第3章 守られぬ約束(2)
衣装合わせが終わり、あたしが本宮へ授業を受けようと移動していると、年配の侍女がさっと近寄って来た。
あれ?
彼女は確か……
「スピカ様。……少々よろしいでしょうか」
シリウスの侍女のセフォネだ。
なぜかひどく憤っている様子だ。
「……はい、なんでしょうか」
あたしはなぜこんなに彼女が怒っているのか心当たりも無く、戸惑う。
シュルマが心配そうにこちらを見ていたが、セフォネに睨まれて、後ろに下がった。
「昨晩のことですが。皇子の伽を断ったとか」
「え?」
「せっかく皇子の方から出向かれたというのに。自分が何をしたか分かっているのですか? 嫌がるなんてとんでもない!! なんでこの城に置いてもらっているか、もう一度良く考えてみることです」
一方的にそう言われ、あたしは呆然とした。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「なんです。言い訳なら聞きませんよ」
言い訳……。
だめだ、この人。ひどく思い込みが強そうだ。
あたしが言葉を探しているうちに、セフォネはふいとその身を翻して、廊下の向こうへ消えて行った。
「なあに、……やな感じ。スピカ様、何を言われたの?」
シュルマがこそこそと呟く。
「……な、なんでもないの……」
セフォネの言葉が急に理解できて、あたしは動揺していた。
――なんでこの城に置いてもらっているか――
何? どういうこと?
あたしって、ただそれだけのために、ここにいるの?
――シリウスも、そう思っているの……?
あたしは授業に身が入らなかった。
先ほどの言葉が胸に刺さったままで、そのことしか考えられない。
「おかしいですね。今日は。昨日とは別人ですよ」
目の前の男性が軽くあたしの頭を持っていた冊子で叩く。
「昨日の夜、何かありましたか?」
「……なんでもないんです。申し訳ありません、イェッド先生」
……むしろ何も無かったからこうして悩んでいるのだった。
さすがにそうは言えず、あたしはごまかした。
昨日は、疲れて体調が悪いにも関わらず、確かにすごく捗ったのだ。
城で受けるはじめての高度な教育。
すごく新鮮で、楽しかった。
勉強して、少しでもシリウスの助けになれば……そう思って夜遅くまで頑張れた。出された宿題もきちんとこなして……。
でも、さっきのセフォネのように言われてしまうと、いくら勉強しても、全部無駄なんじゃないかと思えて仕方ないのだ。
だって、あたしに求められているものは、シリウスの夜の相手だけ。
「皇子ほどではないですが、せっかく優秀なのですから……身を入れてもらいたいんですけどね」
ああ、そうか。
この人はシリウスの授業も見ているんだっけ。
やっぱり、シリウスはなんでも出来るんだ……。
あたしは、彼のことを過小評価しているわけではないが、彼があたしが思っているよりも優れているところを見るとひどくびっくりしてしまう。
幼馴染みで、いろんな情けないところや、弱いところも知ってるから、余計にだった。
「皇子も、もう少し身を入れてもらえば、もう少し自由な時間が取れるはずなんですが……なにか思い煩われているようですし。私の生徒は、やる気が無くて困りますね」
イェッドはその茶色の瞳であたしを優しく睨む。
……茶色の瞳は……苦手だった。その色は、嫌な思い出と直結していた。
あたしは俯いて、再び謝る。
「すみません」
「今日も宿題がたくさんありますし。あと夜はお作法もあるのでしょう? また遅くなりますよ。
……正直に言うと、夜はしばらく眠ることに専念してもらいたいのですけどね。どちらも寝不足となると、捗らないのも当然ですし」
――あたしは別に寝不足じゃない。
……いちいち小さな言葉が気にかかる。
冷やかしのつもりであろう言葉が、心をさらに冷やしていく。
会いたい。
今すぐシリウスに会いたい。
彼に会わなければ、あたしの心は冷えきって、そして凍り付いてしまうんではないか、そう思えた。
シリウスの部屋は、この部屋を奥に進んだ突き当たりにあった。
でも、今のあたしはスケジュールに無い行動は規制されていた。
歩いてすぐの距離がなんでこんなに遠いんだろう。
結局、勉強は進まず、あたしは大量の宿題を抱えて部屋に戻ることとなった。
部屋に戻る途中、すれ違う侍女が昨日の朝に比べて明らかに多く、あたしは気になった。
あたしを見ると、こそこそと侍女同士で囁きあっている。
……だれか、新しく人が来たのかしら。
侍女の多さから考えても、主は一人や二人ではない。
何か気になったが、結局奥の自室の方へと足を進めた。
そして、部屋に入り、ふと大きく開いた窓を見て、あたしは愕然とした。
長い渡り廊下を、シリウスが三人の少女を案内していたのだ。
遠目から見ても、彼女たちが何者なのか、その服装、立ち振る舞いから想像できる。
……まさか。
「どうしました? スピカ様」
あたしが固まっていると、シュルマが不審そうにあたしが見つめている方向を見た。
「あ」
まずい、といった表情で、シュルマはあたしの前に立つと、言う。
「次の予定が迫っていますし、もうお支度をしないと」
そうして強引に窓を閉め、視界を遮る。
「シュルマ……知ってたのね」
「……」
シュルマは気まずそうに俯く。
「落ち着かれたらお話しようと思っていたのです。お披露目まではお忙しいですし、余計なことは考えないほうが良いかと。
皇子にも……たぶん、いろいろ圧力があったんでしょうけど……。何もこんなに早く次の妃をお呼びになることもないのに……」
シュルマがあたしを気遣うように肩を抱くと、憤慨して言う。
あたしは立っているのがやっとだった。
あたしを支えている約束。
『僕は、君以外の誰も娶るつもりは無いんだ』
あたしは信じられない思いでそれを聞いた。
もうその約束だけで、どんなことも我慢できると思った。
でも、その約束がもし無くなってしまったら……あたしは、ここに居続けることが出来るのだろうか。
「送り込んでくるほうも来るほうよ。お披露目さえさせない気なのかしら」
シュルマは何気なくそう言ったが、あたしは、本当にそうなるのではないかと心の隅で思った。