第7章 届かぬ想い(4)
僕はひとまず部屋に戻っていた。
あとから事情を聞きにくると、先ほどの近衛兵から連絡を受けて、待っていたのだ。
第1発見者となったため、いろいろと聞きたいことがあると言われていた。
ふと服から血の臭いを感じ、それと同時に瞼の裏に先ほどの光景が浮かび上がる。吐き気が上がって来た。上着を床に脱ぎ捨て、ぐったりと長椅子に身を沈める。
――本当に、スピカがエリダヌスを?
部屋に戻る間ずっと考えていた。そして、考えれば考えるほど腑に落ちなくなって来た。
どうしてもスピカがその手段を選ぶとは思えなかったのだ。
「逃げる」「罪を犯す」「死を選ぶ」の3つの選択肢があるのなら、まず「逃げる」を選ぶはずだった。
彼女にはレグルスがついているのだから。現にそんな相談をしていたと言うではないか。
なのに、どうして。
――殺すほどに嫉妬に狂っていてくれたのなら、どれほど嬉しいか。
ぼくは不謹慎なことを考えかけて、頭を振る。
エリダヌスがあんな風に死んだというのに、スピカのことしか考えられないなんて。
僕は……なんて自分勝手なんだろう。……本当に、どこかおかしいのかもしれない。
扉を叩く音がして、先ほどの茶髪の近衛兵が顔を見せる。
どうやら責任者は彼らしい。
本来ならレグルスが当たるのだろうが、今回はそういう訳にはいかない。
彼は扉の横で直立不動してよそよそしく挨拶を始める。
「先ほどはどうも。私はグラフィアスと申します。今回の事件の担当となりました。2、3お聞きしたいことがございますので、お時間よろしいでしょうか」
僕は頷いて、目の前の椅子を勧めた。
彼は丁寧に礼をすると、遠慮なく椅子に座り込む。
先ほどはそれどころでは無かったし、なんとも思わずに見ていたが、目の前の男は意外に間延びした優しげな顔をしていた。現場では顔つきも変わるのだろう。
灰色の瞳は大きく、なんとなく蟻を連想させる。
「さっそくですが、皇子。昨晩、彼女と一緒にいらしたというのは?」
「……ああ。一緒だった」
どうやら先にいろいろと話を聞いて来ているらしい。あのとき見ていた人間が漏らしたのだろう。
思い出したくなかった。
「いつ頃です?」
「なぜそんなことを聞く?」
「重要かもしれないからです」
「……夜半少し前から一刻ほどだけど……」
グラフィアスは険しい顔をしてこちらを見つめる。
「それは……変ですね。エリダヌス嬢が亡くなったのは……おそらくその時間帯なのですが」
「え?」
「……死斑というのをご存知でしょうか?」
「しはん?」
僕は首を振る。
「死んだ人間は血流が止まります。そのため、血が滞って痣のようなものが出来るのです。……死斑によっていつその人間が死んだのか分かります。イェッドが調べましたけれど……エリダヌス嬢が亡くなったのは発見から少なくとも五刻は前という結果が出ています」
僕が彼女を見つけたのは明け方五の刻頃のはず。
「ということは……スピカは」
「皇子の証言が正しいとすると、彼女には犯行は不可能でしょう」
「じゃあ!」
スピカがやったんじゃない!!
僕が思わず身を乗り出すと、グラフィアスは首を振る。
「ただ……だれも皇子の言われることは信じないでしょうね」
「なぜだ……?」
「皇子が彼女のことを何よりも大事にしていることを、誰もが知ってるからですよ。……皇子が何を言われても、庇っているとしか思わないでしょう。
……私としても捜査上都合が悪いですし、そう思いたいですね」
グラフィアスは迷惑そうに顔をゆがめ、続ける。
「それに、彼女……少しも否定しませんでした。認めもしませんでしたが。とにかく黙り込んだままで。……だから分からないんです、本当のところがどうなのか。
……しかし、遺体発見時の状況からは誰がどう見ても彼女がやったとしか思えない。犯行の時間帯には皇子しか彼女を目撃した者はいない……。本人は黙秘。こんな状況ではもう彼女がやったと決まりです」
「でも! 僕は確かに一緒だったんだ!」
「皇子や隊長に証言してもらっても意味を成しませんから。あとは……動機です。なにか心当たりは?」
彼は首を横に振ると、僕の言うことなど聞かずに淡々と調書を埋めていく。
「……」
答えてなんかやるものか。
「まあ、大体のところは他の人間から聞いていますから。別に答えなくても結構ですよ。
……皇子を独り占めしたかったのでしょうね。どうしてそんな大それた望みを抱いたのやら……。
今回捕まらなかったら、ほかの妃候補も危なかったのでしょう。こう言っては何ですがアリエス王女でなかっただけよかったですね」
堪らずに僕は彼の胸ぐらを掴むと叫んだ。
「お前にスピカの何が分かるっていうんだ!!」
「……皇子は何を分かっていらしたというのです?」
彼は冷静に僕を見返した。その丸い優しげな目が急に刃のように鋭く光った。
「私は侍女をしていたころの彼女を知っています。いつも幸せそうにしていて、特別に目を惹く少女でした。
なのに、今朝見た彼女には、そのかけらも見当たらなかった。……彼女をそうさせたのはあなたではないのですか?」
……僕は何も言えなかった。
ふう、とため息をつくとグラフィアスは僕から目を逸らして、さらに言葉を落とす。
「……私は、彼女の刑が確定するようでしたら、北方に任務を変えてもらおうかと思っています。そう思っているヤツは結構いるのです。手が届かなかったはずの娘と一緒になれるチャンスかもしれないですから。一応あの土地から出なければ、結婚だって許されますからね。
不謹慎かもしれませんが、……彼女に気がある人間は、実は皆、今回のこと喜んでいるのですよ」
目を丸くする僕の前で、彼はとんでもない告白を淡々と続ける。
皇子の妃を奪おうという宣言をその当人の目の前でしているというのに、その顔は冷静そのものだった。
……こいつには怖いものはないのだろうか。
スピカが侍女をしているときに、特別に目立っていたのは知っていた。
しかし……ここまで熱烈に想われているというのは、知らなかった。
……少し考えれば当然なのに。
「そんなことは、……許さない」
僕は低く呟く。
「許さないも何も……あなたは、皇太子です。刑が確定すれば、私たちと違って、そのお立場ではどうにも出来ません」
「スピカはやってない。僕はそれを証明してみせる」
彼女の無実を本当に知っているのは、あの時一緒だった僕だけだ。
「あなたが?」
馬鹿にしたような響きが混じる。
そうか。
ふいに彼の態度が腑に落ちた。
僕は、この男にちっとも認められていない――。
おそらくこの宮の人間のほとんどが、同じように思っている。お飾りの皇太子だと。
――僕には結局何も出来ない、と。
僕は大きく息を吸うと、腹に力を入れて目の前の男を睨みつけた。
「そうだ。――スピカは、誰にも渡さない」