第8章 背水の陣(4)
僕は夜着のままその場にあった上着を掴むと、近衛隊の詰め所まで走った。靴を履く時間も惜しく、裸足のままひたすら駆ける。
いてもたってもいられなかった。
あんな話を聞いた後では、部屋で休むなんて、もう出来ない。
外宮入り口にいる兵に声をかけ、レグルスを呼び出す。
「どうしたのです。話なら明日でも……」
「スピカは、どこにいるんだ!?」
レグルスは不可解そうに眉をひそめる。
「どうしたというのです。……大丈夫ですよ、宮にいる限りは安全です」
「メサルチムが……」
僕は先ほどの件をレグルスに手短に話した。
「……牢には明日以降移されます。移るまでは、近衛隊の管轄ですが……移ってからは確かに……」
レグルスが考え込むのをみて、僕は余計に焦る。
「なんとかならないのか」
スピカの安全と、彼女との約束。どちらも同じくらい大事だった。
「……皇子が、メサルチムの要求を呑むのが……一番確実かと」
レグルスが僕の目を見つめ、静かに言った。
「……」
僕は頷くわけにいかなかった。
レグルスは……僕を試している。
僕は今までに無いくらい必死で頭を働かせ、一つだけ案が浮かんだ。
……あまり良い案だとは思えないが、何もしないよりはマシだと思えた。
「……レグルスの部下で有能で信用できるやつって、いる?」
「ハリスから連れて来た者なら、2、3人は」
僕はレグルスのその緑灰色の瞳を真剣に見つめた。
「頼みたいことがあるんだ」
僕が彼の耳元で囁くと、レグルスはその顔に少しだけ笑みを浮かべた。
「……分かりました。手配しましょう」
なんとか及第点か。
僕はホッとする。
本当は自分でそうしたいが……僕にしか出来ないこともあった。
レグルスの部下を信用するしかなかった。
「スピカは、……あいつの部屋で軟禁されてます」
レグルスはそう言いながら、東の外宮を見やった。
見ると、彼女の部屋からは僅かに明かりが漏れている。
僕はそれに導かれるように外に出ると、裸足のまま部屋のすぐ前まで歩く。
夜露を含み湿気を帯びた芝と土が僕の足から体温を奪う。
僕は部屋の窓の前で立ち尽くす。
僕の背よりも少し高いところにある窓に人影が映り、僕は息を呑んだ。
たとえ影でも見間違えることはなかった。
その髪を結った小さな頭、華奢な首から肩のライン。
堪らずに名を呼ぶ。
「スピカ」
影がびくりと強張る。
僕は黙って待つ。
しかし、窓が開けられることはない。
諦めきれずに、僕はふたたび名を呼ぶ。
「スピカ!」
影がふと動いたかと思うと、部屋の照明が落とされる。
僕は絶望的な気分で、目をつぶる。
瞼の裏に焼き付いた人影が次第に薄れてくる。
僕は気がついた。
いくら……彼女の疑いを晴らそうと、彼女の心を取り戻さなければ意味がないことを。
彼女が拒めば、僕にはもう、どうしようもないことを。
あと3日。
彼女の体も、彼女の心も、どちらも逃がすわけにいかなかった。
どんなことをしても捕まえなければならなかった。
「僕は諦めない。絶対にだ」
沈黙する窓に向かって続ける。
「……君を愛してる」
言葉がするりと溢れ出た。
ずっと言いたくて、でも半人前の僕には相応しく思えなくて言えなかった。
でも、今言わないと駄目だと、なぜかそう思った。