第12章 最後の日(4)
一歩一歩がなぜだか重たかった。
――不安? それとも、これでスピカの自由を得ることが出来るという期待か? それとも――
悩みつつたどり着いたその部屋。
扉を叩くと聞きなれた澄んだ高い声がする。
僕は思い切って扉を開く。
「――ミルザ」
「お兄様、どうされましたの? 怖い顔をなさって」
柔らかく微笑む妹に僕は問う。
「聞きたいことがあるんだ」
「……どうぞおかけになって?」
ミルザは僕に椅子を勧めると、侍女を呼び、お茶を用意させる。
テーブルの上に乗っていたフルーツが少しだけ甘酸っぱい香りを放っていた。僕はその中からオレンジを一つ取り出すと、それをいじりながら、黙って茶を待った。
「聞きたいことって?」
「……うん。お茶が来たら、話す」
やがて待っていたものがやってくると、僕は口を開いた。
「……君の父親って、メサルチムだったんだね。
……ミネラウバ。……いや、タニアか」
テーブルの上に、茶器が落ち、音を立てて割れた。茶菓子も、銀で出来たフォークも同様に散らばる。
見上げると、青白い顔をしたミネラウバが目を見開いて僕を見下ろしていた。
「宮では、侍女はその身分を隠して勤めること、すっかり忘れてた」
僕は淡々と言う。
目の前ではミルザがきょとんとして僕とミネラウバを交互に見つめていた。
おそらく、ミルザの耳にはそのことは届いていないのだろう。
「え、タニアって……つまり、お兄様の」
「そうだ。なんで顔さえ見せないのかって不思議だったんだ。
メサルチムには……言っていないんだろう? 前回の事件のことは」
ルティと繋がっていたことなど、メサルチムがもし知っていたなら、いくらあいつでも妃候補にするなど考えないだろう。僕がタニアが誰か知れば、その話は父親にすぐに知れる。普通に考えても、年頃の若い娘にとってそんな話がつきまとうのは、将来を考える上で致命的だろう。親が知らないとすれば、……なんとしても隠し通そうとするに決まっている。
ミネラウバは少し震えながら、割れた茶器を片付けている。
「……私は……」
「ごまかせはしないよ。……こればかりは。なんならメサルチムを呼んでもいい」
ミネラウバは手に持っていた茶器を再び落とす。
あの強引な父に、この意志の弱そうな娘なら、だいたいの力関係は想像がつく。
やはり絶対に知られたくはないのだろう。
「君がやったんだろう」
「……なんのことでしょうか」
震える声で言うと、彼女は僕をまっすぐと見つめた。
僕は初めて彼女の瞳をしっかりと見た気がしていた。青いその瞳は微かに震えていた。
静まりかえった部屋に僕の声が響く。
「エリダヌスを殺したのは、君だ」
「……いいえ。それはスピカ様です。……皇子もご自身でご覧になったでしょう?」
震えながらもきっぱりとミネラウバは否定した。
「いや、違う。彼女は犯行時刻には僕と一緒に居た。それは確実なんだ」
「皇子はあの娘を手放したくなくて、庇われていらっしゃるのでしょう」
「……たとえそうだとしても……彼女には不可能だった」
ミネラウバの表情が一瞬強張る。
「……君は、スピカが怪我をしたことを知っていたか? 右手の手のひらに」
「右手……」
「彼女は、右手で力の要る作業をすることはもう出来ないんだ……例えば、剣を握るとか……ナイフを使うとかね」
「……」
「だけど、発見時、彼女がナイフを握っていたのは、右手だった。……そして、遺体を調べたら、致命傷は右利きの人間から刺されたものだと分かった。……もしスピカがやったなら……左側からの傷でないとおかしいんだよ」
ミネラウバは盆の上に壊れた茶器を乗せながら、黙って僕の話を聞いていた。
「……本当に使えなかったかどうかなど……分かりませんわ。火事場の馬鹿力、などと言うではありませんか」
「いや……それ以上に、おかしいことはあるんだ。
……君、暗かったから分からなかった? それとも、気づいたけれど気にならなかったのかな?」
「何をです」
僕は、右手を上げると、手に布を巻く仕草をする。
「……スピカの手の包帯だよ」
「……包帯?」
「彼女は傷を隠すために手に包帯を巻いているんだ。……そして、発見時、その色は白かった」
「……」
「どういうことか、分かるだろう?」
僕は、ハンカチを手に巻くと、茶菓子用のフォークを持ち、テーブルの上に置いたオレンジに思い切りそれを突き刺す。オレンジをフォークごと持ち上げると、一気に果汁が滴り、手に巻いたハンカチに染み込んで行く。
「……こういうことだ」
部屋には沈黙が広がった。