第7章 届かぬ想い(2)
「スピカ!!!!」
部屋に駆け込もうとする僕を後ろから何人もの強い腕が取り押さえる。騒ぎを聞きつけた侍従たちが一気に集まって来ていた。
「皇子……落ち着いて下さい!!!」
「離してくれ! ……スピカ、……スピカ!!!!」
僕は強引にその腕を抜け出すと、部屋の中に飛び込む。
部屋の中は赤、赤、赤。空気まで染まっている気がした。生唾を飲み込むと吐き気がした。
彼女は赤黒い血の海の中に俯せに横たわっていた。その姿だけ赤い空気の中ぼんやりと薄黄色に浮いている。そして……その真っ白な手には血塗れのナイフが握られていた。
僕は乱暴に彼女を抱き起こすと、その胸に耳をあてる。
――――生きてる!!
体から力が一気に抜けるのが分かる。そのまま僕は床の血の上にへたり込んだ。
ただ、これだけの出血があるとなると……
そう思って彼女の体を調べるが、……どこにも傷らしいものはない。
それどころか、血溜まりの上に居た割には、その服に血は染み込んでいなかった。昨夜見た彼女そのままだった。
…………?
安心するとともに、足元から別の恐怖が胸に競り上がってくる。
……ということは、この大量の血はいったい……。
僕はふと顔を上げ、部屋をぐるりを見渡して、見つけた。
――――扉の裏に、赤黒く染まった『モノ』が横たわっているのを。
一瞬何か分からなかった。
床の上の血がべっとりとこびりついて固まったその髪の毛は、どうやら栗色。
あまりに印象が違ってはいたが、青白く眠っているようなその顔や、体つきには覚えがあった。
それはそうに決まっている。昨晩、僕は目に焼き付いたその姿を消そうと、必死になっていたのだから。
「………エリダヌス、さ、ま」
僕の後から部屋に入って来たミネラウバが、呆然とそう呟く。
本当に……そうなのか……!?
自分の目に見えているその光景が、急に夢から現実となって僕に襲いかかって来た。
「………う、そだ」
倒れてしまいたいくらいの頭痛と吐き気が襲って来たが、腕の中にスピカを抱いていることが、僕の意識をなんとか保っていた。
呆然とその赤黒い固まりを見つめながら、頭を整理しようと必死になる。目を離すと逆に気が抜けて意識を失いそうだった。
……僕がこの部屋に入ったとき、この部屋にはスピカしか居なかった……。
開かなかった扉は、どうやらエリダヌスの体が塞いでいて……この部屋には、人が通れる窓はない。
そして。……スピカはナイフを握っていた。
元は銀色なのだろうが、今はか細い指の間から見える枝の部分まで真っ赤に染まっている。
それは、つまり。
いつの間にか、近衛兵が集まって来ていた。皆一様にぎょっとした顔をしたかと思うと、一気に表情を引き締める。立太子の儀という重大な行事を前にしての、しかも宮内での重犯罪。首が飛ぶほどの一大事だった。
数人が慎重に暖炉の中や、寝台の下などを調べている。
一人の背の高い茶髪の男が僕の前にかがみ込むと、僕の腕の中のスピカを鋭い目で睨んだ。
「皇子……その娘をお離しください……。彼女の身柄を拘束させて頂きます」
当たり前のように、「その娘」と呼ばれ、僕はそれが誰のことなのか分からなかった。
兵たちの一番後ろで、レグルスが、切なそうな光を浮かべた瞳で、僕をじっと見つめていた。
まるで、何か、こうなることを予想していたかのように。
「まさか、スピカがやったと……」
「残念ですが。この状況だと、そう考えざるを得ません」
レグルスは明らかに周りの兵に監視されていた。
彼がスピカの父だということは、同僚の中ではもう知れ渡っていた。その性格から……スピカを連れて逃げるとでも思われているのだろう。
いっそのこと、僕はこのまま彼女を抱えて、どこか誰もいないところに逃げたいと思った。
――スピカが……やったのか。
動機は十分だった。
昨日、僕の記憶を見ているのなら。
……こんなことになったら……お披露目どころではない。
彼女と一緒になることは……出来ない。
それどころか。
もう一生会えなくなるかもしれない――。
「さあ、皇子」
「いやだ」
「皇子!」
「嫌だ!!!!」
今この手を離したら、もう二度と掴めない。
僕は必死でスピカを抱きしめる。
ふと腕の中のスピカが身じろぎして、目を開ける。
握りしめられていたナイフが床に落ち、冷たい金属音を立てた。その手のひらから乾いた血がパラパラと落ちていく。
彼女は僕の瞳をぼんやりと見つめた後、周囲に目をやって、何かを思い出しているようだった。
やがて彼女は体に回されている僕の腕をそっと押しのけた。
そしてゆっくりと立ち上がると、目の前の近衛兵にその手首を差し出す。
近衛兵は軽く首を振ると、彼女に向かって言った。
「まずは事情を聞かせて頂きます。逃げようとしなければ手荒なことはしません」
スピカは頷いて、そのまま近衛兵に連れられ部屋を出て行こうとする。
僕を振り向きもせずに。
「……スピカ!!!」
彼女の小さな肩がビクリと震える。彼女は少しだけ頭をこちらに向けると、感情のこもらない冷たい声で言った。
「……さようなら、皇子」