第1話ー4
オムライスでお腹を満たしてから少し経ち、2階に行っていたみくちゃんが意気揚々とリビングに舞い戻った。
「ねぇねぇ奈穂ちゃん!これ見よ、これ!」
みくちゃんが手に持っているのはそこそこなサイズの長方形の箱。その箱の表面いっぱいにアニメのイラストが拵えてあり、側面の一面が開いているその箱の中には、3つのディスクケースが収納されている。いわゆるブルーレイボックスというものだ。
そして、手渡された箱を見て、すぐに気づく。
「…これ『はじコイ』のブルーレイボックス…?」
「あ、やっぱり知ってた?奈穂ちゃんが昔好きって言ってた気がしてさ。ほら、見よ見よ!」
居間に置いてあったプレイヤーを起動させて、みくちゃんが箱の中からケースを抜き取り、中のディスクをプレイヤーに吸い込ませていく。
私こと有沢奈穂は、いわゆるひとりのオタクである。
ジャンルに拘らずに色んなアニメを見て、声優の出てるラジオなども聞いて、気になる漫画や好きな作家やイラストレーターの関わるライトノベル、たまになけなしのお小遣いでアニメの円盤を買ったりするくらいのオタクである。
そして今、この目に映っている『はじコイ』というアニメは、私をオタクの道に進ませたアニメなのだ。
"武神かなた"というアニメ監督のオリジナル作品である『はじコイ』は、そのキャラクターデザインの良さや、作画、BGM、声優の演技から演出、ストーリーまで、あらゆる面において優れていて、未だに大きな人気を誇っているアニメ作品だ。
放送されたのは数年前、私が中学一年生の頃で、本編終了から少し経った去年の初め頃。ブルーレイボックスとして改めて発売されたのである。
タイトルに"コイ"と銘打ってある通り、様々なキャラクターが織りなす恋模様を描いた作品で、思春期真っ只中だった私にはとても胸にひびく作品だった。数あるアニメを見てきた今でも変わらず、私の中で一番大好きなアニメだ。
当然、件のブルーレイボックスも購入済みだが、こうして視聴するのはブルーレイボックスの発売以来…およそ1年ぶりになる。
大きなテレビで『はじコイ』の第1話を視聴し始めた頃、皿洗いを終えた陸が、タオルで適当に手を拭きながら、うんざりした様子で言う。
「おいみく。勝手に人の部屋から持ち込むな」
「いつもの事なんだからいーじゃん」
「……………えっ、これ陸のなの!?」
「そうだけど」
正直に言ってかなり意外だった。
陸もそこそこオタクだということは生徒会で話していた時から知っていたが、このアニメを視聴しているというのまでは知らなかった。ブルーレイボックスまで買っているとは。
「……陸、『はじコイ』好きだったの…?」
「そこそこな」
ほんのりとした嬉しさが胸の中から込み上げてくる。自分が好きな作品を人と共有できるのはとてもいい気分だ。
「…………見終わったらちゃんと部屋に戻せよ。俺は寝る」
「あいあいー」
そう言って陸はリビングを出て、2階へと登っていった。
「……やっぱり、陸怒ってるのかな…?」
「んえ?」
「私が突然押しかけたから怒ってるのかな、って。私が来てからずっと機嫌悪いみたいだし。なんとなく避けられてるような、素っ気ない感じもするし……。」
「んー、大丈夫じゃない?」と。大して考える様子もなく、みくちゃんは間の抜けた調子で言った。
「そりゃまぁお兄ちゃんは、いっつもぼーっとしてるし、素っ気ないし、なまら無愛想だけど、そんな簡単に怒ったりとか、避けたりとか、人の嫌がるようなことをする人じゃないよ、お兄ちゃんは。ていうか、お兄ちゃんいつもあんな感じだし」
「……………そう、だといいな。」
みくちゃんはこう言ってくれているが、それ以上に、罪悪感や、申し訳なさが胸の奥で渦巻いている。
連絡もせずいきなり押しかけてしまったのだ。陸が不機嫌になるのも当然わかる。それでも少しばかり寂しいという気持ちが、複雑な気持ちで渦巻いた海の上でふわふわと浮かんでいる。
テレビの中では『はじコイ』のヒロインが、小さな頃に幼馴染の男の子に恋をしたシーンが映された。 『人生ではじめてコイをした』と、ヒロインがモノローグで語る。『はじコイ』は、ひとりの少女が、たったひとつの初めての恋を追いかける物語なのだ。
私も彼女と同じだ。
私もずっと、初めての恋を追いかけている。
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なんだかんだで夕方になった。
2クールアニメ(全25話)のうちの半分までをお菓子やジュースを貪りながら見ていたら、気づけば夕方5時近くになっていた。区切りが良かったので、今は休憩をしている。
1時くらいに「寝るわ」と言って部屋に行った陸は、未だにリビングには戻っていなかった。しかし、みくちゃん曰く「たぶんもう起きてるよ」とのこと。やはり私のことを気にかけていて、顔を合わせるのを避けているのかもしれない。
そんなマイナス向きな考えをしていた折、たんたんと階段を下りる音が聞こえてきた。
「あ、お兄ちゃんおはよー」
「ん」
適当な生返事だけをしながら、陸は冷蔵庫から出した麦茶をコップに注いでいく。
「お兄ちゃん晩御飯はー?」
「とんかつ」
「やっふー!」と、みくちゃんがソファの上でバタバタと喜ぶ。これがまた随分可愛らしい。天使かな?
「陸、私も何か手伝おうか…?」
「いらん」
そう言って、豚肉やら卵やら色々なものを台所の上に準備していく。中学の頃から陸が器用なのは知っていたが、今ではもう一端の主夫のようになっているとまでは思わなかった。
粗雑に腕を捲って手を洗い、いざ調理。となった直後、玄関から鍵を開ける音が響いた。
「んがー。ただいまー」
「………………は?」
「あれー?」
渋く少し枯れたような声と共に、外からの肌寒い風が部屋に入り込んでくる。怪訝に思ったみくちゃんは、ソファから起き上がって半開きのリビングのドアから体を出す。
「あれーお父さん?なにしてんの?」
「なにって帰ってきたんだよ。部下に仕事を押しつ……任せてきてな、早上がりしてきたんだ。……お?誰かお客さんきてるのか?」
声の主がリビングに入ってくる。身長はたぶん190cmくらい。でかい。筋肉質で、顎髭を蓄えた厳つい顔のスーツの男性だ。
その男性……陸とみくちゃんにとっての実のお父さんを見るや否や、当の陸はため息を吐いて台所から離れた。
「おかえり」
「あいよただいま。そちらのお嬢さんは……………もしかして、これか?」
そう言って、陸のお父さんはわざとらしく小指を立てる。表現がかなり古い。そして陸は眉根を寄せてすごく不機嫌そうな顔をしていた。
「えっと、初めまして。有沢奈穂です。中学の頃から陸とは同級生で、みくちゃんとは先輩後輩で……あっ、陸と同じクラスになったこととかはないんですけどふたりとは生徒会で一緒で……」
「これはこれは御丁寧に。俺は伏見弦太郎。陸とみくの父親をやっております。弦さんとか、おじさんとか、好きなように呼んでいいからな。なんならお義父さんとかでもな!ガッハッハ!」
厳つい顔とは相反してフランクな人だった。それに、男らしい顔とは似合わない子供のような笑みを浮かべる人だ。きっとみくちゃんはお父さん似なのだろう。
「……親父、ちょっと話があるんだけど」と、陸がため息を吐きながら言う。
「おうなんだ……なんだ?もしかしてこの娘と結婚とかか?婚約とかか?ダメとは言わんが少し早計じゃねぇかなぁ……もう少し長い時間をかけて親密になってからだなぁ……」
「そうゆうのじゃないしコイツは彼女でもなんでもない。………とにかく、詳しい話はコイツから聞いて」
「ふむ、なるほど。子供の人生相談を受けるのも大人の役目だからな……なにせ俺は頼り甲斐があるし……着替えてくるから、少し待っててくれるかな?」
「は、はい!了解です!」
子供をあやすような笑顔と共に、陸のお父さんはリビングを出て行った。
なんとなく緊張が解けて肩の力を抜いていると、陸がめんどくさそうに息を吐きながら私の顔を見た。
「自分のことなんだから、自分で話せよ。……まぁ、結果なんて見えてるようなもんだけどな」
「……………え?」
そう言い残して、陸は台所へと戻っていった。
陸が私のことを避けているから厳しいことを言うのかとか、一緒に暮らしたくないからそんな捨て台詞を言ったのかとか、色々な憶測が頭の中でビュンビュン飛び回る。
そして、その真意が明かされたのは、数分後のこと。
「ん〜。まぁいいんじゃないか?」
「…………………へ?」
陸に話した同じことを陸のお父さん…おじさんにも話した結果、返ってきたのは意外な言葉だった。思わず聞き返してしまう。
「え、えっと。本当にいいんですか…?」
「どうしてもというなら仕方ないもんなぁ。なぁ?」
おじさんが陸に言葉を投げ渡すが、陸は素っ気なく息を吐くだけだった。
先程、おじさんがラフな格好に着替えてから、とんかつ作りを中断した陸と、みくちゃんとおじさん。そして私がリビングに集まり、一種の家族会議のような感じになっている。
「少しの間ってのがどれくらいかはわからんが、もし数ヶ月単位になるんだとしたら、ウチに住まわせるにあたって3つの条件がある」
「条件、ですか」
当然といえば当然だ。なにせ他人の家の子供を住まわせるのだから、何かしらの制約を設けるのは当然だろう。
しかし、泊めてもらえるのならば多少の弊害は仕方のないことだ。家事を全部押しつけられるとか、お風呂の時間を制限させられるとか、ご飯の量が少なくなるとか。そのくらいなら全然耐えられる。はずだ。
右手の人指し指を立てて、おじさんは続ける。
「まずひとつ。ウチの家族になる、ということを認識することだ」
………なんか、思っていたのと違った。
「ウチに住む以上は俺たちの家族ってことになる。同級生の男が居て少し大変だとは思うが、陸とみく、それと俺と今は本州に行ってる母さん。みんなを『家族』だと意識すること。家事は陸みくのふたりと分担してやってもらうし、当然のことだが、苗字で呼び合うっていう他人行儀なのもナシだ。ここまではいいかな?」
「は、はい。がんばります!」
「陸もだぞ。コイツとかソイツとか、恥ずかしがって名前を呼ばないとかするんじゃねーぞ」
「はいはい」
「みくはその辺オールオッケーです!」
「よし偉いぞ!そんじゃ2つ目だ。」
人指し指の隣の中指を立てて、おじさんは先とは違う真剣な顔持ちで言う。
「家族になる以上、俺は君のことを自分の子供のように扱うことになる。何か仕出かせば怒るし、何か起きたら心配する。家事をサボったりとかしても、当然ウチの子らと同じように怒るからな?元が客人だからといって差別も優遇も一切しない。君に家族だと認識してもらうからには、俺も君を家族として扱う。そこをしっかり頭に入れておいてくれ」
想像以上に、ホストファミリーというのは心優しいものらしい。たぶんそういうのはまちまちで、場所や人柄にもよるのだろうが、この家はきっととても良いホストファミリーなのだろう。
陸とみくちゃんを見ていればよくわかる。お互いに自由奔放でマイペースなところはあっても、ちゃんとするところはちゃんとしている。良い親に育てられたのだということがよくわかる。
きっと、たぶん、この家を出た留学生の人たちも、同じような気持ちになったのだろう。それほどまでに、この家の人たちからは、温かい気持ちを感じた。…………陸からは少し冷めたものを感じるが。
「まぁつまり、居候という立場に胡座をかかないように注意してくれってことだ。オーケーかな?」
「お、オッケー!です!」
「よし!……それじゃあ、最後は一番大事なことだ。よーく聞いてくれ」
今まで以上の真剣な顔つきで、おじさんが言う。
「君がウチに住む以上、俺にはここの家主として君を預かる責任がある。だから、どんな理由であろうと、ちゃんとここに来るに至った理由を話してもらう。そして、どんな事情があろうと君の両親と話をさせてもらう。それが、最後の条件だ」
「────────っ」
最後の最後で、最大の難関が立ちはだかった。やはり世の中、何でもかんでも上手くはいかないようである。