第9章 一縷の望み(5)
レグルスと部屋の前で別れ、イェッドと向かい合ってテーブルを囲む。
テーブルの上には頼りなげにさっき描いた部屋の見取図が乗っていた。
僕は黙ってそれを見つめる。
じっとしていると、さきほどの傷がジクジクと痛んだ。
「追いつめられましたね。どうやって逃げるんですか?」
イェッドが少し呆れたように息をつく。
「バレないと思ったんですか? レグルスに。あいつは娘のこととなると異常に鼻が利くのですからね。彼女があんな風になった原因、あなたにあることくらいすぐに分かりますよ」
「……いつかバレるとは思っていたよ」
僕は見取図を眺めながら呟く。
――しかし、猶予が全くないわけではない。
「最後通告はまだだ。どちらにせよ必死でやるだけだ」
真犯人探しも、スピカの説得も。
「ふうん」
イェッドが少し感心したように息を漏らす。
「意外に肝が据わっていらっしゃる。やらなければならないことは分かっておられるようだ」
僕はイェッドのその茶色の目を見つめて頷く。
「――僕は逃げない」
逃げ道なんかどこにもないのだから、まっすぐに行くしかなかった。
「さっき言っていた話だけど」
気持ちを切り替えるとイェッドに切り出す。
「ああ、違和感についてですね。……私が気づいたことを良いでしょうか?」
僕は頷く。
「……まず1つ目。彼女はなぜ逃げなかったのか、です」
「……あのとき、スピカは倒れていた」
「そうです。調べたところ、彼女にはなんの外傷もありませんでした。殺人を犯したとして……あんなところで倒れているのは少々不自然です。普通の人間は逃げるでしょう」
確かに。
「グラフィアスはどう考えてるんだろう」
「近衛隊の見解は、『気が緩んで失神したのだろう』と」
――そうか。
その時、急に思い出した。
「……スピカの服だ……!」
なぜ汚れていなかったのか。
不自然なほど綺麗な淡い黄色。血飛沫のひとつもついていなかった。
その上、あの血溜りの上に倒れていたというのに……服に染み込んでいないということは。
「……血が乾いてから、倒れたということか」
「……血が乾くまでには、三刻ほどはかかりますよ。だとすると、どうしてもおかしいですね。人を殺して、三刻も逃げずにあの部屋でぼうっとしていたということですか?」
「それよりは……血が乾いてから部屋に呼び出されて、あの状態を見て気を失ったと考えた方がずいぶんと自然だ」
「そうですね」
イェッドは頷く。
「グラフィアスに言ってくる!」
立ち上がる僕をイェッドは鋭い声で制する。
「お待ちください。……そんなのはいくらでも理由をつけられます。もっと確実に彼女がやっていないと言う証拠をあげない限りは無駄です。
慎重にやらないと、ひっくり返されますよ」
……下手に手の内を見せるなということか。
僕は気が抜けて再び椅子に沈み込む。
「1つ目ってことは、他にも気づいたことがあるってこと?」
僕は深く息を吐くと、イェッドに尋ねる。
「ええ。……彼女の動機です」
僕は首を傾げる。
動機なんて……決まってる。
「スピカがあなたから逃げたいと思うくらいにひどい仲違いをしているとなると……彼女がエリダヌス嬢を殺す理由なんて、ありますか? それこそ、エリダヌス嬢のことも他の候補のことも黙認して、ひっそりと去ればいいのに」
そうか。
そう言われてみればそうだ。
グラフィアスも言っていた。僕がスピカを無理に妃にしようとしていると。
そう思われているのであれば、――彼女に動機なんか無いんだ。
「それで、あいつ、あんな顔してたのか……」
あのとき、確かにグラフィアスは余計なことを言ったというような顔をしていた。よく考えると、あの時の彼の発言は「スピカが僕を独り占めしようとしていた」という動機とは矛盾していた。
僕がスピカと一緒に居て、仲違いをしていたことを言えば……スピカに動機が無くなる。それを恐れたのか。それで僕の口を塞ごうとしたのかもしれない。
「穴だらけじゃないか」
僕はちょっとだけ気が楽になる。
「しかし……あの密室の謎を暴かない限りは……ひっくり返せません」
「……そうなんだよな」
僕は再び見取図に目を落とす。
出口の無い部屋。閉じ込められたスピカとエリダヌス。
「仕掛けは犯人のみぞ知る、か」
犯人だけなら……スピカは知っているはずだ。あれだけしっかりと凶器を握っていたのだから。……彼女に聞けばすぐに犯人が分かるというのに。
僕の暗殺事件で彼女が力を尽くしてくれたことを思い出す。
今の彼女は、決して何も語ろうとはしないだろう。
彼女の心を取り戻すことが出来れば……。あるいは。
しかし、これが今の僕には一番難しいことかもしれなかった。