第1章 ひとときの平和(1)
馬車の窓を開けると、地面を横たわる雪に冷やされた風が細く吹き込んだ。
「──寒いな」
僕は、襟元まで毛布を持ち上げながら、外の景色を眺める。
季節は春に移り変わりつつあったが、まだまだ目に飛び込んでくる色は半分以上が白かった。それでも都──シープシャンクスが近づくにつれ、雪の量は減って来ていた。時折、雪の中から緑色の芽がひょっこりと頭を出し、そこだけ空気の色を柔らかく変えていた。
春の足音を感じつつ、僕はこれから都で僕たちを待ち受けているだろう、様々なことに思いを馳せていた。
僕の暗殺未遂に始まった色々な事件は一応終息したかに見えていた。あくまで一応なのは、まだ未解決である、大きな問題が残っているからだった。
その一つであり、問題の大部分であるそれは──隣で僕に凭れ掛かってうとうとと眠る、手に入れたばかりの僕の大事な妃──スピカだ。寝息が服の隙間から忍び込んで腕に触れ、くすぐったい。金色の髪が一房僕の肩にかかっている。僕は、その髪をそっとつまみ、小さくため息をついた。
春の訪れと同時に行われる、僕の立太子とスピカの妃としてのお披露目まで、あと二週間もない。
ジョイアの歴代の妃、そのお披露目の衣装はあらかじめ決まっている。シンプルな絹の白いドレス。そして他に身を飾る物は真珠を細かく繋ぎ合わせた小冠のみ。髪も妃を飾る装飾品のひとつと考えられていて、必要以上に装飾品を着けないのだ。宮に飾られている妃──僕の母を含め──の肖像は皆、同じ物を身につけていた。そして型が同じだからこそ、それぞれの魅力が際立たって見えていた。
スピカの髪は、光の中で蜂蜜を垂らしたような色合いで、とても綺麗だ。金糸よりも僅かに淡くその分儚げだけれど、真珠の粉を溶かし込んだようなその色はすごく彼女に似合っていて、気に入っていた。
ただ、どうしても長さが足りなかった。
彼女の髪は、まだ背中の中程にようやく届くくらいで、女性は髪を腰の下まで伸ばすのが普通のこの国では、異様な短さに見えた。
彼女が髪を切ったのは僕のためだ。命を狙われ宮を追われた僕を助けるため、彼女は騎士になろうとして、性別を偽った。そのために邪魔だった髪を肩までバッサリと切っていた。
そして僕は彼女や彼女の父レグルス、それに僕の叔母ヴェガの支えのお陰で、僕の暗殺をたくらんだ犯人を見つけ、宮での安全を確保して、無事に皇太子として宮に戻ることが出来たのだった。
スピカは不思議な力を持っていた。触れることで人や物の記憶を読むことが出来る能力だ。
その力を使い、僕のために必死になってくれるスピカに、僕はいつの間にか心を奪われていて──彼女を妃にすると決めた。
そして、成人の儀で僕は彼女を妃にした。そうして彼女のすべてを手に入れたはずだった。
しかし、その翌日、その力を狙われた彼女は隣国アウストラリスの王子──ルティに連れ去られたのだった。
僕は、レグルスと共に隣国までスピカを取り返しに行った。そして──本当に色々あったけれど──なんとか彼女を奪還することが出来たのだ。
その際にスピカは手にひどい怪我をし、傷を癒すため故郷であるツクルトゥルスで療養していたのだ。
その間ひと月ほど。ようやく傷も塞がり、立太子の日も迫ったため、僕たちはこうして今、都へと戻っていた。
僕は彼女の髪を指に絡める。そして指の腹でそっと撫でる。作り物ではないその滑らかさを心地よく感じながらも、その不安定な短さに心が重くなるのを止められなかった。
以前短い髪をごまかすためにつけていた髢は、その間の騒動中に紛失してしまっていた。それどころではなかったのだが、本当にうっかりしていた。あれだけの綺麗な髪の色の髢など、手に入るわけがない。何としてでも見つける必要があった。
まだ、それでも、髪はなんとかごまかせるかもしれない。纏めるなり、髪型を工夫すれば、なんとか。
でも、そうはいかない問題がまだいくつか残っていた。
──スピカの身分だ。
彼女の母は、隣国では王家の信頼も厚く、名も力もある貴族──シトゥラ家直系の娘だ。その身分があればジョイアとの政略結婚さえ可能な──情勢に大きく左右はされるけれど──身分を持っていた。
しかし、彼女の母は彼らと縁を切って、平民のレグルスと結婚した。そしてスピカを産んだ後無くなり、シトゥラとの縁は途絶えたまま。そのため、スピカは妃であれば、通常あるべき家からの援助をまったく受けることが出来ないのだ。
宮での権力というのは、結局のところ、実家の力しだいだ。家の持つ力が大きいからこそ、宮でも力を得ることが出来る。
そうなると、彼女が僕の妃になったとしても、扱いは側室──ひどければ愛妾だ。周囲は、僕に正妃を娶れと言い続けるだろう。
でも、僕はスピカを正妃にするつもりだった。
彼女の他に妃なんか要らなかった。しかし……その意見がすんなりと通るとは、いくら甘い僕でも思えない。
ひとまず目に見えている僕とスピカの間に立ちふさがる壁は、その二つだったけれど、他にも色々と問題は潜んでいた。
僕は遠く国境の山並みを見つめる。空に突き刺さる鋭い山の山頂はまだ大部分が白く雪に覆われていた。その向こうに広がる枯れた大地を思い浮かべて、何度目か分からないため息をつく。
──ルティは、シトゥラは、本当にスピカを諦めたのかな……
なにしろ10年ジョイアに潜伏してまで、手に入れようとした宝だ。そう簡単に、諦めるとは思えなかった。
ツクルトゥルス出る少し前に、こっそりと耳に入れられた情報がある。──ルティが王位継承権を手に入れたと。
スピカが手のうちになくとも、彼は他の手腕を発揮したのだろう。しかし彼が妃を迎えたという話は聞こえて来なかった。
それが、彼がまだスピカを諦めていないという意思表示に思えて、ひどく気味が悪かった。