。今夜の事を考えると、妙に吹っ切れたような気分だった。
「……おや」
ふとイェッドが呟く。
「何か?」
あたしは課題に取り組みながら尋ねる。目は本の上の文字を追っていた。
「いえ」
顔を上げると、彼は複雑そうな顔をしていた。そして何か言いかけたが、結局口ごもる。
「……何にせよ、やる気がでたことは良かった。覚悟を持つのと持たないのでは、まったく捗りが違いますからね」
覚悟、ではない。そう思って少し後ろめたい。あたしはただ……シリウスに会いたいだけなんだもの。
イェッドのまっすぐな視線が少し痛くて、窓の外を見る。そこでは庭の木々が寒そうに凍えているだけだった。
*
夕食後、部屋に戻ろうと一人外宮の廊下を歩いていたら、背中に突然鋭い高い声が突き刺さった。
「あら、遅い夕食でしたのね」
あたしは渋々振り向く。時間がないのだ。この後もう一つ授業が残っている。それが終わったら……今夜は。邪魔しないでほしかった。
そこには意地悪そうな笑みを浮かべたエリダヌス、それから侍女が後ろに一人控えていた。
いつも通りに鼻を突くような香水の香りが漂う。
どうやら、すでに湯を使った後らしく、その頬がほんのりと上気して、妙に艶かしい。
「……なにか?」
あたしが少し睨むと、エリダヌスは意外そうに眉を上げた。
「あら……なんだか元気じゃないの」
用事なんかなさそう。また嫌がらせ? もう、放っておいてほしい。
顔を背けると、後頭部に向かって嬉しそうな声が投げかけられた。
「今日は、私の番なのですって」
「?」
……どういうこと?
不審に思って再び振り向く。
「今夜、私が閨に呼ばれる事になったのです。今から行って参りますわ?」
「……なん、で」
「皇子がお望みになったからに決まってるでしょう?」
勝ち誇ったような笑みだった。
「そんなはずないわ」
思わずそう口に出していた。
「ふふ。何をおっしゃるの? あなた、そんなに自分に自信があるの? 皇子を独り占めできるほどに?」
侮蔑の籠った視線があたしの体に刺さった。
怒りと恥ずかしさで顔が熱くなるのが分かる。
「別に信じなくてもよろしくってよ? でも、知っていた方が今後のためにはいいのではなくって? 寵を得る事が出来ない妃の行く末はあなたもよくご存知でしょう?」
「……」
何も言い返せなかった。エリダヌスはさらに何か言い募っていたが、耳の中に膜が張った様で、それ以上の言葉は受け入れられない。
嘘に決まってる。
……嘘に決まってる!
そう思おうと必死だった。
あたしは、我慢できず、身を翻すと彼女の後を追う。どうしても気になった。
彼女は本当に本宮へと向かって歩いていた。
そして、北へ北へと進む。
……どうしよう。……どうしよう!
あたしの目の前で、部屋の前の侍従は、疑いも無く彼女を部屋へと誘った。彼女はシリウスの部屋へと消える。
すべてが幻のようだった。
呆然と廊下でそれを見つめるあたしを、侍女が見つけて、声をかけた。
「スピカ様! 先生が捜されていましたよ? 授業が始まります。こちらへ」
*
頭の中がぐしゃぐしゃだった。
シリウスが呼んだのでなければ、エリダヌスはすぐに部屋から出てくるはずだった。
でも……あたしが見てる間にそう言う事は起こらなかった。
ということは、彼と彼女は。
いっそのこと扉を蹴破れば良かったのかもしれない。そして、確認すれば良かったのかもしれない。シリウスを信じるのなら、そうすれば良かったのだ。きっと何も無かったはずなのだから。
でも……あたしは、怖かった。
目に入るものが……もし。もし……!
「ほら、また扇を落としてしまわれて。どうされました? 顔色が悪いですね。……体調でも悪いのですか?」
教師が扇を拾ってあたしに手渡す。
あたしはただ淡々と授業をこなしていた。心はどこか別のところをさまよったままで。
首を微かに横に振る。
……今からでも部屋を訪ねる事ができるの?
自問していた。
あれから一刻ほどは経っている。今から行っても、全て終わった後かもしれなかった。
あたしは後悔していた。
どうして、止めに入らなかったの。こんな風に思うくらいなら、エリダヌスを止めれば良かったのに!!
考えは堂々巡りするだけだった。
突然、扉が大きな音を立てて開け放たれ、あたしはその音でびっくりして我に返る。
見るとそこにはシリウスが居た。
寝乱れた髪。気崩れた夜着からは滑らかな肌がわずかに覗く。それはまるで……情事の後のよう。
部屋に居た全員があっけにとられた。あり得ないものを見たという表情だった。
彼の餓えた獣のように獰猛な瞳に射すくめられる。そんな瞳、見た事が無かった。
「……スピカを少しだけ借りる」
彼はそう言うと、あたしの右腕を掴む。
痛いくらいに力強かった。
戸惑うあたしに有無を言わせず、彼はその部屋を出ると、すぐ目の前にあった扉を押し開く。
そこは無人の客室だった。