第6章 裏切り(5)
……なんでこんなことに。
体に残る熱が、苛立ちを増加させる。
スピカ……なぜ。
確かに早急過ぎたかもしれないけど、我慢できなかった。
すぐにでも体を合わせて確かめ合いたかった。
彼女もそうだと思ったんだ。
でも……焦がれていたのは、僕だけで。
あんな風に泣くなんて。あんな目で見るなんて。
裏切られた気分だった。
「あらまあ。駄目ですよ、そんな格好でウロウロしては」
セフォネが、暗い廊下を呆然と歩く僕を見つけて、急いで近づいてくる。部屋にいないのに気づいたようだ。目尻はつり上がり、目の間に縦皺を寄せている。
ふと見るとボタンが掛け違っていた。おそらく動揺しててうまく服を着れていないのだろう。
ほとんど逃げるようにして出て来たのだから。
「いいんだ」
何もかもどうでも良かった。
「よくありません。夜中と言えど誰が見てるか分からないんですから。お立場を考え下さいませ。
……あら? いい香りがしますけど」
セフォネはそう言いながら鼻をひくひくと動かした。
……香り?
「スピカ様ですか? ようやく伽を?」
セフォネの少々呆れ気味な声が響く。
「……いや」
香りって……まさか。
僕は、鼻が詰まっているせいか何も感じない。
しかし……。スピカは……香を使わない。ということは。
「……また、あの娘!」
セフォネは急に憤慨した。
「あれだけ言って聞かせたのに。絶対に嫌がるな! 自分の役割を考えろと」
……なんだって?
「嫌がるなって……言ったのか」
決して嫌だと、やめろと言わなかった、スピカ。抵抗したのも最初だけで。
だから……強引と思いつつ進めたのに……
『……泣くほど嫌だったら、そう言えよっ』
自分の放った言葉が、胸を深々と抉る。
僕は、エリダヌスの身体から微かに漂っていた花のような香りを思い出す。
彼女とのこと、感づいた? それで、あんな風に……話がしたいって……
それを、僕は。
一気に身を翻して、先ほどの部屋に走った。
「皇子!」
背中にセフォネの必死な声が響いていた。
ごめん。
ごめん……! スピカ!
手折られた花のように横たわる彼女がまぶたの裏に浮かび上がる。
いったいどんな気持ちで、抱かれてたんだ……
あんな香りを身に纏っていたんだ。僕がエリダヌスを抱いた後で、彼女を抱いたと思ったかもしれない。
もしかしたら、彼女は、記憶を。
あのくちづけを見られたのか……。
彼女は僕を信用して、その力を封印していたはずだった。
でも、あれだけ頼まれたのに、話をしなかったから。
読んだとしても、おかしくないし、それを責めることなんて出来ない。
……ルティのことも。イェッドのことも。僕が彼女の気持ちを疑ったことさえ……。
僕が気にしてること全部、伝わってしまったのかもしれない……。
何もかもに絶望したようなあの瞳が蘇る。
どうしよう。
どうしたらいい。
部屋に駆けつけて、扉を開いたが、……そこにはもう誰もいなかった。
乱れた寝台だけが、あれが夢ではなかったと僕に告げている。
セフォネが、後ろから必死で追いかけて来て、呆然とする僕を捕まえる。
腰を伸ばしながら、息を整え、僕を睨みつける。
「さあ。皇子。部屋にお戻りください。もう少し仕えてるもののこともお考えくださいね。私などかなり歳なのですから」
「……スピカを……」
声がかすれていた。
「ええ、分かっております。探させますから。まったく、手がかかるったら……」
ブツブツ言いながら、セフォネは僕を部屋に引っ張って行く。
急激に熱が上がっているのを感じた。体に力が入らず、セフォネの力にさえ抗えない。
自分の部屋の扉が目に入ったとたん、急に目の前が真っ暗になり、僕は冷たい石の廊下に膝をつく。
「皇子!!」
セフォネの悲痛な叫び声だけが耳に残った。