猿と牢獄
私の生活における最大のイベントは、ベランダに出ることだ。一日の中で唯一、私の肌に外の空気に触れる時間だ。
私がいるのは十階建てマンションの七階だ。向かい側には十五階建てのマンションがあって、その間に広い歩道と四車線の道路を挟んでいる。この辺は住宅街なので、夜中の二時くらいになれば車はほとんど通らない。ベランダにて、深夜、誰もが寝静まった時間の空気を吸う。
真夜中じゃないといけない。もし、まだ道路に人の往来がある時間だった場合には、私と同年代の子供たちを目撃してしまう可能性があるから。
それはつまり、ここいらの近所の公立中学の子たちだ。午後の三時あたりに、下校中の彼ら彼女らのはしゃぎ声が聞こえることが多い。友達同士でふさげ合いながら帰っている。私はその声を聞くのがつらくて、ベッドの蒲団の中にもぐりこみ、音楽プレイヤーの音量を最大にし、イヤホンで耳をふさぐことにしている。彼らの世界を少しでも目の当りにするのが嫌だった。ごく平均的な中学生の日常に触れるのが心底恐ろしかった。
それでも、私が他の子らを見てしまうのはまだいい。もし、彼ら彼女らの誰かが私の存在を目撃したらを考えると、頭の中が真っ白になる。七階くらいの高さなら、私の顔を認識されてしまうかもしれない。彼ら彼女らと目が合った私は、急いでカーテンを閉めて隠れるだろう。そして、数十メートル離れた場所で繰り広げられるであろう私に関する噂話が、まるで自分の耳にまで届くように感じることだろう。
だから私は、外界が誰もいない世界になってから初めてベランダに出る。ベランダには除湿機と、百円均一の外履きスリッパと、枯れてから何年経つかわからない朝顔と、昔乗っていた赤い一輪車がある。一輪車にはまだ幼く、性格も明るかったころの私がマジックインキで書いた「えんかわつきこ」の名前があった。
ベランダの手すりのてっぺんの部分に、私は頬をつけた。昼頃の雨の水滴が残っていてヒヤリとした。すぐさま顔を上げた。
ふと、私はなんで毎日ベランダに出て外気に触れるのだろう、と考えた。私はずっと私の部屋の中に籠っていたいはずだ。お父さんやお母さんともなるべく顔を合わせず、内にこもっているというのに、開放感を求めて毎夜ベランダに出る。
もしかして、玄関から外に出たらもっと開放されるんじゃないだろうか、とも思った。
けれどそれはすぐに否定した。中学一年生の女の子が夜で外を一人歩きなんて、閑静な住宅街でも危ない。昼だったら、もっと怖い。
結局私にはこの時間、この場所しかないんだ…………。
その時に私は気づいた。
向いのマンション――私の家と同じ七階の高さのある部屋の明かりがついていた。それ自体は珍しくないことだけれど、視力だけは無駄にいい私は、その中にいる二人の人間の姿にくぎ付けになった。
髪の長い女の人が、こちらに背を向けて背もたれのある椅子に座っている。彼女の左腕は、斜め左上に挙げられている。背もたれに全体重を預けているような、力ない感じだ。
彼女の病的に白い手首を掴んでいるのは若い男の人だ。金色の短髪で気難しそうな顔をしている。彼のもう片方の手はカッターナイフを握っている。
男の人はそのカッターナイフを女の手首に近づける。女の人はぴくりとも動かない。そして、おそらく刃先が女の人の皮膚に触れ、男の人はさらにもう一度カッターナイフを握る手を動かした。
まるで私の手首までも痛んだような気がした。
私は急いでカーテンを閉めた。私の心臓はバクバクと鋭い動悸を打っていた。喉の中が焼けるように乾いていた。
何だったの、今の…………。
何か恐ろしいものを見てしまったのだろうか。私は蒲団に急いでもぐりこんだ。お化けの存在を信じている小さい子供が、トイレから帰って急いで寝床に戻るときのように。
あれは何かの見間違いだ、そうだ、幻覚か何かだったんだ。私はそう自分に言い聞かせて、早く睡魔が私のことを攫ってくれることを期待した。
2
お母さんの声が聞こえたような気がする。
多分、行ってきますの声だ。うちはお父さんが商社マンで、お母さんが公務員をやっている。お父さんが家を出ていくのは七時少し前くらいで、お母さんがその三十分後くらいに出ていく。そして私は一人になる。
普段なら私は朝の四時から十時くらいまで寝ているのだけれど、今日は起きた。体を起こして、不必要に長い髪をかきあげる。何か、気分がすぐれない。体調が悪いわけじゃないけれど。変な夢を見たような……。
ああ、そうだ。向いのベランダで変なモノを見たんだ。しかし、あれは夢だったのだろうか? 現実のような気もする。やけにリアルだった。ベランダのあの手すりに頬を触れたときの冷たさもちゃんと覚えている。
でもまあいいか。別に現実だったからって何かが変わるわけじゃなあるまい。夢だということにしておこう。
私は自分の部屋のドアに耳をつけた。テレビの音が聞こえない、ということは、お母さんはちゃんと出勤したというわけだ。
私は部屋を出て、リビングに向かう。リビングにはトーストの袋と目玉焼きと煮物が置いてあった。そしてお母さんのメモも。
「月ちゃんへ
今日はこれを食べてね
お母さん今日遅くなるから、カレーを鍋に作ったから、晩に食べてね。
牛乳も飲みなさいよ」
私は昼ご飯を食べない。食べると気持ち悪くなってしまう。私は八枚切りのトーストを一枚焼いて、冷え切った目玉焼きと煮物といっしょに胃袋に流し込んだ。牛乳は嫌いなので飲まなかった。
お腹の中にずん、と重い感覚がした時、考えた。私はいつまでこの生活を続けるのだろう。続ける気でいるのだろう。誰ともしゃべらない毎日。他者との一切の関わり合いを拒絶した生き方。口も鼻も空いているのに、とても息苦しく感じる日常。この生活の終わりかたはわからないし、終え方を教えてくれる人もいない。
私は最後の一口を飲み込むと同時に私は考えるのをやめた。これ以上考えるといけない。戻ってこれなくなりそうだ。
トイレを済ませて、歯を磨いて、そしてまた自室のベッドに戻る。私は昨日の悪夢を引きずっていた。睡眠時間が足りない。外の声を遮断するように蒲団を頭まで被る。
「食べた後すぐ寝たら太るよ」
私は太らない体質だから大丈夫。心配してもらわなくて結構…………。
私は起き上がった。
今、何か声が聞こえた。
部屋を見渡す。誰も見当たらない。部屋の外? 泥棒でもいるの? 今の声はお父さんやお母さんの声でもなかった。甲高い、幼い少年のような声だった。同じマンションの子供が勝手に我が家に入ってきたとか? だとしたら、今の自分なんて絶対に見られたくない。
私は飛び起き、ドアの外にそっと顔を出す。そこにも誰もいない……。
「こっち、こっちだよ」
部屋の中から聞こえた。声のした方を振り返る。でも何もない。学習机と、本棚と、開けっ放しのクローゼットと、平べったい衣裳ダンスと、その上にドラえもんと猿とプーさんのぬいぐるみと…………猿?
見慣れない猿がいた。ぬいぐるみじゃない、リアルな猿だ。しかも顔には白粉のようなものを塗っていて、右目を覆うように赤い大きな星がペイントされている。片手にT字型の青いステッキを持っている。まさにピエロだ。
それはドラえもんとプーさんの間で、足を棚のてっぺんから垂らして座っていていた。座高は昔私が使っていたランドセルと同じくらいで、両側のぬいぐるみと同じ、抱きしめやすいサイズだった。
「随分間抜け面をして驚いてくれるじゃないか」
そういわれて、私は口を閉じた。そんなに間抜けな顔をしていたのだろうか。
「どうしたの? 君がずっと茫然としていてずっと何もしゃべらないでいられると、こっちも少し戸惑っちゃうんだけどね」
猿はぴょんと飛び降りて、小首を傾げながらこっちを見た。焦げ茶色の体毛がきらきらと光っている。
「貴方…………誰?」
「名前を聞いているのだとしたら、答えるよ。ぼくはジョーカー」
猿はにぃっ、と歯をむき出して笑った。
「よろしくね」
「何これ…………?」
意味がわからない。
「何とは失礼だな」
「あ、あ、あなた、どうしてここに入ってきたの? なんでいるの?」
「おや? この部屋にいちゃダメかい?」
私は次にいうべき言葉を見失った。別にこの猿(ジョーカー?)に、出ていけというのはどこか気が引けた。もともと私はこういうちょうど抱きしめやすいサイズの動物が好きなのだ。この猿に出ていけというのは小さな子供に意地悪するような申し訳なさを感じてしまう。
「別に…………」
「ん?」
「別にそういうわけじゃ…………」
「君としても、出ていかれちゃ嫌なんじゃないのかい?」
「え?」
「ぼくがいなくなったら、君はまた誰ともしゃべらなくなるんだよ?」
確かにそうだった。私は引きこもりはじめてからほとんど誰ともしゃべってらない生活を続けている。この猿と少し話しただけなのに、まるで正月のおとそを飲んだ後のように喉が焼けてくる。
「それに、君のお父さんやお母さんを含む社会人は汗水たらして働いていて、君のような学生は黒板にかじりついて勉強している時間に、君はずいぶん怠惰な時を過ごしているじゃないか。学校に行かないなんていう甘えを許してもらっているのだから、新たな同居人を受け入れるくらいのことはしてもいいと思うんだけれどね」
「え」
この猿、人の気にしているところをついてくる。
私は何も言い返せなくなった。それとこれとは話は違うじゃないとか、そもそもなんであんたは人間の言葉がしゃべれるの、とか、言うべきことはたくさんあるのに。
「す………」
「え? 何? 大きな声で言って?」
猿がわざとらしく耳を傾けてくる。
「好きで、学校に行かなくなったわけじゃないし……」
「そんなことはわかっているよ。こんな本もあるくらいだからね」
ジョーカーは私の本棚を梯子のように器用に上った。両手両足がしなやかに動きしっぽがゆらゆらと揺れる。まさに野生動物の動きだ。そして一番上の段にある本を取り出した。「ほれ」その表紙を見せられた瞬間私の呼吸は止まる。『ステキな中学生活を送るためにやるべきこと』。私の十三年の人生のなかで、読書したことを一番無駄にした書物だ。
「友達付き合いの方法とかに折り目がついているじゃないか。なるほどなるほど、友達の作り方、友達と喧嘩した時の仲直りの仕方……お? いじめを受けた時の対処法とかまである。ずいぶん親切心に満ちた本だ。どこで見つけてきたんだい?」
「……うるさいなぁ、もう」
「こんな心強い本があるのに、どうして学校で大きな挫折を経験したんだい?」
「…………そこに書かれていないことだってあるの。だいたい、挫折って言わないでよ」
「学校に行けなくなることが挫折以外の何ものだというんだい?」
「うるさいよ。何よ猿のくせに」
私は蒲団を頭からかぶった。なんだこの生意気な猿は? 人の触れてほしくない部分にずかずかと踏み込んでくる。まるで心の裡を見透かされているようだった。なんで人語をしゃべれるんだ。初見で可愛いと思ってしまった私がバカみたいだ。
猿のジョーカーはしばらく、ねぇねぇと私のかけ蒲団を引っ張った。私はかけ蒲団の端を掴んで必死に抗った。しばらくすると、ジョーカーはあきらめたらしく、後ろから私のDSを起動させる音がした。データの上書きはしないでよ、とだけ忠告しておいた。
3
私は教室の椅子に座っていた。
これは夢なんだ。半覚醒の私はちゃんと認識している。現実の私は学校に行っていない。だからこれは記憶の中の学校なんだ。十三歳の私はこれまでの人生の蓄積が少ない。だから、夢の中で構築される世界もこんなものだ。決して楽しい記憶もないのに。
私は自分の椅子に座っている。周囲の生徒たちはそれぞれ楽しそうに、友達たちと話している。そんな中で、机の木目を見つめて時間をつぶしているのなんて私一人くらいだ。
私の周囲で交わされる会話は、目にもとまらぬ速さで行きかう交通機関のように感じる。それに一人乗れないのでいるのが私だ。
自分だけが一人だ。私だけが、無価値な時の中を生きている。
終われ。学校の時間よ、早く終われ。私はそう願う。
私がどれほど周囲と壁を持っている存在なのか、そして特筆すべきものを持たない人間なのかを嫌というほど思い知らされるからだ。
胸が突然苦しくなる。それは肉体的な痛みじゃない。だけれど、確かに痛いのだ。発作的に私を襲ってくる。
突然、周囲の話声が消えた。え? 私は顔を上げる。
一気に血の気が失せた。
クラスのみんなが、誰一人余すことなく私の方を見ていた。いままでおしゃべりしていた人たちは中断して、私より前の席に座っている人は体を曲げて、みんな私を見ている。彼ら彼女らは一様に真顔だ。表情がない。
私は後ろを振り返る。私の席より後ろにいる人も、みんな私の方を見ていた。彼ら彼女らが注視しているのは、私だ。
やめて。私を見ないで。みんなにとって、私なんて教室の隅の綿屑ほどにどうでもいい存在なんじゃないの? だったら、ずっと無視しててよ………。
私は目を覚ました。寝起きのまどろみもなく、私は窮屈な夢の世界から色彩のない現実の世界へと移行する。肌にびっしょりと汗があふれていた。
控え目なノックの音が聞こえる。
「月ちゃん…………」
私はひっと体をすくめた。お母さんだ。お母さんが部屋の外から弱気な声で呼んでいる。
「月ちゃん、起きてる?」
私は返事をしない。お母さんの声がさっさと消えて切ってくれることを心から祈る。
「おーい、君のお母さんが呼んでるよ」
ジョーカーにもこたえてやらない。
「朝ごはんと一緒に、今月のお小遣い、机の上に置いとくからね」
「おお、知らなかったね。お小遣いって学校に行かない子供でも貰えるもんなんだ」
「また学校に行ってみようって気になったら、いつでもお母さんに言ってね」
「いや、奥さん、この子まだまだ無理っぽいですよ」
「それじゃあ行ってくるね」
ジョーカーの声はお母さんには聞こえないらしい。
玄関扉の閉まる音が聞こえた。家の中から私以外の気配が消える。あ、あと、ジョーカーもいるか。
それでも私は蒲団から出ない。薄い布地を透けて入ってくる蛍光灯の光をぼんやり眺めていた。
と、いきなり蒲団がめくられ、蛍光灯の光を直に見てしまい目が眩んだ。ジョーカーが顔を
のぞき込んできた。リアルな猿の顔だから近くで見ると結構怖い。
「ご飯食べないの? 月ちゃん」
「食べません」
私は蒲団をかぶりなおす。
「元気ないね」
「へんないきものが部屋に住むようになったから」
「昨日もベランダに出なかったし」
指摘されて初めて気が付いた。日課となっていた深夜のベランダ外出を忘れていた。
「やっぱりおととい見たものが怖かったの?」
「…………なんで知っているのよ」
「君のことくらいなんでもわかるさ」
私はジョーカーを押しのけて起き上がった。
「あれって、本当かな?」
「知らないよ。白昼夢だったんじゃないの? あ、あれは夜か」
「あれって何かな? ドメスティックバイオレンスとか?」
「それ以外だと何だと考えられるんだい?」
「SMプレイ?」
「君もなかなかニッチな単語を知っているね」
「傷害事件とかになってないのかな」
「確かめてみる?」
「確かめるってどういうこと?」
「まさかこの部屋の中から窓越しに双眼鏡を使って観察しろとは言わないよ。外に出てみようってことだよ」
「嫌!」
私は蒲団から起き上がる。
「うわぁびっくりした。ぼくが今まで聞いた中で一番大きな君の声だね」
ジョーカーはあきれた顔をして肩をすくめる。なんでそんなアメリカンな動きをするんだ。
「ねえいいじゃん、外に出たいよ」
「一人で行きなよ」
「正確には一匹で、でしょ」
「理屈っぽい人って嫌い」
「猿ね」
「人の揚げ足を取る猿も嫌い」
「外に出ないとお小遣い使えないよ」
「店員さんと話す自信がない」
「店員さんが? なんで? 店員さんは君を取って食べたりしないよ?」
「初対面の人とは緊張して声が出ないかも」
「ぼくとは話せているじゃん」
「あなたは初対面の猿」
「おぅ…………」
「猿なんてどうでもいいから好きにしゃべれるの」
ジョーカーは私をおちょくるけれど、私のことを嘲笑しないし、ましてや突き放すようなこともない。なぜかそれだけは確信が持てた。
ジョーカーは腕組をして考え込んだ。頭をぽりぽりと掻いて茶色い毛が飛び散る。
「月ちゃんさ、ひきこもりを初めてから何日になるの?」
「…………今日何日だっけ?」
「六月十五日」
「それじゃあちょうど二週間だ」
「それまで何してたの? テレビもないこの部屋で」
「DSのゲームとかネットのブラウザゲームとか」
「そろそろ飽きがくるころなんじゃないの? それにさ、ほら、これこれ」
ジョーカーが本棚を上ってある漫画本を指し示す。それはいわゆるラブコメの少女漫画で、元気で明るい主人公がお金持ちの御曹司と隣の席になり反発し合いながらも惹かれあっていくという話だ。私の人生とは別次元の、自動車が空飛ぶ未来世界くらいに程遠い世界の物語だ。でも、というよりだからこそ、私の好きな漫画だった。
「これの第六巻がもう発売しているんだよ」
「なんでそう言えるの?」
「ぼくの第六感がそう告げているんだよ」
「…………え? 今のダジャレ?」
「買いにいかないの?」
「ジョーカー行ってきて。千円あげるから。おつりでバナナでも買っていいから」
「ぼくが大声で話しているとき、君のお母さんはぼくにまったく反応してなかったね」
確かに、ジョーカーは私以外には認識できていないようだ。認識できていたら今頃お母さんはしゃべる猿にパニックを起こしている。
「じゃあ、今日の十時過ぎてから行く」
「どうして? 駅前の本屋なら九時から開いているじゃん」
「九時代なら遅刻した子と鉢合わせる可能性もある。よその学校の子ならまだしも……」
「クラスメイトに?」
「なきにしもあらず」
「いじめられるかもしれない?」
「いじめなんて受けてません」
「おや? 不登校になったのはそれが原因じゃないの?」
違う。もし単なるいじめが原因だったら、自分の気の持ちようはもう少しマシだったかもしれない。だって被害者面していればいいだけだから。相手が悪いって思えるから。
「とりあえず十時に行くから」
「お、いいね。ぼくもついていくよ。あとバナナ買って」
ジョーカーはぴょんぴょん兎のように飛び跳ねて浮足立っていた。
4
私はマスクを探した。自分の顔を隠すために。リビングボードや救急箱を掻きまわした挙句、靴箱の奥に六十五枚入りの使い捨てマスクの箱を見つけた。つけてみると、顔のほとんどが隠れて丁度良かった。
「その上に野球帽をかぶるの? 不審者っぽくない? 補導されない? あー、こちら、平日午前に本屋近くをうろついている少女を保護しました」
「不安になるようなこと言わないでよ」
私はスニーカーを履いた。玄関扉に耳をあて、外廊下に誰の気配もないことを確認する。顔だけ外に出して、左右を確認する。私の家はこのマンションの七〇二。隣の七〇一は四人家族、七〇三には確か老夫婦が住んでいる。
「へっぽこスパイ、早く行くんだ」
「私が学校に行ってないこと、お隣さんとか把握してたりするかな?」
「そもそも君の存在すら把握されていないだろうね」
私はそろそろと外に出た。エレベーターが丁度七階で止まっていた。急いで体を滑り込ませる。ジョーカーは私の横にちょこんと並んだ。不安定な振動と騒音を伴いながら大きな箱は降りていく。
一階に付く。ガラス窓越しに宅配の若いお兄さんがいた。私は顔を伏せる。お兄さんは私に一瞥をくれることもなくすれ違う。
「ぼくの存在に気づかなかったね」
「やっぱりあなたは他の人には見えないのね」
「でも、注意した方がいいよ。ぼくの声は聞かれなくても君の声は聞こえるから」
ひやりとした。ジョーカーの指摘がなければ、ごく当然のように公の場でジョーカーと会話していたかもしれない。一人ぶつぶつつぶやく不審な少女。周囲の人の忌避の視線。想像しただけで足がすくむ。
外に出る。日光が思ったよりも強く、頭がくらくらした。二週間程度しか離れていないマンションの外の景色も、すでに私にとって馴染みのない風景となっている。突然異国に放り出された気分だ。
幸い、歩道にはほとんど誰もいなかった。気持ちが楽だ。
「よかった……」
私は小声でつぶやいた。
「さて、向いのマンションはどうなっているのかな?」
ジョーカーの言葉で思い出した。私のベランダから目撃した女の人の手首を切る男の姿、あれも気になることの一つだったのだ。
なんと、向いのマンションの車道のところに、一台のパトカーが止まっていた。その周りに人はいない。
「やっぱ事件とかあったのかな?」
「ただの警邏中のパトカーかもしれないけれどね」
「ケイラって何?」
「君も小さなころは刑事ドラマも見ていたんだろ?」
「見ていたけれど知らないよ、そんな単語」
「意識上では覚えていなくても頭の底ではちゃんと残っているものなのさ」
私たちは駅前に行った。さすがに駅前には人がちらほらいる。決して知り合いと顔を合わせたくない私は、首を傾けながら本屋に入った。入り口のガラスに映る自分を見たとき、その首は不恰好に直角に曲がっていた。
書店に入った。穏やかなクラシックが流れている店内もやっぱり人が少ない。私は雑誌のコーナーを抜けて、奥の方へ、コミックコーナーへと足を運んだ。目的とする漫画が平台に置かれているのは確認したが、その前に太った大学生くらいの男が陣取っていたので、近くの参考書コーナーで時間をつぶした。
手に取ったのは英語の参考書だった。中学二年生の発展用だった。そこに書かれている英文法を流し読みしていたところ、ジョーカーが私の左半身を上って両手で私の肩にぶら下がってきた。こいつ、存在感がないくらいに軽い。
「学校に戻る準備かい?」
「は? 何それ」
私は参考書で口許を隠しながら囁いた。
「勉強で遅れがあったら、戻った時にますますクラスになじめなくなるもんね」
しばらく思考が止まった後、はっと気づいた。ジョーカーの言うことは的を得ている。私は二週間学校に行かなかった分だけ授業に遅れている。何の長所も持たず、せいぜい真面目に授業を聞くぐらいしかできない私が授業を聞いていない。成績が落ち込む。完全無欠、余すことない劣等生になる。
私はその参考書の値段を確認し、それを小脇に抱えた。
「おや? やっぱり学校に戻るんだね」
「うるさい」
戻る気なんてないし、戻ることなんて考えたくもなかったのに。私は参考書を挟む腕に力を入れた。
太った男がようやくコミックコーナーからどき、私は新刊の少女漫画をひったくってレジに持って行った。レジの若い女店員が、英語の参考書と漫画本を買っていく私をじろじろと見ているような気がした。
店内のクラシック音楽から逃げるように外に出る。ジョーカーがぴょんぴょんと先に歩いていたが、自動ドアは彼には反応しなかった。
途中コンビニに寄った。入った瞬間いらっしゃいませの三重奏を浴びせられてどきりとする。私はそさくさと商品棚にあるバナナを掴んで、それをレジに持って行った。おつりを受け取ってからレジを離れるまでの私の俊敏性はオリンピック並だっただろう。
「今の君の挙動不審な素早さ、お店の人に笑われたかもね」
「嫌なこというよね、ジョーカーって本当に」
「僕が言わなくても君が心の内で言ってるだろ?」
私の家のマンション前まで来た時に、向いのマンションのエントランスに制服警官がいることに気が付いた。
「お? やっぱ事件だね」
「傷害事件とかかな」
「部屋に男が侵入、居住者の女性に傷害を加えて逃走とか…………」
私は上を見上げた。あの部屋――私が異様な光景を目撃したあの部屋のベランダに、青い服を着た人がいた。警官の制服だ。彼はベランダの柵から上半身を乗り出している。
「結構あのおまわりさん体乗り出してるね」
「もしかして、階段に飛び移れるかどうか見ているのかもしれないね」
確かにジョーカーの言う通りだった。部屋はその階の端っこの方にあり、非常階段と接触している。警官はベランダと非常階段の距離を測っているようだった。
「あそこからまずベランダの柵の外側に立って、外壁のでっぱりに足を乗せて、こう、ぴょん、と両手をベランダの手すりから非常階段の手すりへとジャンプさせたらいけるね」
ジョーカーが想像上のルートを指でなぞりながら確認している。
「それじゃ危なすぎない? だとしたら一度、外壁のでっぱりに足をひっかけて立っているだけの状態になるじゃん」
そのでっぱりは、遠くだから目測でしかないのだが、十センチもない。落ちたらまず無事ですまない高さで、そんなアクロバットなことをするとは考えづらい。
「月ちゃんは、行かなくていいの?」
ジョーカーは白塗りの顔で私を見上げてきた。
「え? 何が?」
「君が目撃したものを警察に証言するの」
「は? 私が?」
「君の見たものが事件解決のキーになるかもよ」
「なりません」
「なんでそう言い切れるの?」
「仮になったとしても行きません。警官とかなんか怖いし」
「でもほら、あの警官見るからに温厚そうじゃん」
「それでも初対面の人と会話するなんてできない。絶対に」
「絶対に?」
「絶対」
「ということは老婆になるまでひきこもりかい?」
私は考える。大人になっても年をとってもひきこもりの私を想像する。その時の生活費はどこから出てるの? 親から? それとも生活保護というやつから? 孤独という檻の中でしぶとく生きながらえる大人。絶望的な未来だが、今の生活の延長線上にそれがあることは確かだ。
その妄想に取りつかれている時だった。私はなつかしい声を聴いた。
「月子?」
振り返る。少し色黒で健康的な肌に活発そうなボブカット。見事な二重に子狐のような笑顔。本田仁和子だった。私の数少ない、というより一人しかいない友達だ。友達というのも危ういかもしれない。私に話しかけてくれる人間、という言い方の方が正しいかもしれない。
「久しぶりじゃん!」
彼女はまるで、駅前で偶然に出くわしたくらいのナチュラルさで私との再会を喜んだ。一瞬、久しぶりである原因が私の不登校にあることすら忘れさせてくれるような笑顔だった。
「えっ……えっと」
「元気してた?」
彼女は私の両手首をつかんでぶんぶんと揺らす。彼女は、他者との境界というものが薄い人間だ。こうして簡単なスキンシップで、まるで彼女と自分が二人で一つみたいな感覚に陥らせてくれる。その力は、正反対の性質の私すら取り込みかねないほど強い。
私と仁和子は同じ公立F小学校の出で、同じ私立K中学に進んだのだ。家も近いといえば近い。同じ小学校出身なのが私たち二人だけだからか、あるいは私の病的に内気な性格を気遣ってか、私によく話しかけてくれる。私はその度にうまい返しをできていないでいる。
私は返事をしようとしたが、何度もどもってしまい、赤ちゃんの呻きみたいなものの後でようやく「はい」とだけ言えた。
「君の人との会話のできなさは重症のようだね」
ジョーカーの揶揄が聞こえる。もちろん仁和子はその声に反応していない。
「なんで……」
「え? どうしたの?」
「今日、平日じゃ…………」
「ああ今日? 今日さ、校内音楽会だったのよ。私昨日はすごい高熱出してたんだけれど、学校休むってなったら一気に熱が引いちゃって、つまんないから遊んでいるの」
あっけらかんと彼女は言う。それが一層私を怯ませる。
「月子、何見てたの?」
「え? えっと…………」
「あー、あの行方不明のヤツね」
彼女は私に戸惑う暇を与えない。
「ゆくえ…………」
「そうそう。まじで怖くない?」
「月ちゃん、この子の話を聞きなよ」
ジョーカーが何か言ってくる。
「これは興味深いよ。彼女の話は聞くに値する」
何勝手なこと言ってるんだ、面白い顔しているくせに。私は心の中で毒づいた。
「君と会話してくれる子なんて貴重だよ。この子とおしゃべりでもしたら、君の中で止まっていた時間が動き出すかもしれない」
「でも……」
「ん? 何? どうしたの月子?」
仁和子がきょとん、と小首を傾げた。私が鏡の前で何度練習してもできなかった無邪気な顔だ。
私は喉の途中で空気がわだかまっているのを感じた。言葉を発するべきかひっこめるべきか、私は脳みその中で何度も繰り返す。仁和子は笑顔のまま私の長い逡巡を待っていてくれた。
「本田さん……その……その、話、詳しく聞きたい……」
ようやく出た声はみじめにかすれていた。
5
あのベランダの家は富沢家と言うらしい。定年間近の主人と奥さん、そして短大生の娘である皐月の三人家族で暮らしていたという。仁和子は皐月さん一家と面識があるという。両方の家とも地域活動に積極的に参加する家で、それで面識があったとか。
皐月はおとといから昨日にかけての夜中に、部屋から忽然と姿を消した。つまり私が、あの男の傷害の風景を確認したのと合致する。
皐月の両親は何の書置きもなく夜中に失踪した娘にひどく心配し、警察に連絡した。もし、ただ消えただけだったらそれほど気に掛けることではないし、警察の出番でもないのかもしれない。年頃の娘が親に内緒でどこかにいっただけだ。しかし、彼女の部屋の彼女の机の上に、彼女の流した血の跡がべっとりとついていたのだ。
「つまり、どういうことだと思う?」
仁和子はぐっと顔を近づけてきた。彼女の距離感にはどうも馴れない。
「えっと……誰かが、その、皐月さんの部屋にまで入ってきて、皐月さんを刺したとか……」
「だよね、そう考えるのが普通だよね」
仁和子は長い人差し指を彼女の顎に当てていた。
「でもさ、富沢夫婦がいる富沢家に入ってきて、皐月さんを傷つけて、そして誘拐するなんて考えられる? それに富沢家の間取りは、皐月さんの個室が一番奥にある部屋にあって、富沢夫妻は玄関近くの部屋を寝室にしていたらしいし」
「情報通だね、本田さん…………」
確かに、その状況で人ひとりをこっそり攫って行くのは難しい。
「その富沢皐月さんの容姿を聞きなよ」
なんで? ジョーカーの言葉に戸惑う。
「月ちゃんの目撃したその女性が当人かどうかの確認だよ」
ジョーカーの言う通りに従うのはどこか癪るが、致し方がない。
「ねえ…………」
「ん?」
「その…………皐月さんって、見た目はどんな人?」
「綺麗な人らしいよ。髪が長くて、肌も牛乳みたいに白くて」
おそらく、私の見た人と同一人物だ。
「あ、そうだ!」
仁和子はぽん、と手を叩いた。声のボリュームも三倍近くなった。
「犯人っぽい男の写真、あるよ! 私持ってる!」
「え?」
「私昔この辺の地域なんちゃらに出たとき、富沢さんと一緒に取った写真あるもん! そこに写り込んでいたの! 皐月さんに、この人だれ? って聞いた時に、私に付きまとってる男、って答えたの」
地域なんちゃらって何よ、と、心の中で思う。
それにしてもこの子の交友関係の広さはたいしたものだ。それほど社交性が高いから、私などにもかまっていられるのだろう。
「だから、それ見せてあげる!」
「今…………持ってるの?」
「ううん? 持ってない。明日学校に来たら見せてあげる」
え? この子は何を言い出すのだろう。私はずっと学校に来ていない。明日も私は学校に行かない。
突然、仁和子は私の両手首を掴んだ。細い腕に似合わず結構な握力だ。私はされるがままになる。
「ね? 明日来ようよ。みんな待ってるよ」
……待っていない。私がいなくてもクラスの人たちが気にしているはずがない。廊下側前から三番目の席に誰もいないのが、あたりまえの風景になっているはずだ。もしかしたら、私がいなくなってせいせいしているかもしれない。
「ねー、来てよ!」
明るい口調がわざとらしく、仁和子らしくなかった。
「ほら、この子、こんなに言ってくれるじゃないか。気持ちにこたえてあげるのが筋だよ」
申し訳ないな、という気持ちが湧いてきた。でもジョーカーの言うのとは違う。彼女が社交辞令で言っているのはわかっている。そんな心にもないだろうことを言わせているのがつらい。
そして早くこの場から逃げたいと思った。仁和子は煮え切らない私にストレスを感じているだろうが、私はきっとその数倍のストレスを感じているのだ。
私はいまきっと、ふやけたパンのような情けない愛想笑いをしているのだろう。
「それなら、せめて明日また会おうよ! 明日は土曜日だから、ここでまた会おう! それならいいよね?」
この状況から逃げたいばかりに、頭を縦に振っていた。
「OKなの? やったー!」
仁和子は両手を上げる。それじゃあまたね、とだけ残して、彼女はさっさと去って行った。
ジョーカーが私の服の裾を引っ張った。
「可哀想にねぇ、あの子。月ちゃんなんかにお節介焼いてあげているのに」
「…………別に私、焼かれたくない。正直に言うと、迷惑かも」
迷惑だと思う自分はすおく性格が悪い。そんなことはわかっている。
「ばっくれるのかい?」
「ばっくれ……?」
「あの子と明日会う約束を、破るつもり?」
「それは……」
彼女の心の中に、私への嫌悪が混じっていくのがとても恐ろしく思えた。
「行かなきゃマズいよね」
「マズくないとでも思ってるの?」
6
私は髪の毛に櫛を入れた。ひきこもりを初めてから今日の今日まで一度も梳いていなかったから、とてもごわごわしている。服も、私の衣装箪笥の中で一番かわいらしい黄色のハーフパーカーを着た。でもこれは世間の同年代の少女たちから見れば、この程度のおしゃれの服はたくさん持っているのだろうけれど。
「仁和子にしてみれば、ダサいかもしれないわ」
「君、仁和子ちゃんの前では本田さんって言って、一人のときは仁和子って言うんだね」
口数の減らない猿だ。しかも細かいことに突っ込んでくる。
ジョーカーは本棚の三段目に寝そべっていた。ピエロメイクの頬をぽりぽりと掻き、長いしっぽを垂らしてぶらんぶらんさせている。
「やっぱり普通の子って、親に服を買ってってねだっているのかな?」
「あるいは、おねだりしなくても親がかわいい服を着させたくなるような子なんだろうね」
「ジョーカー、なんであなたは意地悪なことをいつも言うの?」
「おお、気持ち悪い。月ちゃんがそんなお上品な口調を使うなんてね」
ジョーカーはわざとらしく身を震わせた0
「君が仁和子ちゃんと会う約束をして、当日になってやけにウキウキしているからだよ。君は現実と自分の頭の中をすり合わせることが不得手だからね。もしかして、昨日買った漫画と同じようなことを期待しているのかい?」
私が昨日買った漫画には、あるエピソードがあった。派手な性格の主人公の友達の、不細工とみんなから陰口をたたかれている子が、主人公の助け(ファッションアドバイス、化粧の練習、および性格の改変)によって綺麗になり、実は美人だと学校のみんなが知る……というものであった。
「楽しみにしていたお友達との約束が最悪の結果になったら君は大ショックを受けてしまうだろう。それなら最初っから期待しないでいるのが吉だと思うよ」
「別にウキウキしていないわ」
鏡の中の私を見る。うん、マシだ。少なくとも、街中を普通に歩いていて後ろ指をさされてこそこそ笑われることはない。ジョーカーは鏡の中で私を見ている。
「いや、ウキウキしているね。もしかして仁和子ちゃんのことが好きなのかい?」
「そんな趣味はないわ」
「ああ、そうか。君の好きな子は別にいるのかい?」
私は途端に頭に血が上った。私は手にしていた櫛をジョーカーめがけて投げる。櫛はジョーカーのいる場所とは程遠い壁に当たって落下した。
「おや? あのことは言っちゃダメだったかな?」
私は今度は漫画を投げた。そして一緒に買った英語の参考書も。私の口から、きぃーっ、と珍妙な声が漏れた。それと唾も少し。にやにやした顔のジョーカーにちっとも当たらない。私は手元を探した。もう投げるものが見当たらない。しばらく首を振っているうちに、こんどは投げるものを探している方がみじめだと思った。
「ごめんごめん」
「うるさい、クソ猿!!」
「おや? さっきの言葉づかいはどこに行ったの?」
「もうついてこないで!」
私は自室から出て行った。土曜日なのでお母さんがいた。私の外出支度に驚くお母さんの、月ちゃんどこに行くの? という言葉を無視して、私は玄関から外に出た。
外は寒かった。私はどんどんと足を前に進ませる。ジョーカーのせいで生じた怒りはなかなか収まらない。エレベーターを待っている時間に私は深呼吸を二回した。うん、よし、だいぶ落ち着いた。
ジョーカーは私の目の前に現れるよりも前の私のことも、ちょくちょく知っているような口ぶりだった。でもあのことは知らないようだ。それは少し不思議だった。彼が私について知っていることと知らないことの境界は何なのだろう?
外に出た。さすがに休日だと人の通行がある。公立の中学らしい男の子二人が連れだって歩いている。いや、あれは男女のカップル? 私は彼と彼女から見えないように歩く。
仁和子との待ち合わせ場所は、あの事件のあったマンションの真下だ。時間はまだ二十分もある。ここは私の部屋から徒歩二分くらいしかないのに早く来すぎた。私は花壇の端にちょこんと腰掛けて仁和子を待つことにした。
そこで私はふと、花壇の端、へりの影に隠れてとても見えづらい場所に、小さな紙が挟まっていることに気づいた。メモ帳のサイズでくしゃくしゃにおられている。私はそれを取って開く。
『たすけて』
綺麗なボールペン字で書かれていた。
マンションのエントランスから声が聞こえてきた。私は反射的にメモを握りつぶしポケットにしまう。しかし、見ても刑事さんたちはいない。おばさんたち三人が固まっておしゃべりしていたのだ。遠ざかろうかとも思ったけれど、おばさんたちは興味深いことを話していた。
「えーっ! やっぱりあの男が犯人なのぁ!?」
小柄なおばさんの甲高い声。私は聞き耳をたてる。
「そうよ、やっぱりバンドマンって禄な男がいないものよ。あー気持ち悪い」背の高いおばさんが言う。
「あら、バンドマンって、何かしら?」ブランドもののバッグを持ったおばさんが聞く。
「ほら、富沢さんのお嬢さんにモーションかけていたっていう男よー。短いパッキンの! 聞いたことないけれど、どうせお遊びにバンドでしょ?」
私がベランダ越しに見た男だ。やっぱりあの男が犯人?
「それじゃあさっさとその男捕まえなさいよぉ。警察ってバカねぇ!」と、甲高いおばさん
「しかもその男、明日の飛行機でアメリカに行くんですって」
「はぁ!? アメリカ!? なんで?」
「二週間後に、アメリカでライブだとか」
「国外ライブ? バッカじゃないの!? 実力もないくせに!」
甲高いおばさんは、どうして聞いたこともないバンドの実力がないとわかるのだろう。
「あら、それじゃあ、その男が誘拐したとは考えられないんじゃなくて? だってまさか誘拐した女の子を海外につれていけるはずもないし、二週間も閉じ込めておく場所や費用なんて一バンドマンにはないんじゃない?」
ブランドおばさんはいくらか冷静だ。でも声は大きい。
「それじゃあ、女の子が自分でその男についていったんじゃない?」と、背の高いおばさん。
「そうよ! そうに決まっているわ! 世間知らずだからそのあったまの悪い男に引っ掛かったのよ!」
頭が悪いのは、この甲高いおばさんの方じゃないのか。私は心の中でつぶやく。
「だとしたら部屋にあったっていう血痕が説明つかないわ。結構な量だったって聞きましたわ」
ブランドおばさんの言う通りだ。それに、私は男がぐったりと椅子に座り込んだ女性の手首にナイフを押し付けている場面を私は目撃したのだ。
そしてこの、『たすけて』と書かれたメモ……。私はポケットから少しだけそれを取り出す。この紙は濡れた痕跡がない。確か、私が富沢宅でのアレを目撃した日の前日には雨が降っていた。となると、これはその時以降に捨てれらたもの。となると富沢皐月さんが落としたものの可能性が高い。
背中をぽん、と叩かれて、私は飛び跳ねるほど驚いた。
「よかった、来てくれたんだね」
仁和子がにこっと笑う。私はその顔を見てひどく安心できた。
「ちょっと、ここうるさいから別のところへ移ろうか」
仁和子は小声でささやいた。おばさんたちの話題はいつのまにかテレビタレントに映り、それでも大声でしゃべっていた。
7
私たちは近所の公園に移動した。ここでは小学生低学年の男の子と父親がキャッチボールしてたり、小学校高学年の男の子数人がすべりだいまわりえお占領して携帯ゲームに興じていたり、三歳くらいの女の子がブランコで母親と遊んでいたりした。もし私一人なら敬遠している人口密度だ。しかし今は仁和子と一緒だから大丈夫だった。
「ほら、これが皐月さんの写真」
仁和子はなんと、アルバムごともってきたのだ。写真屋でもらうような無量の安っぽいアルバムじゃなくて、市販のものっぽいアルバムだ。
その写真では、髪の長い女の人と、今より少しだけ幼い仁和子がいっしょに溝さらいをしている様子が写っていた。
間違いなく私がベランダで見た人だ。
「偉いね………」
「そうそう、確かもう一枚……」
仁和子はぱらぱらとページをめくる。その時、彼女の友達(私みたいなのじゃなくて、ちゃんと仁和子の好き好みで選ばれた友達)との楽しそうな写真がちらほら目に入る。わ、ディズニーランドまて行ってる。私はつらくて目を逸らす。
「あった、これこれ。皐月さんのポロライドで撮ったのだけれど、私にくれたの」
仁和子が餅を食べている写真だった。さすがにポロライドカメラはデジタルよりも映りが本格的だ。仁和子はいかにも至福の顔をしている。そのそばには赤いルージュの皐月さんがいた。そして写真の余白に綺麗な文字が。
『お正月の餅つき大会、にわこちゃんと』
きっと本来なら皐月さんのアルバムにしまう予定で、皐月さんが書いた文字なのだろう。私は自分のポケットにしまわれているくしゃくしゃのメモの文字を思い出す。まず間違いなく同じ筆跡。つまり、『たすけて』は皐月さんのメッセージ。
「ねぇ、すごくいい人だったのにね」
仁和子は同意を求める。私は皐月さんのことは知らないけれど、「そうだね」と返事をした。
「あ、この奥」
仁和子が写真の端を指さした。そこには金髪の男がいた。背景にまぎれて、仁和子さんの後頭部をじっと見つめている。あの男に違いない。これで被害者加害者ともに確認がとれた。
「この人仁和子さんをちらちら見ていて、知り合い? って聞いたら、仁和子さんすごい否定していた。やっぱりストーカーだったのかな」
この写真の皐月さんは上品なコートをきていた。やっぱりお嬢様然としている。一方男はみすぼらしい髑髏のTシャツを着ていて、貧乏臭さがにじみ出ていた。男の仁和子さんを見る目は、身分の低い者が高い者に強い恋慕を抱いている目だ。私は男の視線がひどく哀しいものに見えた。意中の人と自分では生きている場所がまったく違うことを自覚している。自分がいかに卑小な存在なのかをわかっている。諦めるのが正しい恋。
「やっぱり、あの人が誘拐されたなんて思いたくもないよ。実は恋人同士で、バンドマンの彼の海外ライブについていった愛の逃避行っていう方がよっぽどいい」
仁和子には悪いが、それはない。あの男は皐月さんを傷つけていたのだから。
好きな気持ちが、暴走しちゃったんだね。馬鹿だったばかりに。
「ねえそれでさ、話変わるけれどさ」
私に感傷を与える暇もなく、仁和子は話題を変えてきた。
「月ちゃん、そろそろ学校に来ない?」
「え…………」
その話題か。私は内心でうんざりした。心配してくれている仁和子には悪いとわかりながらも。
「このままずっと、学校に行かないワケじゃないでしょ?」
私も学校に行かないでずっと年齢だけを重ねていくことなんて考えていない。でも、学校に行くことも考えられない。要は私には、自分の一寸先の未来ですらまっ黒な絵具で塗りつぶされた闇なのだ。
「学校に来るのを先延ばしにしていたら、ますます来るのに勇気が必要になるよ? ほら、出席日数とかもあるしさ」
出席日数。私は戦慄した。義務教育とはいえ学校に来ない時期が長いと出席日数が足りなくなる。そして留年。中学で留年?
「学校のみんな、月ちゃんがこなくて寂しがってるよ?」
「そん…………」
「え?」
「そんなわけ、ないじゃん」
これ以上私を追い詰めないでほしい。見え透いた嘘もやめてほしい。
「そんなことないよ。みんな心配している」
心配なんてありえない。私の連続欠席を面白がるか、あるいはまったく興味がないか。あるいは……。
「私なんて来ない方が、いいって……」
「そんなこと思ってる人いないよ。板島君だって月ちゃんのこと心配していたし、あのことも全然気にしてない!」
板島君。
その名前が出た途端、私は足が震えだした。
板島君……。
心の優しい彼が、私をどう思っているか。気を使われているのだとしたら、それがつらい。
私は自分の頬が火照っていくのを感じた。目の前の仁和子の表情にも、しまった、と書いている。
「おねがい、私のことはほっといて」
私は仁和子の肩を押した。頭蓋骨のてっぺんから湧き上がる恥ずかしさに任せて、私は早歩きで家に向かっていった。もう何も聞きたくない。もう何も考えたくない。
8
「月ちゃーん」
ジョーカーが私の名前を呼んでいる。
「ぼくがずっと話しかけているのに無視をつづけるのはどうかと思うよ?」
私は枕にうずめた顔をすこしずらし、ジョーカーを見た。彼は私の学習机の上に腰掛け、バナナの皮をぶらぶらさせていた。あれですべて食べきったのだろう。
「月ちゃん」
今度はドアの外からお母さんの声が聞こえた。「晩御飯、ここにおいとくからね」
「ほらほら、晩御飯だってさ」
いらない。今全然お腹空いていない。
「あとそんな風にベッドにうつぶせていたら、気づかない間に眠りこけてしまうんだろうから、掛け布団はかぶった方がいいよ」
眠って、そのまま起きなければどんなにいいだろう。眠っている間は哀しいという感情は途切れる。起きたときは現実の自分の居場所を再確認して奈落の底に起こされる。悪夢でもいいからずっと眠りの世界に沈んでいたい。
「まあ、だいたい何がったかは想像がつくけれどね」
猿なんかに何がわかるか。
「板島君のことだろ」
私は起き上がる。
「どうしたの? 腕立て伏せ?」
「あなた、知ってたの……」
「知っているさ。君の痛み、君の悩み、君の失敗。余すことなく僕の中にも蓄えられている」
ジョーカーはバナナの皮をゴミ箱に投げる。それは壁面に一度当たってから円筒形のゴミ箱にシュートされる。
そうか……やっぱり知っていたんだ。
まあ、そもそも猿が突然現れて人語をしゃべるなんてことが起こっているのだから、私の記憶すべてを読み取っていても別におかしくはないか。
内心、どこかほっとしている自分がいた。ジョーカーは、猿だし、しかも私の頭の中の誰にも知られたくないことまで知っている。それならもう気取る必要性なんてない。
「板島君、私のこと嫌ってるだろうな……」
「仁和子ちゃんが、板島君は君のことを心配していたって言ってなかった?」
「ねえ、ジョーカー」
「ん?」
「私のしたこと、気持ち悪いと思う?」
「気持ち悪いと思うね。しかし、引きこもりになるほどではないと思うよ」
「そうかな……?」
二週間前のことだ。私たちのクラス担任であり数学の先生でもある平先生は、時折宿題ノートを集める。宿題として課した教科書の練習問題を解いているのか、を判断するためだ。もちろんこれは不評で、ガキじゃないんだからいちいちチェックするなよ、という意見が大半だ。教科書後ろについている練習問題の解答をそのままうつし、さらには時々ワザと間違えて、解いたふりをする人もちまちまいた。しかし私はそんなことをする度胸もなく、真面目に全問を解いてた。おかげで私の数学ノートは背表紙が少しめくれているような恰好になっていた。
その日は平先生は親戚に不幸があって休んでいた。しかし平先生は、自分がいなくても学級委員長がノートを集めて職員室の自分の机の上に置いておくように、とわざわざ担任の乃木先生を経て連絡した。期限切れを許さない先生だ。自分は休んでいるくせに、と、いつもの愚痴が生徒の間で飛んでいた。
うちのクラスの学級委員長である羽崎さんは、それを忘れかけてしまい、昼休みの中ごろに慌ててひとりひとりから集めだした。当然、一人で自分の机の上でお弁当箱を広げている私のところに来た。
「円川さん、数学ノートくれる?」
羽崎さんは生まれつきにわずかにウェーヴのかかった長髪を髪の毛でいじくりながら、私にそう言った。私の記憶が正しければ、彼女が私にかけた初めての言葉だ。
はい。私がそう答えて、慌てて鞄の中を探り出した。
「円川さんのお弁当、かわいいね」
私の手が止まった。確かにお母さんが作ってくれるお弁当は、きちんとした、色彩豊かなお弁当だった。友達と一緒に食べていると思っているお母さんが、恥ずかしくないようにと作ってくれたものだった。
私は、いままで誰の目にも留まらなかったお弁当に注目してくれたことが嬉しかった。普段なら私のことを気にも止めない彼女が。私は「ありがとうございます」と、とても小さくつぶやいた。
その時私の手は嬉しさで焦っていたのだろう。私は、ノートの中身もちゃんと確認せず、キャンパスノートの桃色と、背表紙のボロボロ具合だけで判断して、間違ったノートを渡してしまったのだ。
私は、あのノートを、他の子のノートと重ねて持っていく羽崎さんの背中を間抜けに見つめているだけだった。
「どうしてあのノートを中身がみんなに知れ渡っちゃったんだろうね? 平先生が言うはずもないし」
「きっと、誰かが勝手に見たんだよ。私のノートなら不作法に扱ったって、勝手に移したってかまわないなんて思っている人が。私のことを馬鹿にしている誰かが。私のプライバシーなんて好き勝手に踏みにじる誰かが。きっと羽崎さんだわ」
「論理性に欠けているね。君のノートを覗き見る必要なんてないよ。教科書の後ろを見れば練習問題の解答なんて乗っているんだから、わざわざ他人の、それも全く目立たない子のノートなんて見る意味がない。恐らく、君のノートに書かれた板島君の似顔絵を見られたのは、たまたま、だよ。床に落としてページが捲れたとか、風で捲れたとか。君の頭の裡では本当はわかっている。でも君の心が邪魔している。自分を守ろうという気持ちが。自分を被害者だと思いたい気持ちが」
その通りだ。私は自分を被害者だと思いこみたいのだ。
「本当は、板島君の似顔絵を描いていた自分を一番攻めている」
私の片思いなんかが、そもそも迷惑だと思っている。
「君が学校に行けないのは、学校に敵がいるからじゃない。自分を外にさらしたくないからなんだ」
「違う。学校に敵がいる」
「羽崎さんとか?」
「それもあるけれど……」
「ああ、やっぱり板島君が君を嫌っているのだと思っているんだ」
私はうなずく。
「仁和子ちゃんが、板島君は気にしてないって」
「あの子は嘘も方便思考の子だから」
「それじゃあ、板島君がいなくなるところへ逃げる? 転校?」
転校……。そんな選択肢を選んだって、新しい環境でやっていけることなんてできるのだろうか。
私は未来のことを考えていない。これから先、何十年も生きなくてはいけないなんて恐ろしくて考えられない。いまいる部屋から出れば、そこは真っ暗な世界が広がるとしか思えない。まるで檻の中の家畜。普通の家畜と違うのは、その檻を自分自身を守る砦にしてしまっていることだ。
「私、どうすればいいんだろう……」
「一つ、恐怖心に打ち勝って登校する」
ジョーカーは人差し指をたてる。ジョーカーは選択肢を次々と指折って数えてくる。
「二つ、転校して別の中学に入る。三つ、保健室登校をお願いする」
「保健室登校は嫌。他の子の目が怖い」
「四つ、このままこの子供部屋の住民でいつづけ、年を取っていく」
「五つ目。富沢皐月さんみたいに、誰かに殺されるのを待つ」
「それは確率が低いよ。君をわざわざ殺そうとする人間なんて現れると思う?」
「そうだね。皐月さんだって、あの茶髪の男に惚れられてストーキングされたから、誘拐されて殺されたんだしね」
「君は皐月さんが殺されたって思っているんだね」
「さすがに殺されたんじゃないの?」
「違うね。皐月さんは殺されていない」
「じゃあ、どうしたっていうの」
「君は気づいているはずだ」
「は?」
「すべての人間には物事を論理的に考える力が備わっている」
ジョーカーはT字ステッキを振り回す。
「しかし、ほとんどの人間はそれを有効に活用できていない。それは何故か。答えは、先入観が邪魔しているからだ。こんなことありえるわけがない、こんなことあってはいけない、こんなことが本当なら気持ち悪い。人は自分の想像に勝手に限界を線引きし、思考の流れを止める堰となる。それは距離を指定しないマラソンに似ている。これほどしんどい思いをしたのだからもう走るのはやめよう、これ以上は無理だよ、という距離までしか走ろうとしない。本当に、自分の心臓が破けるほどの、頭に血が回らずぶっ倒れるほどの距離まで走ったら、きっとこの上なく素晴らしい景色に出会えるのかもしれないのに」
「…………何言ってんの?」
「これでも気づかないのなら教えてあげようか?」
「ん?」
ジョーカーは口の端をUの字型ににんまりと上げる。
「富沢皐月さん失踪事件の真相を」
「何? 知ってるの?」
「知っているんじゃなくて、推理をしただけさ」
「どういう推理?」
「まずは君の書いた『たすけて』の文字。これはあの仁和子ちゃんのアルバムにあった文字と同じで、とても綺麗な筆跡だね。だとすればこれは切迫した状況で書かれたものではないことがわかる。するとどう考えられる?」
「あの、金髪の男が迫ってきているから、たすけてっていう文章じゃない?」
「皐月さんから誰への手紙?」
「誰って……?」
「そういった状況を伝えるとするのに、小さなメモ用紙に『たすけて』とだけ書く意味がわからないじゃないか。切迫した状況じゃないのならもっと詳しく書くべきだ。だとすれば君の前提は間違っている。それにメモは地面に落ちていたんだ。だとすれば次に考えられるのは、皐月さんはあのベランダからメモを、マンションの外にいる人に向けて『落とし』たんだ。字の綺麗さから推測するに皐月さんは丁寧な性格だ。なのにメモ用紙がくしゃくしゃになっていたということは、丸めて、風に飛ばされないように重しをつけて落下させたのだと考えられる」
「落とした? そんなの、マンションの外に出て手渡せばいいんじゃない?」
「もし出れなかったとすれば? 出たくても、出してもらえない」
「……皐月さんが、お父さんとお母さんに監禁されてたって言いたいの?」
「そうだね。監禁といっても、部屋を出ないように見張っているだけかもしれない。それでも皐月さんを閉じ込めるには十分だった。世間の目があるから、他の住民に聞こえるように騒ぐわけにもいかない。そして窓の外にいる人物に『たすけて』のメモを出した。その人物はメモを読み、ベランダから手を振っている皐月さんを見上げた。それだけで状況を伝えるには十分だった。メモ用紙をその辺に捨てて、助けに向かった」
「富沢さん家に?」
「でも玄関口から堂々と入るわけにはいかないから、ご両親が寝静まった時間にベランダから皐月さんの部屋にお邪魔する。一人では侵入するのは難しくても、中の人の協力があれば無理なく入れるだろう」
「あの金髪の男が皐月さんの恋人?」
「そうだろうね。そして二人は部屋を脱出する方法を考えた。ご両親が皐月さんを部屋から出さなくてはいけなくなる状況。それは皐月さんを医者に見せなくてはいけない状況だ」
「それで、金髪の男が皐月さんの手首を切ったんだね。皐月さん自身じゃなくて」
「まあ、自分で自分の皮膚を切るのは勇気がいるからね。信頼できる恋人に任せたんだろう。そしてその現状を見たご両親は、娘が精神を病んでリストカットをしたのだと思い込む。そして口の堅い医者の所へ連れて行った。その後にこっそり隠れていた金髪の男は富沢家から脱出。皐月さんも手首の止血をしてもらった後、隙をついて逃げる。そのあとご両親は、娘を監禁したら家出したなんて外聞きの悪いこと到底言えないから、普通に生活していたら娘が謎の失踪をした、なんて警察に言ったわけ」
「そんなことするなら、皐月さんはご両親の監禁を強行突破すればよかったんじゃない?」
「ご両親に、パスポートでも隠された居たのかもしれないね。きっとご両親が皐月さんを医者の所に連れ出している間に、金髪の男が富沢家の中を探して見つけたんだ」
「パスポート……」
「そう。皐月さんはあの男の国外ライブについていくのだろうね」
ジョーカーは窓の外を見る。色付き水のような色彩の青空に、一本の雲の筋が走っていた。
「ばかばかしい。そんなの推測にすぎないじゃない」
「それでも、これで筋が通る」
「絵空事だよ」
誰かがベランダから入ってきて、閉じ込められた女の子を助けに来てくれる。ただの妄想話だ。
「それじゃあもう一度、向いのマンションに行こうか」
「何しに?」
「『たすけて』のメモを投げ落とした時に、重しにしていたであろうモノを」
9
私は緑色の植え込みの中に、青い何かがあることに気づいた。拾ってみるとそれは消しゴムだった。少し使われた形跡があるけれどほとんど新品だった。
「あった」
「これだね」
「でも、だからといってジョーカーの仮説が正しいとは限らないよ」
「君の意固地な子だね」
「どうしよう、このメモ、警察に見せた方がいいのかな……」
「警察は怖いんじゃなかったの?」
「でもさ、もしあの男が悪者だったりしたらさ、皐月さんヤバいんじゃない?」
「ヤバいって、たとえば?」
「皐月さんが殺されたてたり……」
「生きてるよ」
私の声でもジョーカーの声でもない、第三者の発言が聞こえた。
驚いて振り返る。そこには例のベランダで、そして仁和子に見せてもらった写真でみた、髪の長い女の人がいた。いや、化粧をしていて少し大人びて見える。つばの広い帽子もかぶっている。変装……のつもりだろうか。
「ごめんね、驚かせて。それ、私にくれない?」
皐月さんは私の持っていたメモを指さした。私は独り言(本当はジョーカーと話していたのだが、傍から聞けばただの独り言だ)を聞かれて、顔から火が出そうになりながら、震える手でメモを差し出した。
「この人、恋人が不用意にポイすてしてしまったメモを回収しに来たんだね」
ジョーカーが冷静に解説する。
「あと、私が来たこと、誰にも言わないでいてくれる?」
私ははいと言おうとしたが、心臓のリズムがまだ驚きを引きずっていた。唇の動きだけではい、と答える。
「うちの両親、すごい強権的な人でね。たかが娘の家出で、警察を読んだりしたのよ。ちゃんと書き置きを残していったのにさ」
「トリッキーな手段で部屋から出ようとしたこの人も悪いと思うけどね、僕は」
ジョーカーが茶々を入れる。
「あの」
「ん?」
「あの……」私は何を言おうとしているのだろう。「あの、金髪の人と一緒に海外に行くんですか?」
皐月さんは目を丸くした。彼女の白い頬に太陽の光が差す。こんな見知らぬ子がなんで知っているの。彼女の疑問は手に取るように見えた。
「あの、私、本田仁和子さんの友達で……」
「あらそうなの」皐月さんは合点がいった、という顔をしていた。「あの子、幸彦君を私のストーカーだと勘違いしているのだと思ってたけど、ちゃんと気づいていたのね」
「一緒に海外に、行くんですか……」
「そう。一緒に来てほしいって言われてね」
皐月さんは耳元に手をやり、イヤリングを直す。幾何学的な構造のイヤリングだった。
「本場でライブをして、トップクラスの人たちに批評されるのはめちゃくちゃ怖いけれど、私がいればなんとか頑張れるかもしれない、って言ってね」
「ノロけかよ。僕、飽きちゃった」
横目でちらりと見ると、ジョーカーは植え込みのヘリに腰掛けてあくびをしていた。
「この色ボケお姉さんに言っときな。自分は無事だ、ただの家出だってことを警察に連絡しなって。このバカップルのために僕らの税金が使われるのにさ」
税金も払っていないくせに。でも私はジョーカーの言う通りのことを、皐月さんに伝える。失礼にならないように気を付けながら、何度もどもったり言いなおしたりしながら。
皐月さんは私のへたくそな説明を一生懸命聞いてくれた。うん、うん、とうなずいて、この人は私とちゃんとコミュニケーションを取ってくれていることがわかる。
「その通りね。年下の子に教えられちゃった」
皐月さんは照れ顔になる。
「ごめんね、迷惑かけて」
「全然そんなことないです」
「それじゃあ、迷惑ついでに、お願いしたいことがあるんだけれど、いい?」
皐月さんはショルダーバッグから、一冊の文庫本を取り出した。『刑務所のリタ・ヘイワース』と題名が書かれている。
「これね、明日までに図書館に返さなきゃいけないのだけれど、図書館員さん、うちのお父さんと知り合いだから。あそこブックポストもなくて。……お願いしてもいいかな?」
「あっ、はい」
「あなた近所の子?」
「はい。その、こっちのマンションです」
「それじゃあ、二週間したら戻ってくるから、また会いましょう」
皐月さんは手を振って、私に最後の挨拶をした。
「なかなか図太い女だね」
私は六月の午後にしてはやけに強い日差しの中、文庫本を手にしてぽかんとと口を開けて、駅の方へと歩いていく皐月さんの背中を見送っていた。
10
私はベッドに寝転がり、皐月さんから託された文庫本を眺めた。後ろには、うちから徒歩十五分かかる図書館のシールが貼られている。
「なんで、こんなの引き受けちゃったんだろう……」
「君の気の弱さが原因だ。断りきれなかったんだね」
ジョーカーはテニスボールを空のゴミ箱に放り投げて入れるという遊びを繰り返している。ピエロメイクをしているだけあって、結構うまい。
歩いて十五分の図書館。私にとっては久々の長距離移動だ。溜息が出る。
「行きたくない」
「それじゃあ貸出期限を過ぎた本をずっと持っておくつもりなの?」
「借りたの私じゃないし」
「いいじゃん。本屋にも出かけたんだから、図書館なんて少し遠くなっただけだよ」
「そんな体力ない」
「月ちゃん、五十メートル走はてんでダメだけれど、持久走なまあまあじゃない」
「あれはね、みんなサボってる中、私だけ馬鹿みたいに真面目に走ってるから。一緒にゴールしようねって言う友達がいないから」
「なるほどね」
少しばかり恨めしく思いながら、私は皐月さんの笑顔を思い出した。あの顔。憎らしいくらいに幸せそうな顔。
「私にもさ……」
「ん?」
「私にも皐月さんみたいに、助けに来て、外に連れ出してくれる人がいればなぁ……」
傍にいるだけで安心できるような親友。あるいは、自分の弱さをすべてさらけ出してくれるような恋人。私には一生縁がないであろうそれらがいてくれれば、私だって勇気を奮い起こすことができるかもしれない。とうてい叶わないことだとわかっているのに、想像してしまう。ベッドシーツを強く握りしめた。
「仁和子ちゃんがいるじゃない」
「あの子はお義理で私に気にかけてくれるだけ」
「偏屈だなぁ。君は」
「でもこの本、返しに行かなくちゃマズいよね」
「皐月さんが帰ってきたとき、図書館の貸し出しが停止されてビックリするだろうね」
私はたった一人で起き上がらなくちゃいけない。そして自分の足だけで、外に出なくちゃいけない。図書館に本を返す。周りにとってはとても簡単でも、私には難しいことなんだ。
「自分のことを助けてくれる人が欲しいの?」
「うん」
「仕方ない」
ジョーカーはいつのまにか三つのテニスボールでジャグリングをしていたが、その手を止めた。
「僕が一緒に行ってあげよう」
「あなた、猿じゃないの」
「君なんかと一緒に行動してくれる人なんていないよ。猿で上出来だ」
「猿のくせに生意気言わないで」
本当はとてもうれしかった。もしもジョーカーが自分は留守番しているから一人で図書館行っといで、と言われていたら、私は本当につらかったかもしれない。
「それから明日も平日だけれど、どうする? まだ授業をやっている時間に行って、ほかの子供とのエンカウントを避けるか、あるいは午後の五時くらいにいってごく普通の健全な中学生を演じるか」
「前者で」
「よしきた」
ジョーカーは杖をくるくる回した。それが彼の喜びの表現なのだろうか。
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